第三王子 ケルヴィン
「殿下! 火急の知らせでございます」
ケルヴィン王子の元に老齢の家令が駆け込んできたのは、夜半のことであった。ランプの頼りない灯りに照らされた私室の中で、二人は静かに言葉を交わす。
「どうした。何があった」
「アントン伯爵が……、伯爵が暗殺されたとの由にございます!」
「なにっ!?」
息も絶え絶えに、家令は事の仔細をケルヴィンに告げた。
凶行は二日前の夜に起きたという。屋敷に忍び込んだ賊は誰にも気取られることなく寝室へと侵入し、すでに床に就いていた伯爵を襲撃したようだ。異変に気付いた使用人が駆けつけた時には、すでにアントン伯爵は事切れていた……。
「下手人は誰だ! 一体、誰がアントン翁に手を掛けたというのだ!?」
「そ、それが……」
凶行に及んだその賊は、寝室の壁に血でメッセージを残していた。
『我が最愛の方に手を出した罪は重い』
苦悶の表情を浮かべた伯爵の遺体には刃物で滅多刺しにされた痕があり、横たわるベッドは血で真っ赤に染まっていたという。
「ふざけるなッ!!」
ケルヴィンは怒りのままに叫ぶと、拳で何度も机を叩いた。
◇
報告を終えた家令が部屋を辞した後、ケルヴィンは荒ぶる気を静めようと、卓上の葡萄酒に口を付けた。
だが、泉の如く湧き上がってくる苛立ちを収められるはずもなく、彼は手にした杯を壁に投げつけることしかできなかった。ガラス製の杯が耳障りな音を残して砕け散る。
(何故だ、どうしてこうなった!?)
ケルヴィンは両手で頭を抱える。
アントン伯爵は彼の数少ない臣下の一人であった。今後の計画を進めるために必要な人材であった伯爵が、一体何故暗殺の憂き目にあったのか。
(『最愛の方』とは、まさか先日亡くなったとかいうボードヴィルの娘のことか!?)
マリア・ボードヴィル。王国随一の将であるボードヴィル侯爵の娘にして、二人の兄が懸想していた相手だ。
王都の視察中に件のマリアが不審な死を遂げたことで、第一王子と第二王子の間に決定的な亀裂が走ったらしい。二人の兄は互いに、相手の陣営の手の者がその凶行に及んだと推測している。すでに水面下では両陣営による小競り合いが始まっており、その状況は王位簒奪を狙っていたケルヴィンにとって願ってもない好機であった。
だが、もしその死にアントン伯爵が深く関わっていたのだとしたら、話は大きく変わってくる。
両王子の矛先がケルヴィンへと向いてくるのは明白であり、そうなれば彼の小さな陣営が磨り潰されるのは時間の問題であった。
(だが、俺はそんなこと命じていないんだぞ! あのアントン翁が、俺に断りなく謀を企てたとでも言うのか!?)
ケルヴィンが幼い頃の教育係であったこともあり、彼はアントン伯爵のことだけは心から信頼していた。父や母から十分な愛を受けられなかった彼にとって、伯爵は親代わりのような存在であった。
だからこそ、彼が唯一敬愛するアントン伯爵が死んだという事実は、ケルヴィンの心に大きな負荷を与えたと同時に、彼の反骨心をより一層かき立てた。
(第一王子か第二王子の息の掛かった者が自らの罪を俺に擦り付けるべく、アントン翁を殺したのだ。全ては奴らの陰謀だ。そうに違いない!)
そうまでして俺が王になるのを阻むのか、とケルヴィンは憤る。
だが、はたしてそうだろうか、と奇妙に感じる部分もあった。
今さらマリア殺害の罪を擦り付けたところで、第一王子と第二王子の両派閥が仲良くなるとも思えない。結局は第三勢力である俺の怒りを買うだけで、何も得するところがないではないか。
(ならば、兄の他に俺の邪魔をしようとしている"敵"がいる?)
そこでふと、ケルヴィンは思い出した。アントン伯爵と最後に顔を合わせた際、彼は妙なことを口走っていたのだ。
『カルメル家に何やら不穏なものを感じまする。老いぼれの杞憂で終われば良いのですが……』
近日中に探りを入れるつもりであると、伯爵はケルヴィンに話していた。
いいや、とケルヴィンは考えを振り払うように首を振る。
彼が聞くところによれば、当主のカルメル男爵は重い病に罹っているらしい。ベッドから起き上がることもままならないようで、現在は男爵の行き遅れた娘が代行を務めているようだ。
(……馬鹿馬鹿しい。地方の弱小貴族、それも女だろう。そんな小バエのような存在が、この俺に刃向かうと? ありえん。考えるだけムダだ)
そんな小物をいちいち精査していられるほど、ケルヴィンの気は長くない。検討するまでもなく、彼はその可能性を頭から消し去った。
彼の生来の気質を考えれば、これは無理からぬことであった。
結局、伯爵の死とそれにまつわる陰謀について、ケルヴィンは何の結論を出すこともせずに思考を打ち切った。
(とにかく、これで俺の計画はまた一歩後退してしまった。まったく、何故こうも思い通りにならない!? 何故俺ばかりが損をするのだ!?)
優秀な兄二人に対する劣等感。弱い者を自らの力で従えたいという支配欲。自分を認めない父王たちに対する復讐心。
それら歪みきった自意識こそが、ケルヴィンという人間を形作っていた。
彼は自らの意志で父王への反乱計画を練っていた。
殺されたアントン伯爵を含め、腹臣たちはむしろその無謀を諫めていたのだ。第三王子という立場でなければ、彼の幼稚な計画はとっくに露呈して処刑の憂き目にあっていたかもしれない。
だが、彼はそのことを知らない。
王国の未来も、貴族社会も、民の暮らしも、全てどうでもいい。ケルヴィンにとっては自己の幸福こそが全てであり、他者への愛や思いやりなどというものは全く理解の及ばない事柄であった。
だからこそ、計画の邪魔をしようと暗躍するその何者かを彼は許せなかった。
「くそッ! ちくしょう!! 俺様をコケにしやがって!」
再び激昂したケルヴィンは物に当たり散らす。机上にあった花瓶やら本やらを投げつけ、棚を次々になぎ倒し、床を何度も踏みつけた。
こうして彼が癇癪を起こすことは珍しくないので、彼の部屋から大きな物音がしたところで、城内の人間が駆けつけてくることはなかった。
フーフーと、ケルヴィンは荒く呼吸を繰り返す。
窓に映り込むの彼の横顔は、憎しみで醜く歪んでいた。
「絶対に見つけ出してやる……。見つけ出して、この手で首を刎ねてやる! 俺様の邪魔をしたことを、後悔させてやるッ!!」
狂ったように喚き叫ぶ彼を止められる者は、もはやどこにもいない。