青い町で、黒猫と出会う②
「えっと、その、申し訳ないんだけど……私は、なんていうか……よくわからなくて」
「よくわからない? ……もしかして、名前に聞き覚えがないの?」
「……すいません」
「でも! ノービリスは?」
「人から聞いただけで……」
「なんて? 何を、聞いたの?」
「ノービリスの言葉だけで……他には、何も」
「ノービリスを教えた人は、今どこに?」
「……さぁ」
「さぁ? わからないの?」
「ここで、会う約束をしていますけど……」
「いつ?」
「……詳しい時間は、決めてないです」
我ながら、ひどい返答だと思う。質問に答えてはいるけど、答えていないようなものだ。
「すいません……」
「…………」
返事が返ってこないのが、ツライ。沈黙が居たたまれない。
「部屋に案内するわ」
「え?」
「屋根裏部屋に、ラピスウィリ・ディ・スマリスの肖像画が飾ってあるの」
「え? ……いいの?」
「うん、いいの。ついて来て」
階段を上った先の屋根裏は、私のイメージと全く違っていた。暗いと思っていた室内は、片方の屋根部分の全部が窓となっていて、明るい光が差し込んでいた。夜には、きれいな星を眺めることができるだろう。
「こっちよ。この人が、ラピスウィリ・ディ・スマリス」
肖像画も、私の想像と違っていた。その絵は額の中に入っておらず、壁に描かれていた。壁の中にいるシルバーブロンドの美しい人は、笑っていた。視線はこちらを見ておらず、少し上を見ながら笑っていた。微笑みと言った方がしっくりくるような、優しい笑顔。
――これを描いた人は、天才だと思った。
「素敵でしょ? 私の初恋の人なの。はいっ! ここで、第三問!! この肖像画は、見る場所が決まっています。それは、どこでしょうか? チックタク、チックタク」
見る場所が、決まっている?
瞬間的に、この人が笑みを向けている先だと思った。すぐに視線の先に目を向けると、そこだけ部屋の一部が二層式になっていた。
「あの上の場所」
「正解! サービス問題だったかな。あの場所を、おばあちゃんは“ノービリス”と呼んでいた」
「ノービリス? ノービリスは、場所の名前なの?」
「うん、そう。だけど、私はそうじゃないと思う」
「どういうこと?」
「おばあちゃんは“ノービリス”で、ノービリスが帰ってくるのを待っていたの」
ノービリスを待っていた? ノービリスは、人の名前? もしかして、ジャスが……ノービリス?
「あなたは、ノービリスに会ったことがあるの?」
「ううん、昔の話だもの。ノービリスは、もう生きていない。でも、おばあちゃんが私たちに『ノービリスのこと知っている人が訪ねてきたら、力になってほしい』と言葉を残したの。私たちがわかるのは、おばあちゃんが“ノービリス”でラピスウィリ・ディ・スマリスを見ていたって事実だけ。おばあちゃんは自分に向けて笑う、愛しい人を……ずっと見ていたの」
「そのおばあちゃんが、空の民と恋に落ちた少女?」
「正解! エルロ・オフサルモス・カラジアスは、おばあちゃんの名前。私たちが代々継いできた、秘密の名前。この名前を言えば、私たちは味方だとノービリスに伝えることができる。だがら、私はあなたの味方。今日から、ここに泊まって。遠慮しなくていいからね」
「ありがとう」
「あっ!!」
本当に驚いた、とわかる大きな彼女の声に、ビクッと肩が跳ねる。
「大事なことを聞き忘れていた! あなたの名前は?」
「あぁ、そっか。そうだったね。私の名前は、ルチル」
「………」
沈黙が流れる。よく知る、沈黙だ。私の名前の続きを待っている沈黙。
「十八歳よ」
沈黙を搔き切るように、言った。
「……じゅうはっさい、よ?」
「年齢が、十八歳なの」
「あぁ、年齢ね。年齢が十八歳……十八歳? あぁ、私も十八歳」
「同じだね」
「うん」
「よろしく」
「うん。あのさ……えっと、あなたの名前は?」
「ルチル」
「………………その後は?」
「それだけ」
「ルチル、だけ?」
「うん、ルチルだけ」
「……他には?」
「ない」
「…………ない?」
「実は、名前を覚えるのが苦手なの。だから……教えてもらったあなたの名前も覚えていない」
「……え?」
「だから、その……」
「…………もしかして、病気?」
「いや……う~ん。まぁ、病気みたいなものかも。どうしても、人の名前が覚えられないのよね」
「そんな……そんな大変な病気があるなんて。私、知らなかった」
泣き出しそうに震える彼女の声に、私の方が焦った。
この世界で、名前はとても大切なもの。だけど、私にとって名前は……さほど重要ではない。偶然隣に座った子と仲良くなって話をしても、最後まで名前を聞かずに別れることもあった。でも、その子のことは覚えているし、次に会った時には互いに「久しぶり」なんて声をかけたりしていた。それでいい、と思っている。
「私は、大丈夫」
気持ちは大丈夫なんだけど、どうしてもこの世界の名前は聞き取れなくて不便ではある。とてもじゃないが、一度言われただけでは覚えられない。この世界では名前を聞き返すことは失礼なことで、名前を間違えるなんて信じられないこと。私の場合は、間違える以前に名前が出てこない可能性の方が高いんだけどね。それは、本当困っている。
「あの……だから、あなたのことをニックネームで呼んでもいい?」
「? ニック、ネーム?」
ないか、そんな単語。この世界には……ないわな。じゃあ、あだ名? は、日本語にしただけだし。なんて言えば、いいんだろう?
「私たちだけの間で呼び合う、暗号みないな?」
「すごいっ!」
「え?」
「すごい発想よ! 本当に、すごい! 大変な病気にかかっているのに……本当に、すごい」
「あ、ありがとう。じゃあ、ニックネームで呼んでもいい?」
「もちろんっ! 私のことは、何て呼んでもいいから! 私、ルチルを尊敬する!!」
いきなり抱き着かれ、息が止まるほどに抱きしめられていた。ボキッと骨が折れてしまいそうなほどの力の強さに、彼女の背中を叩く。
「大丈夫だからね! 絶対に、大丈夫だから!」
大丈夫じゃないよ、今にも気を失いそうだよ。お願いだから、手を緩めて……と願いを込めて、彼女の背中を叩くが、彼女の手は全く緩まる気配がない。それどころか、さらに力をこめられる。力任せに突き飛ばそうかと思ったが、怪我でもしたら大変だから行動に起こせない。それでも、体を捩って逃げようとすると、やっと彼女は手を離してくれた。
「グスン……。ルチル、大変だよね」
「まぁ……」
「つらいよね、不安だよね、悲しいよね。わかるよ、ルチルの気持ち」
……たぶん、全くわかってないと思うよ。でも、もちろん否定しないよ。私は、空気を読める女だから。
「ありがとう」
「うん」
「じゃあ……あなたのことを"レーナ”って、呼んでもいい?」
「レーナ? どんな意味があるの?」
「レーギーナから、もじったの。だから……レーギーナと仲良しな子って、意味かな。どう?」
「すごく、いい! 私は、レーナ。よろしくね、ルチル」
レーナが、手を差し出す。
「こちらこそ、よろしく。レーナ」
私が、レーナの手を握る。そして、二人で手を握り、左右に振る。なぜだが、笑いが込み上げてくる。我慢出来ずに、笑い声をあげる。つられるように、レーナも笑う。
「何が、おかしいの?」
「ルチルこそ、どうして笑っているの?」
「レーナが笑っているから」
「先に笑ったのは、ルチルだよ。どうして笑ったの?」
「だって、手を離すタイミングがわからなくなって」
「私も同じ。ルチルが手を離さないで振るから」
「私じゃないよ、レーナが先だった」
「嘘! ルチルだよ!」
また、二人で笑い声をあげる。
「じゃあ、“せーの”で離そう」
「そう言って、離さないんでしょ?」
「レーナと違って、私は純粋なの。そんなことしない」
「私だって、しない! いい? “せーの”だからね」
「オッケー」
「「せーの!!」」
二人で手を大きく振って、一番高いところで手を離した。そして、また二人で笑い合った。




