最善を求める、それが義務
自分を抱き締めているアンの右手は元の綺麗な人間の手へと戻っていた。その手はよくよく見れば女の手ではない。骨張って、筋張って、硬そうだ……いや、実際硬かった。
アンは切り裂かれたワンピースを引っ張って前を隠し、ふらふらと窓の方へ歩き、月を見上げて尾を引く高い声を上げた。イヌ科の遠吠えのようなそれは静かな暗闇の晴天によく通る。
『…………また、助けにきてくれたんですね。ありがとうございます……これで三度目ですね』
歌でも歌う気かと身構えていたが、アンは遠吠えを終えてすぐ僕の方へ向き直った。
「アンさん……」
さっきの獣のような手はなんだ? 男だったのか? 魔物なのか?
疑問はあるが、まず聞くべきなのは──
「大丈夫ですか? 怪我は? ナイフは肌に届いていませんか?」
──無事かどうかだ。
『…………大丈夫です』
「そう……よかった」
『ごめん、なさい…………騙して』
ドレスを着ていた時は隠されていた喉、手、それらを見れば彼女が男だと分かる。ドレスの装飾と形で誤魔化していた体型も薄手の部屋着はくっきりと浮かび上がらせている。
「……騙されたなんて思ってませんよ」
僕も現実世界では男装しているようなものだ。両親にそう育てられたからで、自分の意思ではないけれど。
『わ、私っ……森で、仲間をユウさんとジャックさんに助けてもらって、お礼しなきゃって……でも私ドジで、迷惑ばっかりで……! 騙すつもりじゃなかったんです、でもあの姿のままお礼なんてできないから、とりあえずお礼だけ受け取ってもらえたらなって、私っ……』
「え……? ま、待って……森でって何? 君は……」
「人狼だろう」
金属の擦れ合う音と共にジャックがリビングに入ってきた。
「なるほどな……樹液による治癒力と即効性から人ではないと踏んでいたが、お前、あの狼か」
人狼? 狼? どういうことだ?
アンは先程右手を変形させていた、あれが全身に及ぶと森で会ったあの白狼になると? そんな非現実的な……いや、そんな考えは今更か。
『ごめんなさい、ごめんなさいっ……』
「アンさん、謝らないで……」
「しかし分からない、人里と森で二重生活をするなら負担は減らすべきだ。何故人目を集める歌手なんてやって、性別まで偽っているんだ?」
「ジャック!」
「なんだ」
「そういうのは……」
僕も気になっている事柄だが、少なくとも今聞くのはよくない。
『だっ……て、可愛い女の子じゃなきゃ、お父様に愛してもらえない。醜い狼の雄なんか! お父様は要らない!』
その絶叫に僕の心の奥深くが揺さぶられた。父親と正常な関係を築けていないところに共感してしまったのだ。泣きじゃくる彼……いや、彼女の背を摩ってやろうと手を伸ばす。しかしその手は窓から入ってきた狼に噛み付かれた。
「痛っ……!?」
『ぁ……そ、その人じゃない、その人じゃないってば! 離せ!』
先程の遠吠えは群れの仲間を呼ぶ声だったのだろう。あの男に復讐するつもりだったのか、襲われて怖くなったから呼んだだけなのか──それはどうでもいい。
「ユウっ……腕を見せろ!」
狼はアンの命令を聞いて僕の腕を解放した。
「ユウ、ユウ……そんなっ、俺が着いていながら……! ユウ、大丈夫か? 大丈夫じゃないな。人間に樹液は大して効かないし、そもそも持ってないし……えぇと、止血、まずは止血だな。抑えるぞ、痛むだろうが耐えてくれ」
心配されていると思うと嬉しくなった。自分より取り乱している人を見ると落ち着くのは人間の習性だろう。機械のくせに焦っているのも面白くて、腕は確かに痛いのに思わず笑みを零したその瞬間、銃声が響いた。
「大丈夫ですか!?」
鎧を着た男達が猟銃を持って開いたままの窓から入ってくる。
「こちらの庭で逃げた男が狼の群れに襲われていて……」
「家の中にも入っていったのが見えたので……」
銃弾は狼の頭を吹き飛ばしていた。
「噛まれてるじゃないですか! 今すぐ治療を!」
「どんな病気持ってるか分かったもんじゃありません、他の方は怪我は!?」
僕の傷を心配する男達の後ろでアンが即死した狼の傍に座り込み、恐る恐る胸元に触れている。
『ゃ……だ、起きて、起きて……起きてよぉ……』
街の人間にとっては害獣でもアンにとっては群れの仲間だ。狼の習性はよく知らないが、家族のようなものだろう。
「ジャック……セーブしなかったらやり直せるんだよね、六十時間経って一回現実世界に戻ってからじゃないとやり直せないの?」
「いや、ロードはいつでも出来る。だがそちらの世界で決めた六十時間は累計だ、やり直してもその時間はリセットされない」
「ロードして、お願い! 腕怪我したし、これは最善じゃない、最善になるようやり直したい!」
「ロードは鍵を逆に回すことで行われる。俺の意思では出来ない」
僕は首から下げてシャツの中に入れていた鍵を引っ張り出し、セーブの時とは逆に回した。
「記録解析中……記録解析中……解析完了、ロード中……ロード中」
酷い目眩を起こし、座り込んで目を閉じる。
「ロード完了」
ジャックの声が聞こえたかと思えば僕は酒場に戻っていた。
『ユウさん? ユウさん、聞いてますか?』
トントンと肩をつつかれ、顔を覗かれる。
『眠くなっちゃいました?』
鮮やかな色の酒が入ったグラスを揺らし、ほんのりと頬を赤らめたアンが微笑む。
「…………アンさん」
彼女が着ているドレスは特注か手作りだと予想する。喉や手足の筋張った部分を隠し胸や腰回りを誤魔化し、男性らしさを完全に消している。露出した太腿をよく観察すれば脂肪が少ないのが分かるが、女らしくないと言えるほどでもない。
アンの笑顔をもう一度見られたことに安堵し、初めてのやり直しを成功させることを心の中で誓った。
「ジャック、前の記憶は?」
「俺とユウだけが覚える、女神様も閲覧できる」
「アンさんは覚えてないんだね? なら、ジャック、余計なこと言わないでよ? 狼とか男とか……そういうこと」
「分かった」
アンが歌い始めた時にジャックに耳打ちした。ただでさえ騒がしい酒場だ、アンが人間以上の聴力を持っていたとしても聞こえていないはずだ。
やり直す前と同じように時は進み、僕達はアンの家に泊めてもらうことになった。同じように道を歩き、同じように男達と話し、同じようにアンの家に到着。
「ユウ、熱線暗視装置を起動してみたが、庭に人が潜んでいるようだ」
「ねっせ、あん……?」
「……暗いとこでも見えるようになるメガネだ」
「そんなのあったの? えっと……アンさん、ジャックが庭に何か居るって」
『……庭に?』
アンは不思議そうに首を傾げて庭へ向かった。僕はジャックの手を掴んで慌てて後を追った。
『どの辺りですか? 何かって、どのくらいの大きさで……』
野生動物が入り込んだ程度の認識だろうアンを無視し、ジャックが植木に向かって走る。陰に隠れていた何者かを殴り、引き摺ってきた。
『え……! ぁ、さ、さっきの……!』
鼻血を出してぐったりとしている男はアンのストーカーに違いない、何度も見た顔だ。
僕達はその後見回りの男達──衛兵達に男を引き渡し、アンの家に泊まった。ストーカーが庭に潜んでいたショックからか前回とは違いアンは晩酌をせず、すぐに自室に引っ込んだ。何かあったら叫んでくれとよく言い付けて僕も眠り、翌日の朝。
「ふぁ……よく寝た。ジャック、あと何時間?」
「残り五十二時間」
やり直しを含めてもその程度か、僕は濃密な時間を過ごしているんだな。
「二日と……えっと、二日が四十八で、四時間。二日と四時間だね」
明明後日の昼頃に現実世界に戻ることになるのか。
「何するかまだよく分かってないけど……とりあえず、身支度しよ」
何をしていけばいいのかはジャックが教えてくれる。彼は本当に便利だ、人工知能だから気を遣う必要は無いし、人間以上の機能も備えている。
自分というものが確立できていない僕は妙に凝った強い力を与えられるよりはジャックのようなサポートキャラが合っている、流石に神だけあって分かっているなと感心した。




