第二話 隻眼の傭兵、這い寄る闇
平和とは、戦争という巨大な惨劇の幕間に過ぎない。
後世の歴史家が冷徹な筆致で記すこの箴言を、当時十七歳のカイルは、身をもって知ることとなった。
アル・サフィアの虐殺から五年。
かつての無垢な少年は、砂漠の風に晒された岩石のように、無慈悲な歳月によって荒く削り出されていた。
彼は反帝国組織の末端に身を置き、傭兵として戦場を渡り歩いていた。
戦場において彼を突き動かしていたのは、正義感でも愛国心でもなく、ただ「帝国」という巨大な歯車を一個でも多く噛み砕こうとする、狂おしいまでの復讐心であった。
人々は彼を「アシャの狂犬」と呼んだ。
その戦いぶりは、生存を目的とするそれではない。
自身の命を削り、その火花で敵を焼こうとする、自裁的な攻撃性に満ちていた。
大陸暦八一八年、帝国軍の補給拠点である「蛇の喉」砦を巡る攻防戦。
カイルは、一個小隊のみで堅牢な城壁を突破するという無謀な任務に従事していた。魔導砲が空を裂き、鉄の雨が降り注ぐ中、カイルの双眸はただ一点、敵軍の旗印だけを捉えていた。
「退くな! 恐怖は砂に埋めてこい!」
カイルの声は、戦場の咆哮にかき消された。
彼が城壁の狭間に足をかけたその瞬間、運命という名の神は、再び彼に過酷な試練を課したのである。
帝国の新型魔導榴弾が、彼の至近距離で炸裂した。
轟音。衝撃。そして、視界を覆う白銀の閃光。
カイルが次に意識を取り戻したのは、焦げた火薬の臭いと、鉄の錆びたような血の匂いが充満する野戦病院の天幕の中であった。
「……気づいたか、狂犬」
軍医の声は、どこか遠くから響く砂嵐のように聞こえた。
カイルが上半身を起こそうとすると、顔面に激痛が走った。右目には幾重にも包帯が巻かれている。その奥には、もはや光という概念が存在しないことを彼は直感的に悟った。
「右目は諦めろ。魔導の火が炸裂したんだ。眼球そのものが、もはや形を成していない」
カイルは沈黙した。
嘆きも、怒りも、彼の心には湧かなかった。
ただ、復讐という名の地図を半分奪われたような、実務的な不便さだけが彼の胸を鋭く刺した。
だが、真の絶望は、右目の喪失そのものではなかった。
「……左目はどうなってるんだ?」
カイルの問いに、今度は軍医が沈黙した。それが、何よりも雄弁な回答であった。
カイルの残された左目には、薄い膜が張ったような霞がかかっていた。
砂漠の民が最も恐れる風土病「砂盲」――。
極度の乾燥と、魔導兵器から放出される汚染物質が網膜を蝕む不治の病である。
「砂盲か」
「おそらく。今後、進行は早まると思われる。右目を失ったことで、左目への負担が増すからな」
「……あとどのくらい持つんだ」
「さあな。わからん」
軍医が去った後、カイルは暗い天幕の中で一人、自身の掌を見つめた。
見える。まだ、五本の指の輪郭は判別できる。
だが、いずれ、その輪郭は陽炎のように揺れ、時折、視界の端から黒い染みが浸食してくる……。
彼は戦慄した。
死を恐れたことは一度もないが「見えなくなること」は、彼にとって「復讐の手段を失うこと」と同義であった。
視力を失えば、あの銀の甲冑の将軍を、その喉元を、自らの手で切り裂く瞬間を見届けることができない。
暗闇の中で、ただ無力に手を振り回し、かつての仇敵に嘲笑われながら死んでいく未来。その光景を想像するだけで、カイルの心は凍った。
「……見せろ。見せてくれ。俺に、奴を殺すための光を」
カイルは独りごちた。その声は震えていた。
数日後、彼は包帯を巻いたまま、病院を脱走した。
軍隊という組織にいたところで、失明と同時に足手まといとして放逐されるのは目に見えている。
彼は、砂漠に伝わる古き伝説、あるいは禁忌の知恵の中に、自身の光を繋ぎ止める術があるのではないかという、藁をも掴む思いで流浪の旅に出た。
帝国に追われ、病に蝕まれ、一歩ごとに視界が狭まっていく。かつて彼が愛した琥珀色の砂の海は、今や彼を呑み込もうとする底なしの泥濘のようであった。
しかし、歴史の皮肉というべきか。あるいは星々の導きというべきか。
視界がわずか数メートルにまで狭まり、絶望が彼の心臓に鋭い爪を立てたその時、カイルは、地図にも載っていない、時間の流れから見捨てられたような「廃都」へと迷い込むことになる。
そこには、失われた右目を補うための「物」ではなく、彼の魂そのものを造り替えることになる「彼女」が待っていた。
後世の史家は、この邂逅を「世界で最も美しい奇跡」と称賛するか、あるいは「最も残酷な悲劇の序曲」と嘆くかで、意見を二分することになるのである。




