第十話 砂漠の果て、見えない君
大陸暦八一九年の初夏。
砂漠の最果てに、一人の男が立っていた。
かつて「アシャの狂犬」と呼ばれ、復讐という名の渇きに喉を焼いていた少年、カイルである。
今の彼の佇まいに、かつての荒んだ面影はない。
その右目には、宇宙の深淵を凝縮したような銀色の輝きが宿り、左目もまた、義眼から供給される魔導の恩恵により、超常的な視覚を取り戻していた。
ステラの心臓を核として産み落とされた「世界最古にして至高の義眼」は、カイルに人類の限界を超えた視界をもたらした。
彼は、地平線の彼方を走る一頭の砂羚羊の毛並みさえも数えることができ、千里の先にある帝国の王都、その黄金の尖塔に止まる一羽の鴉から抜け落ちる羽根をも捉えることができた。
それどころか、物質の背後に流れる魔導の脈動や、大気の揺らぎ、迫りくる砂嵐の予兆さえもが、彼の脳には色彩を持った情報として流れ込んできたのである。
「……見える。すべてが、残酷なほどに」
カイルは独りごちた。
声は砂漠の風にかき消されたが、彼の右目は、かつての仇敵である帝国将軍が、今まさに王都のバルコニーで凱旋の美酒を煽っている姿を映し出していた。
復讐を遂げる。
そのための力は、今や彼の掌中にあった。
この眼があれば、帝国の防衛網の隙間を縫い、将軍の心臓を正確に貫くことは造作もない。だが、カイルの手が剣の柄にかかることはなかった。
なぜなら、彼がその驚異的な視力で世界を眺めるたび、網膜の裏側には、この義眼を彩色した際に定着された「ステラの記憶」が重なって見えたからである。
彼女が見せたかった世界。
それは、流血と憎悪に彩られた地獄ではなく、風が砂を撫でる音、夜のしじまに輝く星々の瞬き、そして人が誰かを愛おしいと思う、その瞬間の輝きであった。
復讐のために光を求めた少年は、光を手に入れた瞬間に、復讐という行為の空虚さを悟ったのである。
彼女の命という、重い代償を支払って得たこの「眼」を、再び憎しみの道具として汚すこと。
それこそが、ステラに対する唯一にして最大の裏切りであると、彼は理解したのだ。
帝国の将軍がその後、内部の権力闘争によって失脚し、血と汚泥の闇に消えていったことは、後世の記録が物語るところである。
カイルが手を下すまでもなかった。
歴史という名の巨大な歯車は、一個人の復讐心など介さずとも、その傲慢さを等しく粉砕していくのである。
その後、生き残った砂漠の民の間では、不思議な噂が流れるようになった。
一族を滅ぼされた「砂の王」は、星の瞳を持ち、砂漠の果てから世界の安寧を見守っているという。
彼は争いを好まず、ただ迷える旅人をオアシスへと導き、飢えた者に水や果実を与えて休ませ、沈黙のうちに去っていく。
カイルは独りで歩き続けた。
彼の右目は、今もなお「チクタク」と、彼女の鼓動と同じリズムを刻み続けている。
彼は、万里の先を見渡すことができた。
地中の奥深くを流れる水脈も見えた。
雲の向こうにある、真昼の星さえも捉えることができた。
しかし、いかに眼を凝らし、砂漠の果てまで、あるいは空の深淵までを探索しても、たった一つだけ、どうしても見つけることができないものがあった。
それは自分を抱きしめ、微笑んでいた、あの銀髪の少女である。
どれほど視力が研ぎ澄まされようとも、彼女自身の姿だけは、義眼に映ることはなかった。
なぜなら、彼女は「見る対象」ではなく、彼と世界を繋ぐ「光」そのものとなってしまったからである。
大陸暦八二〇年。
砂漠に短い雨が降った。
カイルは雨粒の一粒一粒が、乾いた大地を潤し、小さな芽を育む様子を、慈しむような眼差しで見つめていた。
彼の右目は、かつてないほど激しく、愛おしげに「チクタク」と鳴った。
砂漠の風が止み、満天の星が夜空を支配する。
カイルは、自らの一部となった少女と共に、明日という名の色彩を永遠に見つめ続ける。
【了】




