令嬢ヴィオレッタ
ヴィオレッタの仕事は、日の出と共に始まる。
着替えてまず一番にするのは、使用人棟の厨房に置かれた大きな水がめを満たすこと。
両手に手桶を持って、厨房と井戸とを何度も往復するのだ。
ヴィオレッタの身長の約半分はある大きな水がめ2つを満杯にするには、それなりに時間がかかる。
約1時間ほどかけて水がめ2つを満たし終えると、次は洗濯だ。
本来この屋敷にはランドリー担当の専用メイドがいる。
だが、ヴィオレッタは現侯爵夫人であるイゼベルと、その娘イライザの服を洗う様に特別に言いつけられていた。
ドレスなどの高級品を別にして、それ以外の服は寝間着であれ部屋着であれ、下着や靴下であっても、洗うのはヴィオレッタの役目だ。
けれど、本当のランドリー担当のメイドたちがいる以上、井戸を使う時間が重なってはいけない。だからヴィオレッタは、水がめの水を汲み終えるとすぐに洗濯に取り掛からなければならなかった。
洗濯物の入ったカゴを持ち、ヴィオレッタは再び井戸へと向かう。
洗い桶に井戸の水を満たし、洗濯物を入れて石鹸の粉を入れる。後はひたすら手洗いだ。
洗って干し終わると、庭の掃き掃除や窓拭き、朝食用の野菜の皮むきなど、ヴィオレッタに言いつけられた仕事を一つずつ終わらせていく。
「ふう」
ようやくひと段落ついたのが午前の10時前。
ヴィオレッタは、屈み仕事が多かったせいで軋む腰に手を当て、背を伸ばした。
こんな仕事をさせられてはいるが、実はヴィオレッタはれっきとした侯爵令嬢だ。
その手が酷くカサつき、指先はひび割れて血が滲んでいても。
色褪せた紺のお仕着せを身につけていても。
公爵令嬢だった母と現侯爵家当主の父との間に生まれた第一子であり、唯一の子。
男子がいないこのレオパーファ家にあって、本来ならば婿を取って爵位を継承する正当な立場にある子の筈だった。
そんな確固とした立場に影がさしたのは3年前、公爵家から嫁いだ母エリザベスが亡くなった時だった。
本来ならば最低でも半年間は喪に服すのが慣例だった。なのにヴィオレッタの父スタッドは、ひと月も経たないうちに屋敷に女性を連れて来て、後添えにすると宣言した。しかもその女性との間に子どもまで生まれていたのだ。
ヴィオレッタと同じ娘、だがその娘の方が一つ年上で。
何より驚いたのが、その娘がヴィオレッタとも血が繋がった義姉だと言われたこと。
そう、その娘 ーーー 名をイライザと言う ーーー は、スタッドとその女性イゼベルとの間に生まれた子だと父は言ったのだ。
温厚で、ヴィオレッタの前で声を荒げた事など一度もなくて。
経営する商会での仕事が忙しいと週に三日は屋敷を空けていたけれど、でも共に過ごす時間はいつだって親子三人穏やかな笑みに包まれていた。
愛されている、そう信じていた父の予想もしていなかった裏切り。
だが、ヴィオレッタはその先に更なる絶望が待ち受けていた事など、この時はまだ知る由もなかった。
不思議で不可解で不気味、そう感じるくらい、再婚前と後とで父スタッドの態度は変わらない。
いつもの人好きのする笑みと、穏やかな物言い。
声を荒げる事など決してなく。
時に茶目っ気のある話し方をするところも相変わらずだ。
そう、何も変わらなかったのだ。
継母のイゼベルが躾と称してヴィオレッタを叩こうとも、義姉となったイライザがヴィオレッタの私物を取り上げようとも。
ヴィオレッタがスタッドに助けを求めた時でさえ、その笑みは崩れない。
「もう家族なんだから、新しいお義母さんやお義姉さんと仲良くしないとね」
にっこりと笑い、ヴィオレッタの頭を撫でながらそんな台詞を吐く。
イゼベルたちが屋敷に来て一週間と経たないうちに、ヴィオレッタの部屋はイライザのものになり、使用人の真似事の様な雑事を頼まれる様になっていた。
なのに、やっぱりスタッドは微笑むのだ。
「ヴィオがいい子で嬉しいよ」と。
母が生きていた頃と変わらぬ優しげな笑みを浮かべる父は、目の前のヴィオレッタの窮状をどう捉えているのか。
まさか苦しんでいる事すら気づかないなどとはあり得ない。ならば気づいていながら知らない振りをしているのだろう。あるいは気づいた上でそれに満足しているのか。
だが、今も昔も変わらない微笑みはきっと、父に愛されていると信じていた昔も、結局は今と大して変わらない程度の関心しかなかったということ。
ただそれを、ヴィオレッタが気づいていなかったということ。
それだけなのだ。
毎日屋敷から仕事に向かう様になったスタッドが、通りがかりにエントランス前を箒で掃くヴィオレッタを見つけた。
そして、使用人のお仕着せを着て働いている娘に、「頑張ってるね」と笑いかける。
ヴィオレッタは、これに何と答えるべきなのだろう。
父なのに、父が分からない。
今のヴィオレッタには、父は怪物にすら思えた。