結婚三日前の話
嫁入りまで、後三日。
エルバイアと二人きりの時間が作れたのは、そんなタイミングでした。
私付きの侍女たちが他の用事に行っていて、護衛騎士であるエルバイアだけが庭園の東屋に座る私の側にいたのです。もちろん、侍女に用事を言い付けたのは私ですよ。わざとです。
「久しぶりね。エルバイア」
私が声を掛けますと、エルバイアは少し苦笑するように応じました。
「久しぶり、という事はございませんよ。キュリーシア様。毎日お側に立っておりますでしょう?」
「言葉を交わすのは、という事です。立っているだけでは置物と変わりませんでしょう?」
私も笑って、小さなテーブルの向こうの席を扇で指し示しました。
「座りなさい」
エルバイアは肩を竦めます。
「怒られます」
「これが、最後の機会になるでしょう。貴方と、幼馴染として会話をするのは」
私は三日後に、アシュートレン公爵家にお嫁に行きます。そうすれば、我が家で護衛騎士として勤めているエルバイアとは、もう会うこともないかもしれません。
「最後に話したいの。お願い」
私の懇願に、エルバイアは迷いながらも、席に着いてくれました。彼が、私の懇願を断った事はこれまでありませんでした。最後まで、そうしてくれると私は信じていました。
◇◇◇
エルバイアは我がコリュージスト侯爵家の親戚、モレイヤ伯爵家の子息です。三男でした。
屋敷が近くにあり、父親同士も仲が良かった事もあり、同い年のエルバイアは子供の頃、頻繁に我が家に遊びに来ていたのです。
お互い、貴族の子でしたけども活発な質でしたから、私とエルバイアはお庭を駆け回って遊びましたよ。他のご令嬢が我が家に来ることもありましたけど、私はエルバイアと遊ぶのが一番楽しみでした。
……でした、ではありませんね。今でもです。今でも、私はエルバイアといる時が一番楽しくてリラックス出来ます。隙を見せられないご令嬢方とのお茶会よりも、常に皆様の注目を意識しないではいられない夜会よりも、婚約者のアシュートレン次期公爵にお会いする時よりもです。
幼少時に池に落ちて二人で泣いたり、二人でロバに乗せられて笑い合ったり、疲れたらベッドで抱き合って二人で眠ったり。そういう風に仲良く育ったのですもの。彼の前では今更「侯爵令嬢でございます」と取り繕わずにいられるのです。そのような相手はエルバイアの他に居ませんでした。
さすがにそんな風にして遊んだのは十歳くらいまででしたけどね。それ以降は私は淑女教育が本格化いたしましたから。私はコリュージスト侯爵家の長女です。なるべく高位の、出来れば王族に嫁ぐ事が生まれた時から期待されていました。
一方、エルバイアはモレイヤ伯爵家の三男です。貴族の三男など家のものは何一つ引き継げないと考えなければなりません。
貴族身分さえ引き継げません。結婚して家を興す場合は平民になります。例外的に、貴族の家に婿入りすれば貴族身分を保てるかもしれませんが、そういう婿入りの口は身分の高い順に埋まって行くものですからね。伯爵家の三男にはなかなか回ってこないでしょう。
エルバイアは十二歳の時に騎士団入りして見習い騎士になりました。騎士として立身出世して、貴族として家を興すことを考えたのでしょう。騎士や官僚になって王国に貢献して、貴族身分を賜る事を目指すのは、貴族の次男以下にとってはごく普通の選択です。
そして正騎士になった十五歳の時に、エルバイアは我が家に雇われて私の護衛騎士になったのでした。
……それから、四年ですか。
私は軽くため息を吐きました。エルバイアを見つめます。騎士らしく短く刈られた茶色い髪。端正な顔立ち。鋭い、紺色の瞳。
彼を見ていると落ち着きます。彼に見られていると安心できます。
彼が護衛騎士になった時は喜びました。幼馴染として気安く、気が抜ける存在でしたからね。彼は。私は時折、彼だけを連れ出してお庭の散策をしたり、彼に馬を操らせてその後ろに横座りで乗ったりしました。
子供の時のように遠慮のない言葉で「エル」「シア」と呼びあい、令嬢らしからぬ言葉遣いで話すのは、とても楽しい事でしたよ。お父様やお母様にも言えない相談も、彼になら出来ました。
淑女教育、堅苦しい令嬢同士のお付き合い、迂遠で優雅を尊ぶ割にギスギスしてものすごく疲れる夜会。そういう色々と神経をすり減らす日常の中で、エルバイアが側にいてくれた事は何よりの慰めになったのです。
エルバイアはお父様のお話によれば優秀な騎士だそうで騎士団長の覚えもめでたく、お父様の後押しがあれば出世は確実。おそらく貴族、男爵か何か明確な手柄があれば子爵としてお家を興す事になるだろうとの事でした。
お父様はエルバイアが子供の頃から彼の事を気に入っていましたからね。私に妹が何人かいれば、彼と娶せる話が出たかもしれません。私には結局妹は生まれませんでしたけど。
「……貴方もそろそろ結婚を考えたら? エル。恋人はいるの?」
私の問いにエルバイアは肩をすくめました。
「そんなこと、君に心配されるような事じゃないよ。シア。大丈夫。いざとなれば簡単に相手は見つかるさ」
彼の言葉がチクっと胸に刺さりました。侯爵であるお父様に気に入られ、護衛騎士として雇われているエルバイアは騎士の有望株です。かなりモテているとは聞いていました。
「なら私の護衛なんてせずに毎晩夜会に出てお相手を探したら良いでしょうに」
「私は一介の騎士だからね。もっと出世してからじゃないと良い相手も見つからないよ」
そもそもエルバイアはまだ十九歳。貴族男性は二十五歳くらいで結婚するのが普通です。同い年の私が結婚するからといって焦る必要はありません。
ですけど、私はちょっと悔しい思いを込めて言いました。
「出世するならもっと早くに出世すればよかったのに」
するとエルバイアは目を細め、自嘲するような口調で言いました。
「そうだね。大戦争でもあれば大出世して君を娶れるくらいの身分になれたかもしれないのにね」
彼の言葉に、私の息が詰まりました。思わずエルバイアの事を凝視してしまいます。彼は目を細めて、眩しいものを見るかのような目付きで、私の事をジッと見ていました。
「……そんな事を考えていたのですか?」
「ああ。騎士団に入った時からずっと。そう夢見ていたよ」
……夢物語です。エルバイアは貴族でさえない伯爵家の三男の騎士。私は侯爵家の長女です。身分が圧倒的に違います。その身分差を埋める程の手柄なんてどんなものになるか、想像も付きません。
「まぁ、このところ戦争の気配すらないし。所詮は夢は夢だよ。後は側でずっと君を護る事が出来れば満足だったけど、それも叶いそうにない」
私の嫁入り先はアシュートレン公爵家です。我が家より身分高い王族なのです。そのため、私が嫁入り時に連れて行ける家臣は、最側近の侍女が二人だけという事になっていました。
「……公爵家の護衛騎士になればいいではありませんか」
「あんなに良くしてくださるコリュージスト侯爵を裏切るような真似は出来ないよ」
エルバイアの忠誠はお父様の元にあるようです。
「……私と結婚したかった、のですか?」
微妙な質問になってしまいました。愛してくれているのか? とかなんとなく聞けなかったのです。エルバイアも首を傾げるようにしながら答えました。
「どうかな。正直、単に君と離れたくなかった。一緒にいたかったというのが本音かな? 君と過ごした日々は本当に楽しかったからね」
エルバイアの言葉に、私は胸を強く突かれました。図星でした。彼の想いは正に、私の想いそのままでした。そう。私はエルバイアと結婚したい、夫婦になりたいと、真剣に思っていた訳ではなかったのです。
ただ、このままの関係が、彼との気のおけない関係が続けばいい。窮屈な大人の貴族生活の逃げ場として、彼との関係があればいいと思っていたのです。
そうでなければあっさりアシュートレン次期公爵と婚約したりはしませんでしたでしょう。次期公爵と結婚する事で私は王族になり、我が家は王族の近しい係累になります。これ以上ない良縁であり、お断りする選択肢などあり得ませんでした。
私だって社交界入りしてから、一流の淑女になるべく頑張ったのは、出来るだけ良い家に嫁入りするためでした。アシュートレン次期公爵は正に同世代最高位の独身男性貴族です。その彼の元に嫁入りする事は、数多の貴族令嬢との争いを勝ち抜かねば出来ない事でした。
私は望んで公爵家に嫁入りするのです。婚約したのは一年も前のことです。婚約者の次期公爵はお優しくて頼り甲斐のある方ですし、婚約期間中に不満を覚えた事もありません。
ただ、なんとなく、本当に少しだけ、エルバイアとの関係に、幼馴染としての関係に未練があった。それだけだったのです。
それをエルバイアの言葉で自覚してしまって、私はかなり動揺しました。本当は、私はもう少し、彼にはっきりした想いを抱いていると思っていたのです。
幼少時より彼の事が好きで、彼を慕っていました。身分差を知り結ばれない関係だと知ってからも、私は彼を想っているとずっと思っていました。そして彼も、私が好きなんだと感じていました。
都合の良い話です。そう考えながら私は婚活に励んだのですからね。貴族令嬢にとって結婚と恋愛が別であるのはよくある事です。しかしそれでも、私は身分が違うのだから結ばれないのは当然、と考えて、エルバイアへの想いを置き捨てたのです。
それが嫁入り直前の今になって心残りになって、未練がましく彼の方はどう思っているのか知りたがったのですから、勝手極まる話ですよね。……それで分かりました。私のそのふにゃふにゃな、筋の通らない考えは、エルバイアに見透かされているのでしょう。
私の事を誰よりも良く知るエルバイアですからね。私が彼に懇願してテーブルに着かせた時点で、私の考えなどお見通しだったのでしょう。
それに気が付いた私はエルバイアを睨みます。
「狡い人ですね。貴方は」
エルバイアはフフンと笑ってみせました。
「ウソじゃないさ。本音だよ。君が私を結婚相手として見なかったように、私も君を結婚相手として真剣に考えた事はなかった」
身分が違い過ぎて、結婚出来ないことは最初から分かっていた訳ですしね。お互いにどこに訴えても、結婚出来る方法などないことなど分かり切っていました。
「……平民になる気なら、結婚出来ない事もなかったでしょう?」
実際、身分違いの恋に苦しんだ挙句、そうして駆け落ちしてしまった貴族の男女はたまに聞きます。彼が私を連れて逃げてくれれば……。しかし、エルバイアはまた鼻で笑いました。
「君のような生粋のお嬢様に平民生活が我慢出来るものか。すぐに私を恨んで詰るようになるに決まっている」
それもそうですね。私はすぐに納得します。私は生まれながらの侯爵令嬢です。侍女も執事もそれどころか下働きもおらず、水汲みさえ自分でやらねばならないという。平民生活が我慢出来るとは思えません。
不遇に耐えるには私の彼への愛情は浅過ぎました。もっと熱烈に、強烈に彼を愛していると言えたのであれば、どんな不便で辛い生活にも耐えられると思えたでしょう。私は結局、そこまでは彼の事を愛していなかったのです。
私は椅子の背もたれに身体を預けました。がっかりしたんだか、安心したんだか。なんだか力が抜けてしまったのです。気を削がれたと言いましょうか。私は今日ここで、一世一代の愛の告白をしようと思っていたのですからね。
そんな事をされてもエルバイアも困ったでしょう。困らせてやる気だったのです。私の事が好きな癖に、黙って私の側に付き従って、私がどんな貴公子と仲良くしていても笑顔を絶やさず控え、それでいて私の愚痴や不満をずっと受け止めてくれた。
そんな世界一信頼出来る男性である彼に、私の愛を訴え彼の愛に報いたかったのですよ。
それが、先に言われてしまいました。私の事が好きで、結婚したいとも思っていたけど、それは熱烈な愛情ゆえではなく、どこかぼんやりした感情のためであると。そして「貴女もそうでしょう?」と無言で言われてしまった。納得させられてしまった。
馬鹿な男です。確かに私の想いはその程度だったのでしょう。嫁入りが近付くにつれて膨れ上がる様々な不安が、信頼出来る彼への淡い想いを膨れ上がらせただけに過ぎなかったのでしょう。
ですけど、きっと、彼の想いはそうではないのです。
「騎士として出世を目指すなら、近衛騎士を目指すべきだったでしょうに」
騎士のエリートは王宮にお仕えする近衛騎士です。見習い時代から優秀さを知られていたらしいエルバイアなら十分に近衛騎士になれたでしょう。
それなのに彼は我が家の護衛騎士になりました。戦時には騎士団に戻るとはいえ、近衛騎士よりも出世し難くなるのは間違いありません。
「出世より、私の側にいることを選んだという事ではありませんか」
「そうでもないよ。コリュージスト侯爵から個人的な支援を受けた方が、近衛騎士になるより出世が早くなるかもしれないから」
それは結果論であって、本来の目的ではなかったと思います。彼が我が家の護衛騎士になるにあたっては、エルバイアの方から熱心な働き掛けがあったと聞いていました。
我が家の護衛騎士になってからの仕事ぶりは献身的で、同僚の護衛騎士からも高く評価されていました。そうでなければ幼馴染とはいえ、新米の彼が私の護衛騎士に抜擢される事はなかったでしょう。
最初から、私の側にいることを目標にしてくれていた、と思うのは私の自惚れなのでしょうかね? 私を嫁に出来るほどの出世は望めないから、せめて少しでも私の側にいるために、最善を尽くしてくれたのだと、私は思いたかったのかもしれません。
……そんな事を思ってどうしようというのでしょう。
彼がそれほど私の事が好きじゃなかった。お互い本気ではなかった。単純に幼馴染の心地よい関係から離れたくなかった。それで良いではありませんか。私はもう三日後には公爵家に嫁に行く身です。エルバイアと結ばれないのは分かり切った事ではありませんか。
私だってもう彼に「何もかも捨てて私と逃げて欲しい」なんて言えません。私自身がそこまで思い詰めていないのです。それは分かり切った事でした。彼に愛してるなんて、もう言えません。
なのに、私は彼に、私を愛して欲しかった。熱烈に想って欲しかった。そんな勝手な想いを抱いていたのです。そしてそれは、エルバイアにはお見通しなのだろうと思えるのです。
エルバイアは言いました。
「お幸せに。シア。大丈夫だよ。君は幸せになれる。そして私も多分、幸せになる」
嘘偽りのない、祝福の言葉でした。とっくに彼の中では色々整理が付いているのだと思います。でなければ私と婚約者のデートに涼しい顔で付いてきて、すぐ側で護衛をするなんて事は出来なかったでしょうからね。
整理が付いていないのは私の方でした。私はどうも、私が結婚して幸せになるのは良いとして、彼に私以外の誰かと結婚して幸せになって欲しくないようなのです。
勝手な話で勝手な嫉妬です。自分が彼と結婚する気もないくせに、彼を独占したいなんて。
それでいて、彼を結婚後に愛人に囲おうとか、不倫で恋人として付き合い続けようとか。そういう事は考えませんでした。そんなの、エルバイアが応じてくれる筈がありません。それは、なんとなく分かります。
「気に入りませんわ。貴方に、何もかも見透かされているようで」
「そうでもないさ。私が知っているのは君の本当の望みだけだ」
私の本当の望み? 私は思わず目を瞬いてしまいます。なんですかそれは。エルバイアは苦笑するように唇を歪め、こう言いました。
「君は、何もかもを手に入れたいだけだ。欲張りなシア。でも、今回ばかりはそういう訳にはいかないんだよ。諦めるんだね」
……そうかもしれません。私は生まれてからこのかた、欲しい物が手に入らなかった事はありませんからね。ですから、私の望むモノは全て手に入って当然だと、思ってるのかもしれません。
なるほど。私は公爵家への嫁入りと同時にエルバイアの事も同時に欲しがってるのです。単に欲しいだけなのです。そう言われて、なんだかしっくり来ましたね。確かに私は強欲なようです。
「私に、我慢しろと言うのですね」
エルバイアは今日この時まで、私の懇願を断った事はありませんでした。私の我儘をなんでも聞いてくれました。
「そうだね」
その彼が、私の想いを強欲だと断じ、我慢せよと言ったのです。て酷い裏切りでした。それで、私は彼に想いを告げれば、彼は応えてくれると傲慢にも思い込んでいた事に気が付いたのです。
なるほど。私は強欲でした。
「……貴方も意外に強欲ですね。エル」
私が言うと、エルバイアは僅かに動揺を露わにしました。
「どうしてそう思う?」
「だってそうでしょう? 貴方もどうせ私が嫁に行っても自分の事は忘れて欲しくない、なんて都合のいいことを考えているのでしょうから」
エルバイアは明確に苦笑しました。図星だったのでしょう。
私たちはお互いに強欲にも、結ばれる事は出来ないしする気もないけど、それでも自分の事を想っていて欲しい。忘れないで欲しいなんていう、都合の良い愛情を求めていたのです。
呆れてしまいますね。私も、エルバイアもお互いに顔を見合わせて笑ってしまいました。声を上げて、目に涙を浮かべて笑いましたよ。
「……良いのではありませんか。私も貴方を忘れません。貴方も、私を忘れないで下さいませ」
私の言葉に、エルバイアは少しだけ苦痛に耐えるような表情を浮かべ、一転して晴れやかに笑いました。
「分かった。約束しよう。私はシアを、シアを好きだった事を忘れまい」
「私も、エルを慕っていた事は、忘れませんよ」
私はテーブルの上に右手を差し出しました。僅かな躊躇の後、エルバイアは私の手を取ります。そして、ジッと白手袋に覆われたそれを見詰めていました。
やがて彼は、私の手の甲に軽い接吻をして、私の手を離します。私は無言で頷いて、彼が接吻をした場所をに目を落としました。
そしてエルバイアは静かに立ち上がると、私を見守る位置で、いつも通り直立不動の姿勢を取ったのでした。
 





