第五話 絶望の底の契約
光明とは、人間がその尊厳を維持するために天から与えられた、もっとも贅沢な配給品であるのかもしれない。
それが断たれた時、いかに強靭な精神を持つ者であっても、己が五感の牢獄に閉じ込められた無力な囚人であることを自覚せざるを得ない。
大陸暦八一九年の初頭、カイルの世界から光が失われた。
それは、劇場の幕が下りるような明確な終焉ではなかった。
朝、目覚めた瞬間に、昨日まで辛うじて捉えていた窓外の緑が、どろりとした灰色の混沌に呑み込まれていたのである。
彼は何度か瞬きを繰り返したが、網膜はもはや光子を受け入れることを拒絶していた。
「……ステラ、いるのか」
カイルの声は、自らの耳にも情けないほど震えて聞こえた。
返答はない。だが、すぐそばで「チクタク」というあの規則正しい律動が聞こえ、冷たく柔らかな指先が彼の震える手に触れた。その接触だけが、彼がまだ世界に繋ぎ止められている唯一の証左であった。
絶望とは、静寂の中に潜む猛獣である。
視力を失ったカイルを襲ったのは、帝国への憎悪ですらなく、自己の存在が霧散していくような根源的な恐怖であった。
かつて戦場で数百の敵を屠った「アシャの狂犬」は、今や一歩を踏み出すことさえかなわぬ、闇に沈む幼子に成り果てていた。
「見えない……。何も、何も見えないんだ、ステラ!」
カイルは、差し出された彼女の腕を、骨が軋むほどの力で掴んだ。
彼の内面は、この数ヶ月で芽生えかけていた安らぎが、暗黒への恐怖によって再び黒く塗り潰されようとしていた。
見えない眼で、彼はかつての仇敵、銀の将軍の幻影を追った。奴を殺さねばならない。
だが、標的の姿すら拝めぬ者に、いかなる復讐が可能だというのか。
「頼む、ステラ。君は……星の民なんだろう? 俺は聞いたことがある。親父が話してくれたんだ。君たちの一族は、失われた身体さえも作ることができる『神の手を持つ職人』だと」
カイルは幼い頃、父の膝の上でうとうとしながら聞いた伝説を思い出した。
太古の昔に、高度な文明を持ち、聖都・エリュデミオンを築き上げた星の民。彼らはその長き寿命の中で、ただ一度だけ、自らの魂を分け与えることで、至高の「部品」を錬成するという伝承を。
「ここは星の民の工房なんだろう? 俺に、右目を……世界を見せてくれる『眼』をくれ。代償なら何でも払う。一生かけて払う。奴を、あの将軍を討つための光を、俺にくれ!」
カイルの懇願は、純粋な渇望というよりは、溺れる者が水面を求めてもがく断末魔に近いものであった。
彼はまだ気づいていなかった。
彼が求めている「光」の半分が、すでに復讐のためではなく、目の前にいるであろう少女の姿を見たいという、切実な愛着に変質していることに。
ステラが見たい。
自分の傍にいてくれるステラが見たい。
美しい彼女を毎朝、毎夕、ずっと見ていたい。
ステラは、長い沈黙をもってそれに応えた。
彼女は、とうとう嗚咽をもらし始めたカイルを抱き寄せると、彼の手を自らの胸の中央へと導いた。
カイルの指先に触れたのは、柔らかな乳房の感触ではない。
衣服の下、そこには冷徹なまでに硬質な、それでいて命の脈動を刻み続ける「金属の塊」があった。
――チクタク、チクタク。
その鼓動は、カイルの指を通じて彼の心臓にまで到達した。
ステラはカイルの指を借りて、自らの胸の上にくるくると文様を描いた。
それは彼女にしか解さぬ「誓約」の儀式であったのかもしれない。
彼女の瞳――カイルにはもはや見えないが――には、底知れない悲しみと、それを上回る深い慈愛が宿っていた。
彼が闇に怯えるのであれば、自らが光となって彼の中に溶けることに、いささかの躊躇もなかったのである。
ステラは、カイルの額にそっと唇を寄せた。
施される優しい口づけ。
カイルは、彼女の決意の重さをまだ知らない。
ただ、彼女の胸から伝わる金属のリズムが、自らの狂乱を鎮め、深い安らぎへと誘っていくのを感じていた。
「……作ってくれるのか、ステラ」
カイルの問いに、少女は一度だけ、彼の掌を強く握り返した。諾、という意味だった。
その夜から、工房の炉には、これまでの穏やかな火とは異なる、青白い星の炎が灯ることとなった。




