火傷少女と赤い服の女神
2015年 4月25日 土曜日 13時24分
病院のトイレで小さな悲鳴を上げた。
顔の左半分が焼けただれ、頭の左半分に髪がない、安っぽいホラー映画の怪物のような少女が鏡の中に居たのだ。何度見ても自分の姿に全く慣れない。
「なんで……なんで、僕が……こんな」
上手く握り拳を作ることもできない左手で鏡を弱く叩く。その手も顔と同じく皮膚が焼け爛れていた。今は服で隠れて見えない部分も同じだ、僕の左半身は酷い火傷を負っている。鏡を見ているのが嫌になり、俯いて目を擦る。
『わぁ酷い』
嘲笑うような女の声に顔を上げると鏡の中に長い黒髪の美女が居た。僕の髪は左半分生えていないし、右半分だって耳にも届かない短髪だ。そもそも僕はこんなに美しくない、鏡の中の美女には火傷がない。
「へ……? え? 何……誰……?」
鏡には自分が映るものだ、そんな常識が今崩れた。
『こんにちは! 化野 勇二ちゃん! 女神様だよ!』
夢でも見ているのだろうか。そう考えて再び目に手をやったが、その手は鏡から伸びた美女の手に掴まれた。
『キミと取引したいんだ、まぁとりあえず話だけでも聞いてってよ』
「さ、触ってる……? なに、なんなんだよ、なんなんだよお前っ……」
『口の悪いコだなぁ、男の子にモテないよ?』
「口が良くてもモテるわけないだろこんな怪物!」
『まぁまぁ、ほら、とにかく……来てよ!』
僕の手を掴んだ美女の力は異常に強く、僕は鏡の中に引きずり込まれてしまった。
「……な、何ここ」
『とりあえず鏡の中に作った仮住居さ』
広さすら分からない真っ暗な空間で無意味に周囲を見回していると突然目の前に先程の美女が現れた。
『改めまして、はじめまして、ボクは女神、キミと取引がしたいんだ』
これは現実なのだろうか。鏡の中に引きずり込まれるなんてありえない。けれど腕を掴まれた感覚は確かにあった。赤いドレスに身を包んだ美女は恐ろしさほど覚えるほどに美しく、とても人間とは思えないけれど、目の前に確かに存在している。
「……取引って何?」
『おや、お前は誰だとかごちゃごちゃ言わないんだね、好きだよキミみたいな便利な子』
「…………何? って聞いてるんだけど」
美女を罵りたい気持ちを抑え、じっと睨みつける。
『ボクは女神様なんだけど、元々ボクが居た世界が魔物の王に支配されちゃって、僕はその王に追い出されちゃったんだ。取り返したいけど今のボクにはそんな力はなくて……だから人間の力を借りたくてね』
「魔物……?」
『ゲーム、えっと、RPG系やったことない?』
ゲームは父に禁止されている。首を横に振ると美女──いや、女神はわざとらしく驚いた。
『そっかー……ま、分かるよね? 悪いヤツに居場所を追われちゃったんだよ。んー……例えば、家にいたら強盗が来て家を追い出された感じかなぁ』
「……警察でも呼べば」
『神様を守ってくれる警察が居ればいいんだけどね、それがないからキミに頼んでるんだよ。異世界転生とか転移とか流行ってるんでしょ? 知らないの? ぁー、サブカル疎い子かぁ面倒臭い。まぁいいや、本題。キミをちょっと強くしてボクが取り返して欲しい世界に送るから、その世界を魔神王から取り返して欲しい』
例え話で言えば僕に強盗を追い出せと頼んでいるのか、この女神とやらは。頭がおかしいんじゃないのか? どうして僕なんだ。
「強い奴が欲しいなら格闘家でも選べば」
『ボクはそれでもいいけどさ……キミはそれでいいの? 取引なんだからさ、キミにも得はあるんだよ?』
「得? 何?」
『幸せ、さ。世界を取り戻して神の力が増したボクなら人間一人を幸福の絶頂に導くのなんて容易なんだよ』
それは魅力的だ、そう言いたいところだが僕はそこまで単純ではない。
「……悪いけど他当たって」
『優しい友達が苦労せずできるよ?』
僕が幸せになれるなんてありえない。
『お父さんに犯されたり殴られたりしなくなるよ?』
僕の人生が今更好転するなんてありえない。
『火傷、皮膚移植なんかより綺麗に治せるよ? 元通り、いや元の顔より綺麗に、女優さんみたいにしてあげるよ? そのぺったんこの胸も膨らませて、その短い手足も伸ばして、手入れいらずの綺麗な肌をあげる。ボクみたいに美人になれるよ?』
女神のような美人に……?
「……具体的には何をすればいいの?」
『お、やる気になった? 何、簡単なことさ。魔神王の力の源を少しずつ奪うんだ。詳しいことは向こうに用意するお助けキャラに教えてもらって。魔物との戦い方もね』
戦い方……戦うのか。僕の左半身はまともに動かないのに。
『他にも困ってる人助けたり、時々ボクがする頼みごと解決したりしたら、攻略が進んだってことにしてじわじわ幸せにしていくから』
成功報酬でないというのはいい、やる気が持続する。
『やる?』
「……やる」
『キミ携帯持ってる? ガラケーじゃなくてスマホ、正しくはスマフォね。スマホだと別の略語にもなるし……まぁそれはいいや、アレあると便利なんだけど、持ってないの?』
「…………持ってない」
『えー最近の女子中学生のくせに遅れてるなー。仕方ないな、ボクが買って……あげた!』
女神は僕に最新型の携帯端末を投げつけた。彼女の服と同じ赤色だ。
「……赤あんまり好きじゃない。黒とかに変えてよ」
『初期設定は済ませてるからね。あと便利そうなアプリ何個か入れてある、ゲームとか好きなアプリ入れていいよ。容量も通信料も充電も気にしないで。あ、課金は別だよ。で、本題。このアプリ』
「交換受け付けてくれないの……?」
女神は猫の頭のシルエットのアイコンを指差す。
『なんと! このアプリでどこでも異世界転移ができまーす!』
「…………ふぅん」
『反応薄くない? すごいんだよこの「にゃんにゃんいせかいすこーぷ」略して「にゃんすこ」』
アイコンの下には「にゃんすこ」と書かれている。
『いやぁ、取引に応じるまでここから出さないつもりだったからね、簡単に応えてくれてよかったよ。それじゃ、この空間保つの疲れるからキミ出すね。時々鏡かケータイ通してキミの様子見に行くよ、ばいばーい!』
視界が光で溢れ、明るさに目が慣れると見慣れた天井に出迎えられた。
「目が覚めた? よかった……あなたトイレで倒れてたのよ?」
担当の看護師がベッドの隣にいた。
アレは夢だったのだろうか。鏡に自分以外の者が映るなんて、鏡の中に吸い込まれるなんて、女神に世界を救えと言われるなんて──
「ぁ、そうそう、あなたスマホ握り締めてたけど、これあなたのよね?」
看護師は赤い携帯端末を僕に渡した。
「……ありがとうございます」
女神にもらった物だ。パスコードは0521、僕が入れた僕の誕生日。「にゃんすこ」とかいうアプリも入っている。
あの鏡の中に現れた美女は、鏡の中の世界は、現実だ。
「それじゃ、何かあったらこれ押してね」
看護師は丁寧にナースコールを指してから部屋を出ていった。
「……………………幸せになれる」
現実だった、現実だった、あの取引は本当にあった、僕は幸せになれる、女神に幸せにしてもらえる……!