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従者 イヴァン

 アントン伯爵邸の警備はあまりにもお粗末で、イヴァンは拍子抜けしてしまった。

 彼の愛するドロシーを悩ませるその原因についても、いとも容易く取り除くことができた。


 イヴァンは冷たい目で横たわる伯爵の死体を眺める。あちこちに穴の開いた死体からは汚らわしい血が止めどなく流れ、純白のシーツに真っ赤な染みを作っていった。


 振り下ろした最初の一撃で絶命したのは間違いない。だがイヴァンの身を焦がす怒りの炎は一刺し程度では到底収まらず、彼は動かなくなった死体に何度もナイフを突き立てた。


「俺のお嬢様に手を出そうとした報いだ。あの世で後悔するんだな、アントン伯爵」


 イヴァンは指でその血を掬い取ると、ベッドサイドの壁に大きくメッセージを書き残した。伯爵家の愚物共に、自分たちの罪を理解させるために。


 にわかに寝室の外が騒がしくなってきた。イヴァンが侵入する際に殺した見張りの死体を、屋敷の人間がようやく発見したようだった。


 黒頭巾を被り直したイヴァンは大胆にもバルコニーから飛び降りて、その場を立ち去った。

 伯爵邸の庭を真っ直ぐに突っ切る彼の背後から、女性の甲高い悲鳴が聞こえた。


 ◇


 追っ手のないことを再三確認してから、イヴァンはカルメル領への帰途に着いた。


 その道すがら、暗殺の際に身に付けた頭巾や装束は森に埋めてしまう。凶器に使ったナイフは血を洗い流した後、適当な相手に二束三文で売り払った。乗ってきた馬も適当に処分した。


 こうして、彼は道行く人波の中に自然と溶け込んだ。

 いかに道具にこだわらないかが肝要だと、彼に暗殺の心得を説いた男は言っていた。


 イヴァン・ライナスはただの使用人ではない。


 彼にはかつて暗殺者ギルドのメンバーだった過去がある。物心つく前にギルドに拾われた彼にとって、潜入・調略・暗殺は日常の延長でしかなかった。


 だが今から四年前、王国騎士団の掃討作戦によってギルドは壊滅した。命からがらその場から逃げ出したイヴァンだったが、受けた傷は思いの外深く、その命運は尽きたかに思えた。


 そんな彼の命を救ってくれたのが、当時13歳のドロシー・カルメル男爵令嬢だった。


 王都の路地裏で倒れていたイヴァンを見付けたドロシーは、自身のドレスが汚れるのもいとわず、血塗れの彼を屋敷へと連れ帰った。

 それから三日三晩の間、ドロシーは彼を介抱し続けた。義母からどんなに口汚く罵られようとも彼女はそれを止めなかった。

 ようやくイヴァンが意識を取り戻した時、彼が最初に目にしたのは涙を流して喜ぶドロシーの姿だった。


『ああ、良かった。貴方が生きていてくれて、本当に良かった。神様はやっぱりいるのね』


 ドロシーはそう呟いていた。

 その日から、イヴァン・ライナスの人生は大きく変わった。


(ドロシーお嬢様は俺の全てだ。俺の生きる理由そのものだ。もう彼女のいない灰色の日々には戻れない。お嬢様のお側にいるためなら何でもやる。お嬢様の幸せを守るためなら何でもできる。お嬢様の望むことは全て叶えてみせる)


 彼女が涙ながらにそれを欲しがったから、イヴァンは裏市を回って大量の毒物を手に入れた。

 彼女が義母の影に怯えていたから、イヴァンは男爵夫人の杯に毒を垂らし続けた。

 彼女が義兄に汚されそうになったと知ったから、イヴァンは男爵の息子二人にも毒を盛った。

 彼女が国の行く末を憂えていたから、イヴァンはボードヴィルの娘を楼閣から突き落とした。


 寂しい暗殺者でしかなかったイヴァンにとって、ドロシーに起因するその情動は、他の何物にも代えがたい強烈な刺激を彼にもたらした。


 屋敷で仕事をしている時も、外での仕事を任された時も、こうして外を歩いている時も、食事の時も、排泄の時も、横になり夢を見ている時でさえ、イヴァンの頭はただひたすらにドロシーのことだけ考えて動き続けていた。


(お嬢様の声が聞きたい。もう7日もお嬢様の顔を見ていない。だが、我慢しなければ。お嬢様に会えない日々は本当に耐えがたい苦痛だが、この痛みこそが俺の愛なんだ)


 ドロシーから離れて仕事をする間、イヴァンは懐に忍ばせたハンカチの匂いを嗅いで、その寂しさを紛らわした。それはドロシーの使い古しのハンカチで、2年と10ヶ月前に彼女から直接頂いた品だった。

 イヴァンの擦り切れた精神は、使い捨てのハンカチさえ愛してしまえるほどに、ドロシーの偶像に依存しきっていた。



 それから2日間夜通し歩き続けてようやく、カルメルの屋敷が見えるところまでやってきた。

 その美しい外観が目に入った瞬間、イヴァンは堪らずに駆け出していた。


(ああ、お嬢様。ドロシーお嬢様に早く会いたい!)


 そんな彼の純粋な祈りが通じたのか、屋敷の窓からドロシーが顔を覗かせる。

 彼女は帰ってきたイヴァンの姿を認めると、小さく手を振った。


 ◇


「イヴァン、本当にご苦労様。先ほど、伯爵家から早馬がいらしたわ。アントン伯爵がお亡くなりになったんですって」


「はっ。身の程をわきまえぬ願いを抱いた老いぼれに、神罰が下ったのでしょう」


「まあ。ふふっ」


 執務室の窓から外を眺めながら、ドロシーが顔を綻ばせた。


「イヴァン。貴方の国を想う働きは、どんな貴族よりも尊いものだわ。ボードヴィルの娘のことも、伯爵のことも。きっと()()()()()殿()()も『良くやった』と褒めてくださることでしょう!」


 ケルヴィンの名前を出すとき、ドロシーは特に息を弾ませる。イヴァンはもちろんそのことに気付いてはいたが、なるべく考えないようにしていた。


 ドロシーが心を寄せる第三王子ケルヴィンのことを、イヴァンはよく知らない。

 噂によれば、二人の兄王子とは比べ物にならないほど愚鈍であり、父王からも疎まれているらしい。短気にして粗野、貴族からの評判もすこぶる悪く、彼の味方をする者は少ないと聞いている。


(だが、ドロシーお嬢様のように清らかで理知的な方が、そんな矮小な人物に心を寄せるだろうか。ケルヴィン殿下について、意図して悪い噂が流されている可能性はあるかもしれない)


 ケルヴィンについて正確な情報を知る手立てがない以上、イヴァンはその実態について推測することしかできない。さしもの彼といえど警備の厳重な王宮への潜入は難しく、直接赴いての情報収集は断念せざるをえなかった。

 だが、どうしても知らねばならない。イヴァンにとってはそれほどの重大事であった。


「……お嬢様は本当に、ケルヴィン殿下を慕っておられるのですね。どのような御方なのですか?」


「謙虚にして聡明。その上、並々ならぬ向上心を持っておられる方なのです。ふふっ」


 イヴァンはドロシーのことを深く愛している。

 だが彼はその愛が一方通行でしかなく、報われる日が永遠に来ないことも知っている。

 ドロシー自身が語っていた通り、彼女が貴族の娘である以上いずれはどこかの家へ嫁いでしまう。


(嘆くな、受け入れろ。俺にできることは、ドロシーお嬢様の夫となる男の価値をこの目で見定めることだ)


 恥ずかしそうに頬を染めるドロシーの姿を目に焼き付けながら、イヴァンは拳を強く握り込んだ。


(たとえそれがお嬢様の想い人であったとしても、一国の王子であったとしても躊躇するものか。それがお嬢様にふさわしくない男だったなら、その時はこの俺の手でくびり殺してやる)


 彼女がそれを望まなくても、イヴァンは自分の意志でドロシーを守ると心に誓った。


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