ようこそ!迷宮ダンジョンへ②
『――風を感じて』
小さい頃から、ルチルはそう言われて育った。
スマラグドスにある宝石の泉は美しい緑色をしており、自然のエネルギーと深く結びついている。だからか、スマラグドスは他の四つの国と違い、四季がある。春は花が咲き誇り、夏は木陰で涼しく、秋は紅葉で彩り、冬は落ち葉や腐葉土の保温効果で暖かい。そして、スマラグドスの民は風を操り、自然と共に生きている。
『タイチンルチル・ア・ウロラ・ノウス。風を感じたい時には、目を閉じるのよ。そうすれば、風が見えるから』
『風が見えるの?』
『風だけじゃないわ。目を閉じると、世界が見えるのよ。ルチル、目を閉じて。そして、世界を感じて。あなたには、何が聞こえる?』
『葉っぱが揺れる音』
『他には? 何を感じる?』
『甘い匂いがする』
『風が、花の匂いを運んでくれているの。他には?』
『……わからない』
『そんなことない。タイチンルチル・ア・ウロラ・ノウス、もっと風を感じて』
『雨が……降る?』
『どうして、そう思うの?』
『わからない。だけど、そんな気がする』
『それで、いいの。頭で考えないで、風を感じるのよ。葉が擦れ合う音が、聞こえているでしょう? 今はまだ優しい小さな音だけど、もうすぐ大合奏が聞こえてくるわ』
『大合奏?』
『嵐が来るのよ』
風が吹く。風が髪を揺らし、頬を撫でる。木々のざわめき、鳥や虫達の鳴き声が大きくなっていく。まるで、今まさに嵐が来ているような気がした。
『タイチンルチル・ア・ウロラ・ノウス、目を開けて』
母の言葉に目を開けると――森は静かだった。母を見ると、母は真っ直ぐにルチルを見つけていた。そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『タイチンルチル・ア・ウロラ・ノウス、忘れないで。風は、全てを知っている。もし、行くべき道がわからない時があったら、風に聞きなさい。必ず、風が教えてくれるから』
母は風魔法が使えないルチルに対して、常に「風を感じなさい」と言った。魔法が使える・使えないは関係ない、と。風は常にそばにいるから、と。その風を感じようと、目を閉じる。
ここが地下深い場所でも、どこかに風穴があるはず。心を落ち着かせて、風を感じるのよ。
――大丈夫。
風は、私のそばにある。
心の中で繰り返しながら、呼吸を繰り返す。神経を集中して、自分の周りの空気を探る。自分の呼吸音が聞こえる。
その時、蝶の羽ばたきのような微かな音と共に風が動くのを感じて、目を開ける。音のした方へ、足を踏み出す。一歩、二歩、三歩、四歩と進む。なぜか今まで曲がりくねっていたのに、真っ直ぐだった。どれくらい進んだのか、どれくらい時間が経ったのかわからなくなるほどの一本道。どこまでも続く闇の中を歩いていると、世界に自分一人しかいないような気がしてきて、怖くなってくる。
本当なら、ルチルではない私なら、ダンジョンの中を歩くことは一生なかっただろうし、今ごろ呑気にスマホをいじってきたはずだ。大好きなお菓子を頬張って、テレビを見ていたかもしれない。
「しっかりして。大丈夫よ、大丈夫」
自分に言い聞かせるために、声に出す。そして、母の形見のペンダントを握る……と、風が動きを変えた。立ち止まり、ゆっくりと目を閉じる。風が、見えない蝶の羽音を伝えてくる。風に乗るように、自然と足が前に出た。目を閉じたまま、進んでいく。どこに向かっていくのか、わからない。だけど、足を止める気はなかった。風が私を呼んでいるようで、歩く速度がだんだんと早くなっていく。
風で、髪が揺れる。
目に見えない風が、何かを教えてくれている。暖かい光を感じて目を開けると、目の前にあったのは……暗闇だった。あれほど強い光を感じたのに、光はどこにも見えなかった。
「美人さん、こんにちは」
――?!
突然聞こえた声に、フードを目深に被る。すぐに辺りを見回すが、岩肌しかない。何の気配を感じられない。だけど、確かに聞こえた。声がした方にランタンを向け、ゆっくりと壁に近づく。すると、一センチにも満たない小さな穴が胸元あたりの位置に空いていることに気がついた。
「驚かせてしまったなら、申し訳ない。でも、心配しなくても大丈夫。私は、決して美人を傷つけたりしないから」
暗闇に不釣り合いな、明るい男の声が響く。
「あなた、……誰?」
「これは、失礼。私は、シリシャスシスト・ディスケ・ガウデーレ」
……でた、この世界特有の早口言葉名前。ゲームの時は、ほぼ読まずに文字の雰囲気で判断していたけど、こうやって実際に聞くと、全く聞き取れない。だけど、私の頭が悪いわけじゃないからね! 日本人には、馴染みがなさすぎるの! きっと製作陣は内輪ノリで作ったんだろうけど、全然かっこよくないから! まったく、もう……で、なんて言った? シャリ……? シリ? 最後のデーレだけは聞き取れたけど、そんな名前のキャラいたっけ?
「美人さんの名前は?」
「え?」
「君の名前を教えてもらえるかな?」
「あぁ。私は、ルチル」
名乗った後、不自然な沈黙が流れる。沈黙の意味は、わかっている。名前の続きを待っている沈黙だ。二人の間にある気まずい静けさに、小さく息を吐く。
「タイチンルチル・ア・ウロラ・ノウス。ルチルよ」
「………………うん?」
「私のことは、ルチルって呼んで」
もう一度、沈黙が流れた。さっきの沈黙とは違い、閉じた貝のような沈黙。微かだった風の音が、妙に大きく聞こえる。
「……私は、そんなに長い間、ここにいたのかな? 私の常識では、名を短くすることは名を汚す行為となる。もし、私が君の言った名を呼べば、君の名は傷つくことになる」
「安心していいわよ、今もそう言われているから」
「……え?」
「あなたの常識は、間違ってない」
「では、君は……わかっていて、言っていると?」
「そう。私は、わかって言っているの」
一語一語、突き立てるように言った。
「……自分の名が、傷ついてもいいと?」
「傷つくほどの名前なんて持ってない」
「周りに……」
男が言い終わる前に言葉を奪って「私は、周りが何を言っても気にしない」と言い切った。すると、今度は奇妙な沈黙が二人の間を満たす。時間がそこで唐突に止まったような沈黙に、風の音も消えていた。
その沈黙を破ったのは、男から漏れた小さな忍び笑いだった。小さな音は、すぐに高らかな笑い声に変化する。
……何が、そんなにおかしいのよ。略して名前を呼ぶことは……そりゃ、よくないってことは知っている。だけど、わざわざバカみたいに長い名前を呼ぶ必要がある? 覚えるのも大変だし、英語の授業でも『I'm Catherine. Call me Cathy.(私は、キャサリン。キャシーと呼んで)』と習った。それに、その方が効率がいいでしょ? 時間短縮にもなるし、相手の名前を間違える心配もない。
「ちょっと……ねぇ!」
声をかけても、男は笑いが収まらないようで、いつまでもおかしそうに笑っている。少し待っていたが、全然笑いが収まらない男の様子にイラついてきた。
「いつまでも笑ってないでよ!」
「これは……申し訳ない。君は美しいだけではなく、これほど面白い思考の持ち主とは。私は、幸運に恵まれた」
「あなた、この状況を理解している?」
「もちろん。ここから出られなくて、困っていたところに、絶世の美女が私のもとに現れてくれた。しかも、その美女は、とても素敵な人だ。これ以上の幸運は、ないだろう?」
「……こんなところに閉じ込められているのに、よくそんな呑気なことを言っていられるわね。私が、あなたを助けない可能性だってあるのよ。むしろ、その可能性の方が高いんじゃない?」
「いや、それはない。君は、私を助けてくれるよ」
「……あなたって、救いようのない楽天家ね」
「大丈夫。君になら、できる」
「どうして、私があなたを助けると思うの? その根拠は、何?」
「君は、友を見捨てるような人じゃない」
「友? 私と、あなたが? 私たちは、今初めて会ったよ。だがら、友達じゃない」
「友になるのに、会った回数は関係ない」
「ある」
「ないよ」
「あるわよ!」
「どうして?」
「友達になるには、お互いを知る時間が必要。お互いのことを理解してこそ、親しくなれるのよ」
「親しくなるのに、付き合いの長さは関係ない」
「あなたね……」
「おっと、そこまで。君の話を聞く前に、やり直したいことがあるんだ」
「やり直す? 何を?」
「美人さんに、もう一度、自己紹介をしたい」
「それ、やめて」
「それ?」
「私の姿が見えていないのに、調子のいいことばかり言わないで」
「見えているよ」
「嘘つきがいる」
「ひどいな、本当だよ。ねぇ、動いてみせて」
「は?」
「美人さんの姿を見て、癒されたい」
「……もういい。自己紹介して」
岩壁から、クスクス笑い声が聞こえる。意味がないとわかっていても気持ちが収まらずに岩壁を蹴ると、私のことが見えるはずがないのに、男の吹きだす音がした。
「自己紹介するんでしょ? 早くしてよ!」
「いやいや、本当に申し訳ない」
謝りながらも、男の声には笑いが含まれている。
「謝らなくていい。自己紹介するなら、早くして」
「では、改めて。私は、シリシャスシスト・ディスケ・ガウデーレ。私のことは、ジャスパーと呼んでほしい」
あぁ、ジャスパーね。呼びやすいじゃな……はぁぁぁぁ!!!!
――今、なんて言った?
読んでいただき、ありがとうございます。
次の投稿は、12時頃の予定です。