第四話 硝子細工の安らぎ
歴史という名の冷徹な観測者は、往々にして英雄の武勲や国家の興亡のみを記し、その舞台裏に流れる私的な時間を「空白」として切り捨てる傾向がある。
しかし、大陸暦八一八年の暮れ、砂漠の最果てにある名もなきオアシスの工房で流れた時間は、一人の少年の魂にとって、如何なる歴史的転換点よりも重大な意味を持っていた。
少女はステラといった。
カイルの手のひらに名を書いた。
エリュデミオンの廃都から逃れたカイルとステラが辿り着いたのは、翠緑の衣を纏った無人のオアシスであった。そこには、星の民の末裔が代々受け継いできたという、石造りの古びた工房が佇んでいた。
カイルにとって、そこでの生活は「逆説」の連続であったといえる。
戦場という、生命が最も安価に取引される場所に身を置いてきた彼にとって、朝の光の中で供される一杯の清廉な水や、ステラが森から摘んでくる野生の果実の甘みは、むしろ毒素のように彼の感覚を惑わせた。
「……なぜ、俺を助けた」
ある日の夕暮れ、工房のテラスでカイルは問いかけた。
彼の左目の視界は、もはや黄昏の光を捉えるのが精一杯であり、ステラの姿は銀色の陽炎のように揺れている。
ステラは答えず、ただ静かに彼の隣に座り、薬草を調合する手を休めて、彼の荒れた手をそっと握った。
彼女の指先は、砂漠の熱気の中でも常にひんやりとしており、そしてかすかな硬質さを伴っていた。
カイルの耳に届くのは、彼女の胸の奥から響く規則正しい音である。
――チクタク、チクタク。
それは生命の鼓動というには人工的であり、機械の律動というには情熱的な響きを持っていた。
カイルは、彼女が「人間ではない何か」であることを確信していたが、それを恐れる感情はなかった。
むしろ、その金属的な音こそが、混沌とした彼の精神を鎮める唯一の錨となっていたのである。
ステラは言葉を発しない代わりに、その行動のすべてをもって慈愛を体現した。
カイルの失われた右目の傷痕を、彼女は毎日、清浄な水と薬草で洗浄した。
傷を負った直後から、カイルにとってその場所は「恥辱と敗北の刻印」でしかなかったが、彼女の細い指が触れるたび、そこにあった憎悪の熱が、少しずつ静まっていくのを感じた。
復讐。報復。掃討。必滅。
これらの二文字こそが、この五年間のカイルを支えてきた背骨であった。
帝国を、将軍を、そのすべてを地獄の業火で焼き尽くすことだけが、彼の生きる目的であった。
だが、この静かな工房でステラと彼女が見つめる「世界」に触れるうち、彼の背骨を成していた氷の芯は……ゆるやかに解け始めている。
(俺は、何をしている……。奴らへの憎しみを忘れて、このままここで光を失って……一体どうなれと)
内なるカイルが咆哮する。
ステラが差し出す温かなスープの香りが、その叫びを優しく包み込み、窒息させる。
彼女は時折、工房の奥で不思議な作業に従事していた。
様々な色の硝子や、見たこともない魔導金属を研磨し、光の粒子のような細い鎖を編みあげる。
その手つきは、常人のものとは思えない。
彼女は何かを作ろうとしている。
カイルは、彼女の作業をぼんやりとした視界で眺めながら、自身の無力さに打ちひしがれて涙を流した。
視力が失われていく。
それは、ステラの美しい指先が見えなくなることであり、彼女が慈しみを持って整えているこの工房の風景が消えることであった。
ある夜、カイルは彼女の背中に向かって叫ぶように言った。
「ステラ……俺は、もうすぐ何も見えなくなる」
暗闇への恐怖が、かつての勇猛な傭兵をただの臆病な少年に引き戻していた。
ステラは作業の手を止め、滑るように近づいてきた。
そして、カイルの頭を包み込むように抱きしめた。
彼女の胸の「チクタク」という音が、カイルの耳元で激しく、そして優しく鳴り響く。
後世の歴史家は、この時期のカイルの沈黙を「戦士の休息」と呼ぶかもしれない。
実際には、それは嵐の前の静けさであり、一人の少女が自身の命を天秤にかけて「奇跡」を錬成しようとする、峻烈なる覚悟の時間であった。
カイルの内面で、復讐という黒い炎が、ステラという銀の月光に飲み込まれていく。
その変化こそが、やがて来る残酷な結末への、唯一の、そして最大の伏線となるとは、この時のカイルには知る由もなかったのである。




