あなたからのお誘いは私にとっては拷問です!
アキームは苛立っていた。
「だから! ランチに食堂に行くって言ってんの。一緒に行くだろ? 婚約者なんだから」
ロクサーヌは困惑していた。
「いえ、ですから、なぜ今」
「だーかーらー! 俺たちは婚約してるだろ? ランチに一緒に行ってやるって言ってんだよ。さっさと動けよ」
「なぜ、あなたのお誘いを私が喜ぶ前提で話を進めているのですか?」
「いやいやいや、お・れ・が! 誘ってるのに嬉しくないなんてことある?」
「嬉しくなんてないです!」
「は?」
「そもそもアキーム様との婚約は白紙に戻っています。今はもう婚約者ではありません。それに私はアキーム様に好意を持っておりません。一緒に食事をするなど、拷問と変わりありません」
「拷問……白紙?」
「二週間くらい前に白紙になりました。常々私に対するご不満がおありだったのでしょう? 聞いております」
「俺が? そんなこと言ったことあった?」
「アキーム様ではなく代わりの方から」
「代わり?」
「ええ、アキーム様の代わりにお気持ちを綴られたというお手紙を何度かいただいておりました。先日は直談判に来たと仰るケイトリン様が『アキームは私が好きなの。さっさと諦めて! 図々しい! アキームが可哀想!』などと」
「ケイトリンって俺の従姉妹のケイトリン?」
「コンキエッレ伯爵家のケイトリンと名乗られました。従姉妹の方でしたか」
「会う機会などあったか?」
「屋敷に突然いらっしゃいまして」
「屋敷に?」
「ええ。学園がお休みの日に先触れもなく」
「恐らく彼女は善意で訪ねていったのだろう。彼女はそういう人なんだ。お前と違ってな」
「婚約に関係のない第三者が破談を迫る意義とは何でしょう」
「意義だの何だの相変わらず頭でっかちな事を言う。お前は知らないだろうがな、俺は婚約希望が殺到している人気の伯爵令息なんだぞ? お前以外にも婚約を望む声は多いのだ。何が言いたいか分かるよな?」
アキームは見目麗しく整った顔立ちをしていて人気がある。しかし婚約者であるロクサーヌへの態度を知る者からは評判が悪く、評価が二分している男であった。本人は賛辞しか聞こえてこない便利な耳を持っていた。
「ですから、私があなた様との婚約を望んだことなど一度もございませんと何度もお伝えしております。なぜご自分との婚約を私が喜んでいる前提で話を進めるのでしょうか? あなた様は嫌がらせばかりで、私を好んでいらっしゃるご様子もありませんでした!」
「やっぱりケイトリンの言う通りだ。俺に相手にされなくて拗ねてしまったのだろう? だから一緒に食堂へ行こうと言っているんだ。それで全て解決するんだ」
「ケイトリン様とご婚約されるのではないのですか?」
「お前という俺を愛する婚約者がいるのにか?」
「ですから、愛してなどいません!」
「いい加減恥ずかしがってばかりでは話が進まないぞ?」
「そもそも、私を昼食にお呼びになるのは接待のためですよね?」
「接待だなんて心外だ。俺が世話になっているハンス様のお食事の時間に、ただ彩りを添えるだけの簡単な仕事じゃないか! 未来の公爵であらせられるハンス様と食事ができるなんてお前も嬉しいだろう? 女というだけでハンス様を喜ばせることができるなんて羨ましいよ。前回お前がハンス様に無礼を働いた件も不問にしてくださるんだぞ! ちょっと個室で会おうとしたくらいでピーピー吐かしやがって! 俺の顔を立てろよ! 婚約者の俺をよぉ!」
「ハンス様には婚約者のメリア様がいらっしゃいます。メリア様から同席は不要と申し付けられております」
「何言ってんだか。女の意見なんて本音は真逆なんだから、ハンス様を一緒に盛り立てようって意味だろ? 鈍感だなぁ」
「もういいです。ランチは諦めます」
「授業なんていいから、とにかく食堂へ行こう。ハンス様が個室を借りてくださったんだ」
「アキーム、聞き捨てならないな」
数学教師のルートヴィヒがアキームに声をかけた。
ルートヴィヒは三年前に王立学園を卒業後、そのまま学園の教師になったカンタブレ公爵家の三男。今は各学年のSSクラスで教えている。この学園では学年ごとに成績順でSS、A、B、Cのクラスがあり、試験の度にクラスメイトが入れ替わる、完全実力主義なクラス分けで有名だった。ルートヴィヒは在学中も、そして教師になってからも『SSクラスしか知らない男』と本人の知らない所で言われていた。
「ルートヴィヒ先生、俺は婚約者を躾けていただけです」
「躾ける? 婚約者を?」
「はい。ロクサーヌと婚約者同士親交を深めようと誘ったのですが、理解できなかったようでなかなか動かなくて。困ったものです」
「アキームが言う『ロクサーヌ』とは、どちらのロクサーヌ嬢のことなんだ?」
「ロクサーヌ・エクヴィルツです」
「ああ、こちらのロクサーヌ嬢のことか。しかし異な事を。彼女は僕の婚約者だ。そもそも他家の者を躾けるなどと烏滸がましい物言い。恥を知りなさい」
「いえいえ、何を仰いますやら。あなたにとっては単なる教え子ですよね? その女は三年前から俺の婚約者です」
「もうやめてください! 念願叶ってやっと白紙になったのに」
ロクサーヌは声を荒げた。
ルートヴィヒはロクサーヌの肩に手を置いて微笑みかけた。
「ローヌ、大丈夫だから。ここは僕に任せて教室に戻っていて。あと、クラスのみんなに僕が行くまでは自習をするように伝えてほしい。間に合うとは思うけど、念のため。あとこれ、クッキーをどうぞ。何か少しでも食べた方がいい」
「ルー様、ありがとう。あなたには何でもお見通しですね。大好きです」
ロクサーヌはルートヴィヒの頬に口付けを送ると、幸せそうに微笑んだ。アキームには一瞥もくれず、腕輪を認証用プレートにかざし、教室の中へ入って行った。
「なんだよ! やりゃあ出来んじゃん! それをハンス様にしたらいいんだよ。出し惜しみしやがって。減るもんじゃないんだからさっさとやりゃあいいのによ」
アキームは顔を歪めた。アキームとロクサーヌが話をしていたのは学園のSSクラスの前の廊下。各生徒は認証用の腕輪を付けており、対象クラス以外の生徒は入室できない。
他学年のBクラスの生徒であるアキームは昼食前の授業をサボってロクサーヌを待ち伏せていた。しかし交渉は決裂。言うことを聞かなかったロクサーヌへの苛立ちを隠そうともしないアキーム。
以前ハンスとのランチ時に、ハンスの隣に座らされたロクサーヌに、ハンスの頬へキスをするように伝えて断られたことがある。アキームはロクサーヌが去った方向を不愉快そうな顔で睨んだ。
「アキーム、二週間前にロクサーヌの婚約者は君から僕に変更された。Bクラスから上がる気配がない上に、ロクサーヌへの横暴な振る舞い。しかも婚約の利点だったはずの事業計画は詐欺まがいのものだった。どこにエクヴィルツ侯爵家に望まれる要素があるのか教えてもらいたいものだ」
ルートヴィヒはアキームを見下ろした。頭一つ分くらいルートヴィヒの方が長身だ。
「ロクサーヌは家のために嘘をついているんです。だってロクサーヌは俺を愛しているとケイトリンが言っていました。素直になれずにただ俺への思いを拗らせているのだと。女ってそういうものなんだそうです。それにロクサーヌが俺を愛しているから結ばれた婚約です。俺は望まれた側。俺の言うことを聞いて、俺を喜ばせるための存在。それがロクサーヌです」
「ケイトリンは君の従姉妹だそうだな?」
「はい。従姉妹であり、幼馴染です。コンキエッレ伯爵家の長女です」
「なぜそちらに婿入りしないんだ?」
「ケイトリンは俺に相応しくないので」
「どのような点が?」
「まず見た目に問題があります。全てがロクサーヌに劣り、実家に資金力がありません。その上俺より二歳も上です」
「婚姻後仕事を任せられそうなロクサーヌは便利で、見た目も好み。実家は裕福で、一人娘の彼女と結婚できれば自分は実質侯爵だ、といったところか。君の本音は」
「ロクサーヌの方がケイトリンよりも価値があるんです! そんなの誰にでも分かることではありませんか!」
「ならなぜ大切にしなかった? 最初が肝心だ。力関係をハッキリさせておく方が良いとでも言われたんじゃないのか? その上なぜハンスに彼女を侍らせようとするんだ?」
「次期公爵ハンス様を誰が喜ばせるかで周囲の者の将来が決まる大切な時期です。確かにケイトリンに助言をもらって良い関係を築こうとしていましたが、ロクサーヌも俺を満足させるように努力すべきだったのではありませんか? 体の一つや二つハンス様に差し出す気概がなくてどうするんですか。それにどちらが上なのかハッキリさせておかないと健全な家庭は築けないのです」
「お互いを尊重し、支え合い、共に生きていく、そんな風には考えられなかったのか? お互いの尊厳を守り、人として幸せに暮らす。それが幸福な人としての生き方だろう」
「夫に従い、夫を敬い、夫の為に生きるのが妻という生き物の幸せなのだとケイトリンは言っていました」
「ケイトリン嬢はそうかもしれないが、ロクサーヌはどうだ? 彼女の気持ちを聞いたことがあるか? まさか自分の考えばかり押し付けていたなんてことはないだろうな」
「なぜ聞く必要があるのですか? 俺が主人になるんですよ? ロクサーヌの考えを聞く必要などありませんよね?」
「なるほど。君はそう考えるんだね?」
「一般常識だと思いますが?」
「これ以上話しても無駄だ。いずれにせよ、君とロクサーヌの婚約は解消された。これは家と家の問題だ。これ以上ロクサーヌに会おうとするのはやめてほしい。公爵家から伯爵家に抗議をすることになる。せめて理解してほしい。エクヴィルツ侯爵家はカンタブレ公爵家との縁を選んだ」
「はあ? ロクサーヌは俺の女だ! 誰にも邪魔はさせない!」
アキームはルートヴィヒに掴みかかろうとした。その手を学園の警備をしている騎士が掴む。
「現行犯です。ルートヴィヒ様、お怪我は」
「僕は大丈夫。あとは頼む」
ルートヴィヒはアキームに背中を向けると腕輪をプレートにかざし、振り返りもせずに教室へ入っていった。
ルートヴィヒが教室に入ると、ロクサーヌはクッキーを食べる手を止めてルートヴィヒの所へ駆け寄って来た。
「どうでした?」
「彼はもうダメだ」
「え。何かあったのですか?」
「僕に掴みかかろうとした」
「ええ? お怪我は?」
「僕に触れる前に僕を守っている騎士が押さえてくれたから大丈夫だよ」
「アキーム様はなぜそのような愚かなことを……」
「ああ、それについては授業が終わってから帰りの馬車で話そう。ただ、四時間目は休んでサロンで待っていてくれないか? この授業の後で送らせてほしい。今日の四時間目は面談があって動けない。でも嫌な予感がするんだ」
「分かりました」
この学園では昼前に二時間、昼後に二時間授業がある。四時間目というのはその日の最後の授業の時間のことだ。試験の成績が良ければ授業に出なくても特に問題はない。ただ、授業に出ていた方が試験には有利。授業内容が色濃く反映されている試験だからだ。
侯爵家と公爵家のSSクラスの生徒のみが共用で使っているサロンでロクサーヌが読書をしながら待っていると、ルートヴィヒが慌てた様子で駆け込んできた。
「ローヌ? 無事か?」
「え、ええ。特に何の危険もありませんでしたよ」
「よかった。焦った」
ルートヴィヒは長いため息を吐いて脱力した。
「何かあったのですか?」
「ああ。アキームが騎士を振り切って逃げたとの情報があった。サロンの警備は万全だと分かってはいるが、実際に顔を見るまでは心配で」
「ルー様のご提案通りサロンで過ごしていて正解でしたね。お父様にも対応していただきますわ。何かあってからでは困りますし」
「僕も同行させてほしい。エクヴィルツ侯爵家の屋敷内まで、いや、このままうちに行こう。ローヌには負担になってしまうかもしれないが、しばらく公爵家で過ごしてほしい。エクヴィルツの警備レベルを変更するのに婚約後二週間では間に合わなかった」
「承知しました。ご随意に」
「必要な物は商人に届けさせよう」
「ご配慮感謝いたします。別室に私の侍女のコーニャと執事のタイラーを呼んでおきました」
「では今頃僕の執事のマックと打ち合わせているだろう。学園の事務局にも連絡を入れて、アキームが見つかるまで公爵家で共に過ごそう」
「お手数をおかけします」
「こんな時に何だけど、君と過ごせると思うと少し浮かれてしまっている自分がいる」
ルートヴィヒは夏休み前の少年のような眼差しでロクサーヌを見た。
「私も、です」
恥ずかしそうに上目遣いでルートヴィヒを見たロクサーヌは照れ隠しに笑った。
カンタブレ公爵家はルートヴィヒの父である王弟の為に新設された公爵家で、ルートヴィヒたち兄弟は王位継承権を有している。
ルートヴィヒはその家の三男。婚約を急ぐ必要はないと言われて気楽に暮らしていたが、ロクサーヌに出会って考えが変わった。学園で婚約者に冷遇されても毅然とした姿を何度も見るうちに彼女を守りたいと考えるようになったのだ。
エクヴィルツ侯爵にそれとなく自分を売り込んでおいたのが功を奏し、白紙になった後の後釜に収まることができた。ルートヴィヒはこの婚約を失いたくなかった。
「すまない。僕のせいで君には負担をかけてしまう」
「そんな風に仰らないでください。一つ一つ向き合っていきましょう。私も頑張ります」
「ありがとう、ローヌ。君と婚約できた僕は幸せ者だ」
「まだ二週間ですもの。この先幻滅される日が来るかもしれないと、不安な気持ちもありますのよ? ルー様は素敵なお方ですから。あなたの隣に立つことを望んでいた女性は多いですし」
「ルートヴィヒ様、お話中申し訳ありませんが、移動します。安全が確保できました」
「分かった。行こう」
安全な状況は時を逃すと変わってしまうものだ。ルートヴィヒはロクサーヌをエスコートして、サロンの隠し扉から馬車までの通路をできる限り速く移動した。
「あのような通路があったのですね。存じませんでした」
馬車に揺られながらロクサーヌは不勉強を恥じるような表情を見せた。
「女性が一人で使用するのは危ないから、信用できると認められた一部の男子生徒だけが知る通路なんだよ。例えばハンスは知らされていない。我々の間では素行不良で有名だったハンスがローヌに関心があると知った時は焦ったよ」
「そうでしたのね。私の感覚は間違っていなかったんですわ」
「無事でよかった」
「……はい」
ルートヴィヒが右手を差し出すとロクサーヌは自分の右手をそこに重ねた。ルートヴィヒは優しくその手を持ち上げると、手の甲に唇を寄せた。
「ローヌは僕が守る。初めて君を見た時から特別なものを感じていた。君と会話を交わすようになって、君の考え方を知るにつれて、愛おしいと思う気持ちを知った。君を守る権利を得られた今、君の笑顔が曇ることのないよう、尽力すると誓うよ」
「ルー様……ありがとうございます。ずっと素敵な方だと憧れていました。あなたにそう言ってもらえて夢のようです」
顔を赤くしたルートヴィヒはそれを隠すように俯いた。
「ごめん。嬉し過ぎて君を見ることができない。表情を作れなくて恥ずかしい」
「ルー様、そういう表情も素敵です。ルー様に憧れていた生徒はすごく多いんですよ? 私もその内の一人でした。ルー様に愛称で呼んでいただけて、『愛しい』と言ってもらえるなんて。アキーム様との婚約で未来に何の希望も持てなかった頃の自分に教えてあげたいです。こんなに素敵な未来が待っているのよって」
「ローヌ」
「はい。ルー様」
「この後は一緒に過ごせないけど、明日の朝一緒に朝食を食べよう」
「……はい」
頬を染めたまま見つめ合う二人。ルートヴィヒがロクサーヌはの額に口付けを落とすと、ロクサーヌは花が綻ぶように笑った。ルートヴィヒは彼女の憂いを祓うことを心に決めていた。
公爵家に到着したロクサーヌはルートヴィヒの母、ジークリットの歓待を受けた。配慮の行き届いたもてなしはロクサーヌとジークリットの関係を良好なものにした。
その夜のことだった。カンタブレ公爵家の玄関で騒動があった。ロクサーヌは屋敷の奥にいたので気付かなかった。
翌朝の食事にルートヴィヒは顔を出さず、ロクサーヌは不安な気持ちを押し殺してジークリットと共に食事をしていた。そこへルートヴィヒが駆け込んできた。
「ローヌ!」
「ルー様! おはようございます。何かあったのですか?」
「約束を守れなくてすまない。ただ、説明をする前に抱きしめさせてほしい」
「わ、分かりました。はい、どうぞ」
「母もいますよ。せめて挨拶ぐらいしなさいな。あなたがそんな風に甘くなるなんて思っても見なかったわ。なかなか婚約者を作らないから心配していたのよ?」
呆れたように息子を見るジークリットを、ロクサーヌを抱きしめたままのルートヴィヒは軽く睨む。
「おはようございます母上。母上は黙っていてください。ロクサーヌを守ってくださったことに関しては感謝しています。母上と共にいることが一番安全だという大変不本意な状況ではありましたが」
ロクサーヌを抱きしめたまま殊勝な顔でそう言う息子を見て、ジークリットは息子の変化が嬉しくなった。
「ロクサーヌさん、末永くルートヴィヒのことをお願いね」
「光栄です。私の方こそ」
「では私は席を外すわ。ロクサーヌさん、落ち着いたらまたお茶会にお招きするわ。またね」
「はい。ありがとうございました!」
食事を終えたロクサーヌとルートヴィヒは、ルートヴィヒの部屋に移動した。
「ではまず、何から話そうか」
「そうですね。昨日の侵入者の件でしょうか」
朝食時、ロクサーヌはジークリットから侵入者がいたと知らされて驚いたのだと伝えた。
「侵入者は五人。ハンス、ハンスの護衛二人、ケイトリンとアキーム」
「五人も、ですか?」
「ああ。ハンス達は観劇をした帰りで、劇場で酒をかなり飲んだらしくだいぶできあがっていた」
「まあ! お酒を? 未成年ですのに」
「酒に酔った彼らはエクヴィルツの屋敷を訪ね、追い返された。当然の対応だ。陽が落ちた後で先触れもなく、婚約を解消したばかりの家だ。相手にしてもらえず収まりの付かなかった彼らは、そのままカンタブレにやってきて大声で喚き散らした。そこには偶然騎士団がいた」
「騎士団、ですか?」
「兄が騎士団の関係者で、たまたま家に集まっていたんだ」
「凄い偶然ですね」
「ああ。でもそのせいで門が開いていたんだ。彼らはそれに乗じて玄関まで入り込んだ。護衛二人は当然帯剣していてね。護衛の二人はハンスとアキームを止めたんだが、彼らは剣を寄越せと暴れた。護衛の二人は警護対象者の暴挙に困惑が強く、騎士団が対応してくれていなかったら使用人に怪我人が出ていたかもしれなかった」
「まあ!」
「騎士団相手だから当然皆無事だったし、ハンスとアキームはすぐ拘束することができた。あの二人はしばらくは北の貴族牢に幽閉されるだろう。そこで諸々の検査を受けて社会に復帰させても大丈夫か判断されることになる。ケイトリンは庶子なんだそうで、今回のことで勘当されて町外れの施設に収容された。これまでも伯爵家に相応しくない言動が多くて困っていたそうだ。深夜に知らせを受け取ってすぐの判断だった。準備をしていたのかもしれない」
「大騒ぎになってしまって心苦しいのですが、ホッとした自分もいます。これでもう学園に通っても煩わされなくて済むと思うと……」
ロクサーヌは儚げに笑った後、込み上げた涙を見せないようにルートヴィヒに背中を向けた。ルートヴィヒはロクサーヌを抱きしめた。
後日ルートヴィヒが見せてもらった、ケイトリンから送られたという手紙の文言は心を抉るものだった。見た目に関する罵詈雑言や、人間性を貶める言葉の羅列。頭では理不尽で真実ではない内容だと分かってはいる。それでも誰かに否定された言葉は澱のようにロクサーヌの心を汚しただろう。
自分よりも体が大きなアキームからの圧、ロクサーヌの気持ちを無視した態度。聞きたくない言葉の羅列。もっと早く動いていれば……ルートヴィヒの後悔は深い。アキームの家の事業計画の裏を探るのに時間がかかってしまったことが悔やまれる。
ルートヴィヒは自分の胸の中で静かに涙するロクサーヌが愛おしくて仕方がなかった。これからも自分が守りたい。仲のいい夫婦になりたい。マックは本当にいい仕事をしてくれた。特別休暇をあげてもいい、などと考えていた。
単純なあの三人は何の疑いもなくルートヴィヒの手のひらで踊ってくれた。マックの手腕は見事だった。ロクサーヌから話を聞くうちにただ婚約を解消するだけでは足りず、社会的に抹殺すると決めた。ロクサーヌがされたことを犯罪と立証するのは難しい。尊重されず、奴隷のようだけれど奴隷ではない。彼らは真綿で首を絞めるようにロクサーヌの心を蝕んだ。
劇場に彼らを呼び寄せるのは簡単だった。チケットプレゼントに当選というお膳立てをしたら、ノコノコと現れた。ロクサーヌに執着していたのはハンス。彼女を愛人にしようと考えていた。アキームは侯爵家の金と地位が欲しかっただけ。ケイトリンはロクサーヌの尊厳を傷つけて悦にいっていた。
最悪な三人。
『サービスです』この一言を繰り返すだけで、面白いように飲み食いし、少し耳元で囁いただけで侯爵家にも公爵家にも礼を失した行為。学園での暴力行為未遂も効果的だった。
初めて罵倒されているロクサーヌを見た時には胸が千切れそうだった。個人的に彼女を守る立場にないルートヴィヒ。教師としてできることは限られていた。学園には死角になる場所がなぜあんなに多いのか。
ルートヴィヒはロクサーヌを抱きしめ直して髪に口付けを落とし、万事上手くいって良かったと安堵した。ロクサーヌとエクヴィルツ侯爵家を盛り立てていこうと決意を新たにした。
ロクサーヌはルートヴィヒの腕の中で、アキームの嫌がらせを受けていた日々を思い出していた。アキームはいつだって自分が正しく、ロクサーヌの気持ちを蔑ろにした。意見を言ってもアキームが望むように変換され、自分の意見や考えが間違っているのかもしれないと思うこともあり、心がすり減った。
ランチを用意しろと言われて持って行ったら今日は気分ではないと食堂へ連れて行かれ、用意したランチは目の前でゴミ箱に捨てられた。
ロクサーヌからの贈り物を好みではないと言って通りかかった誰かにあげたこともあった。焼き菓子を渡した時はニヤニヤしながら床にばら撒き、笑いながら踏み散らかした。
ケイトリンの影響で乱暴な口調になったアキーム。婚約者としてのお茶会の場では誰の胸がどうだとかいった低俗な話や、市井の者を殴り飛ばしてやっただのと胸が痛くなるような話を聞かされた。アキームを満足させるように言葉を掛けねばならず、心にもない言葉を吐き、なんとか表情を作った。この時間が一番苦しかった。
街へ行きたいと連れて行かれ、個室で待っていたのはハンスだった。店員の機転で無事だったが、アキームとの婚約を、独り身になったとしても解消しようと決意するきっかけになった。まさかその後、ルートヴィヒとの縁を得ることになるなんて。
数学教師のルートヴィヒはどんなにたわいのない質問にも真摯に答えてくれた。言葉が通じる喜び。分かり合える充足感。彼との会話に何度癒されたことか分からない。彼の微笑み、眼差し。物陰から彼を眺めて心を癒していた時にアキームから難癖を付けられた。
ルートヴィヒに聞かれてしまうのではないか、こんな弱い自分を見られてしまうなんて恥ずかしい。頭の中が真っ白になって何も言い返せなかった。もう消えてしまいたい。
その時、アキームを呼ぶ声がした。ルートヴィヒだった。ルートヴィヒはアキームが不審に思わないようにロクサーヌを逃してくれた。泣きたいくらい嬉しかったと同時にとても恥ずかしかった。しかしその後もルートヴィヒの態度は変わることはなく、あの時の説明を求めることもなく、そんなルートヴィヒを心の支えにロクサーヌの我慢する日々が続いた。
ハンスとのことがある前、ロクサーヌは両親にアキームからの言葉の暴力と自分を蔑ろにしているように感じることを相談していた。両親は涙ながらに詫びてくれた。しかし事業計画のことが枷になってすぐには解消できず、それに一度決まった婚約をなくすことは女性側の傷になる。今は時期ではないと耐える方を選んだ。
ところが三週間前、突然全てが解決した。アキームとの婚約解消と新たな婚約の打診について両親に教えられた。両親は晴れやかな表情だった。自分のせいで負担をかけたと父に謝られた。次の婚約の相手がルートヴィヒだと知ったその夜は嬉しくて眠れなかった。眠ってしまったら婚約の話も夢の中に消えてしまうのではないかと怖かったからだ。
ルートヴィヒとの婚約はアキームとの婚約で失ったものを全てロクサーヌに与えてくれた。晴れやかな気持ち、未来への希望、アキームの束縛で疎遠になっていた友人。彼女たちはロクサーヌを心配してくれていた。
北の貴族牢に入れられたハンスとアキームは後悔の日々を送っていた。冷静になった今、なぜあれほど大胆な行いをしてしまったのか分からない。家族に見放され、独居房に幽閉された身。何もすることがない。
週に一度ある面談の日が待ち遠しかった。何がいけなかったのか、どうすればよかったのか、ただひたすらに自問自答させられる日々。泣いても縋っても相手は黙っている。正解は分からず、間違いも指摘されない。それでも誰かに会いたかった。
ルートヴィヒとロクサーヌの婚姻の日、恩赦があり、ハンスとアキームは釈放された。そのまま貴族として貴族牢で過ごすか、貴族籍から抜けて辺境で労働者となるかと問いかけられ、二人は後者を選んだ。辺境に旅立った二人がどうなったのかは誰も知らない。王都には二度と戻ってこなかったからだ。
結婚して子どもを授かったルートヴィヒとロクサーヌの生活は順調だった。仲睦まじい夫婦と幸せな子どもたち。異変は最初の子が婚約者を得て、交流が始まった頃起きた。
ロクサーヌの笑顔に影が落ちるようになった。時折何か思い詰めている様子。ルートヴィヒはロクサーヌを旅行に連れ出し、夕食時に少し強めのカクテルを飲ませてから理由を聞いた。
「過去の自分が可哀想だと思ってしまって、子どもに嫉妬してしまうの。過去のロクサーヌはあんなに辛い思いをしたのに、あの子は幸せそうに笑っている。羨ましいと思ってしまって素直に祝えないの。こんな風に考えてしまう自分が嫌で、ルーには知られたくなくて」
ロクサーヌはポロポロと涙をこぼした。ハンスからの陰湿なアプローチ、アキームやケイトリンによる罵詈雑言や人格否定など、ロクサーヌが負った心の傷。きっとずっと向き合っていくものなのだろうとルートヴィヒは思った。
「ねえ、ローヌ、君でも嫉妬するんだと知って、なんだか安心したよ。君は良き妻、良き母でずっと眩しい存在だった。僕の女神。家族の太陽。でも君も『人』だったんだな。綺麗な感情だけでできているわけじゃないんだって、なんか安心した。遠くに連れて行かれてしまいそうで不安だったんだ」
ルートヴィヒはロクサーヌを抱きしめた。
「ねえ、ローヌ、辛い時は僕と手を繋ごう。抱きしめ合おう。現在にいる僕は過去の君には寄り添うことしかできないけど、一人じゃないって知ってほしい。それからあの時の君をここから応援しよう。時というのは過去現在未来が同時に存在してるっていう考え方があるって聞いたことはある? 干渉できるのは現在だけだけど、過去にも未来にも思いや祈りは届くんだって。だから、あんなやつらに負けないように、いつか前を向いて立ち上がれるように、君が君を応援するんだ」
「私が、私を応援……」
「そう。頑張れ! 負けるなって」
ロクサーヌは涙顔で笑った。
「そうね。私の一番の味方は私だものね」
「うん。それにあの過去があったから今があるのは間違いない。僕たちの選択の一つ一つが今に繋がってる。まあ同時に、彼らの未来が幸せに向かっているかどうかも分からないけどね。だからこそ、過去の僕らも、未来の彼らも応援したい。頑張ってる! 凄いぞ! って」
「ふふ。そうね。私、だけじゃなくて、私たち、ね。あなたと二人で今日まで歩んできたんだもの。私たちよく頑張ったと思うわ。不安なことも眠れなかったこともたくさんあったわね。ふふっ。ホントに色々あったわ。うん。私たち、二人とも頑張った。彼らはこれから頑張るのね。そう考えたら、若い二人を応援できそうな気がするわ」
涙に濡れた瞳にルートヴィヒを映して微笑んだロクサーヌは、とても美しかった。
完




