男爵令嬢 ドロシー(1)
ドロシー・カルメル男爵令嬢が、己の使命に目覚めたのは9歳の夏だった。
その年、王国中に蔓延した熱病に罹患したドロシーは、しかし家族の誰からも顧みられることなく、屋敷のカビ臭い離れへと追いやられていた。
彼女は妾の子だった。義母はドロシーを男爵家の子とは認めず、厄介者として扱い続けた。実の父であるカルメル男爵もまた、ドロシーのことを政略結婚の道具程度にしか思っていなかったのである。
まだ幼かったドロシーが自身の境遇についてどこまで理解できていたのか、それを知る術はない。
確かなのは、クモの巣が張りネズミの走るその汚い一室で、彼女が生きることを諦めたという事実だけだった。
咳が止まず熱の引かない身体を残して、その日、幼いドロシーの精神は死んだ。
そして、自身に課された使命を思い出すと共に、彼女は生まれ変わったのである。
「そうだ……。自分が何を成すべきか、すべて思い出した。愛するケルヴィン殿下を死の運命から救う、私はそのために生まれてきたのだ!」
熱病から回復したドロシーは、まるで人が変わったように勉学に打ち込んだ。
まるで何かに急かされるかのように、彼女は驚くべき速度と理解力でもって貴族令嬢としての振る舞いと教養を身に付けていった。
義母からの厳しい折檻は相変わらずであったが、彼女はそれに屈することなく弱音を吐くこともしなかった。
汚らわしい妾の子、泣き叫ぶだけの弱者としての面影は、もうない。
初めはその変わり様を気味悪がった家中の人間たちであったが、やがて父を含めた全員が、彼女を正式に男爵家の娘として扱うようになった。
◇
それから8年の時が流れ、"ドロシー・カルメル”は見目麗しい令嬢へと成長を遂げる。
不幸続きのカルメル男爵家にとって、彼女の存在は希望であり光でもあった。
3年前カルメル男爵夫人が謎の病に斃れたことを機に、一昨年には跡継ぎの長男と利発な次男が、相次いで亡くなってしまった。
残されたのは妻と子らを亡くした失意の男爵と、その娘ドロシー。そして、まだ幼い三男のみ。
だが男爵家の不幸はこれで終わらなかった。
次に病魔は、屋敷の主たる男爵の身体をもむしばみ始めたのだ。壮健だった彼の身体はみるみる痩せていき、やがて喀血までするようになった。
病状は重く、近頃はもうベッドから起き上がることすら叶わない。それ程までに、彼の身体は衰弱しきっていた。
「お加減はいかがですか、お父様」
「おぉ、ドロシー……」
寝室の瀟洒なベッドで横になる父に、ドロシーが柔らかな笑みを向ける。起き上がろうとする父を助けてから、彼女は手ずから一杯の水を飲ませた。
「アントン伯爵の屋敷へ招かれたのだろう……? 伯爵はなんと仰せだった……?」
「ボードヴィル将軍の御息女が亡くなられたとかで、今年中の対外遠征はおそらく取り止めになるだろう、とのお話を伺いました。それと、お父様のお身体のことを大変案じておられました」
「そうか……。では、返礼の品を送らねば……」
「ご安心ください、お父様。すでにわたくしが御用意してございます。何も心配はいりません。お父様はただ、病を治すことだけを考えてくだされば良いのです」
「ドロシー。なんと……親孝行な娘なのだ……」
当主たるカルメル男爵が病に臥せるという危機。家の存続すらも危ぶまれる中で、ドロシーは父の看病に尽くすだけでなく、当主代行としての役割をも見事に勤め上げていた。
そんなドロシーのことを、男爵は自身の半身であるかのように丁重に扱った。そして、家中の者たちにもそのように接するよう求めた。
ドロシーは名実共に男爵家の女主人となっていた。
「私の気掛かりは……愛しい我が娘、お前の将来のことだけだ。私はもう長くないだろう。それまでに、良き縁を結んでやらねば……」
「お父様! 長くないだなんて、そんな悲しいことを仰らないで」
カルメルの才女をぜひ妻にと、ドロシーの元にはすでに多くの縁談話が舞い込んでいる。中には伯爵家や侯爵家など、男爵令嬢という身分を考えれば身に余る良縁も含まれていた。
彼女も今年で17歳、華も盛りの頃であった。貴族社会の慣習を考えれば、すでに他家への輿入れをすませ子を成していてもおかしくはない年齢である。
だが、彼女は頑なに誰とも見合いをしなかった。その全てを断ってまで父の傍にあることを願ったのである。実の父を想うその振る舞いは人々の賞賛を浴び、彼女の名声はますます高まっていくこととなった。
「ご病気はきっと良くなります。それまではわたくし、お父様の側を離れたくはありませんわ。いいえ、片時も離れません」
「ドロシー……」
息も絶え絶えに男爵が伸ばした手を、傍らのドロシーがはたと掴む。そして祈りを捧げるかのように、その枯れ枝のような手を包み込んだ。
「ですからお父様、早く良くなってください。さあ、このお薬をお飲みになって」
「うむ。すまない……」
令嬢の仮面の下、ドロシーが笑いを噛み殺していることを、男爵は知らない。