家の外と中の差
完成した夕飯を一人で机に並べる。父はずっと携帯端末を弄っていた。
いただきますもごちそうさまもなく、美味いとも何とも言わず、調味料を大量にかけて携帯端末を弄りながら食べていく。いつもの父だ、いつもの光景だ、それなのに居心地が悪いのは病院で調理の手間なく一人で食べる楽を知ったからだろうか。
夕飯を終え、皿を洗っていると背後に父が立つ気配がした。怯えつつも何も言わずにいると服の中に手が入り、胸元をまさぐられた。母と違って揉めるような脂肪なんてないのに何が楽しいんだろう。
「父さん……今は……」
「皿洗いなんて後でいいだろう」
「でも、早く洗わないと落ちにくくなるのもあるし……」
服の中から父の手が抜ける。諦めてくれたかと期待した僕は馬鹿だ。
「……っ、ぁ、や…………ご、ごめんなさい……父さん、ごめんなさいっ、待って、やだ、ごめんなさい!」
肩を掴まれて無理矢理振り向かされ、謝っても手遅れで、左頬を殴られた。
「ごめんなさいっ……ごめんなさい。し、します。皿洗い後にして、今父さんとするからっ……」
「…………勇二。父さんが何に怒っているか分かるか?」
「え……? さ、皿洗い優先したから……?」
胸を強く押されて尻もちをつく。頭を蹴られ、そのまま踏まれ、フローリングの冷たさを頬で感じる。
「口答えだ。口答えをしたからだ。父親の言うことに「でも」なんて言う奴があるか」
頭を踏んでいた足が離れたかと思えば、その足は次に僕の腹を踏みつけた。嗚咽し、反射的に足を掴むと更に体重をかけられた。
「それをやめろと言っているんだ! 俺に! 反抗するな! お前も結局あの女と同じか!? 違うなら俺に従え!」
どんっ、どんっ、と強く踏みつけられ全身から力が抜けた。すると父の足が床に戻った。
「…………それでいいんだ」
床に膝をついた父に頭を撫でられる。腹が痛くて何も言えずにいると父は僕の上に跨った。
「勇二、勇二は父さんの言うことをよく聞くいい子だろう? 入院生活で父さんと離れて寂しかったんだよな、構って欲しくて反抗的な態度を取ったんだろう。そんなことしなくても父さんはお前を愛しているよ、これからはたっぷり構ってやるからな」
服を脱がされながら視線を天井に移した。火災報知器を見つけ、何も考えずにそれを見つめ、父が満足するのを待った。
父が満足したら皿洗いを再開し、それが終わったらすぐに風呂に向かった。風呂場の鏡に映る怪物を憎しみを込めて見つめていると、その怪物が赤いドレスの美女に変わる。
『こんばんは、女神様だよ。お加減いかが?』
咄嗟に体の前にタオルを広げた。
『貧相な体つきだねぇ。それでも男性に求められてはいるようで……父親だけど。きゃあ、近親相姦? あっはは、最高、愉悦、キミを選んでよかったよ』
「……そんなこと言うためにわざわざ来たのかよ」
『暇だったんだ。お話しようよ』
女神と話すことなんて──あぁ、そうだ、知りたいことがある。
「…………僕、まだ妊娠出来るか分かる? 結構前からお腹よく殴られたり蹴られたり踏まれたりしてるんだけど」
『ん~……にゃ~……』
女神は猫の手を真似てふざけている。
「……もういいよ!」
『全てにゃるっとお見通しぃ! え? 女神様アイで見てあげたのに知らなくていいの?』
ふざけていたわけじゃなかったのか。いや、少なくともおふざけ混じりではあった。
「……ごめんなさい。教えてください」
『はぁい、結論から言えば妊娠は可能だよ。ま、したとしても今まで通りの生活してちゃ速攻流産だろうけど』
「め、女神様は……その、妊娠しないようにとかできる? 不安、なんだ……初潮があった日からずっと怖くて」
女神は面倒臭そうな顔をしている。本当に性格が悪いなコイツ。
『……異世界の攻略を進めてくれたら幸運が溜まって、キミが望む人生に近付いていくよ、頑張って』
僕を不妊にはしてくれないのか。
「ま、待って! あの……外で男の子と知り合ったんだけど、なんか色々出来すぎてて……あれ、もしかして女神様が?」
『ボクが報酬として随時与えるのは幸運。ボクがキミに与えるものを選んでるんじゃなく、キミが欲してるものが引き付けられるんだ。キミが男を望んでいたなら幸運がそれに応えたのかもね』
「そんな言い方っ……! 僕は!」
僕の言い分を聞かずに女神は姿を消し、鏡の中に怪物が戻ってきた。半分焼けただれた怪物の表情は暗い。
「…………僕は、この火傷を気味悪がらない友達が欲しかったんだ……男を望んでたなんて、そんな言い方やめてよ。欲しかったのは男じゃなくて、優しい友達なんだよっ……なぁ、戻ってこいよ、謝れよぉっ……!」
鏡に向かって醜い泣き顔を晒しても自分が不快になるだけだった。
風呂を上がり、包帯を巻き直さずに寝間着を着て自室に戻る。歯磨きをしつつ携帯端末を持ち上げるとメッセージアプリからの通知に気付いた。数時間前のものだ。
「式見蛇……?」
早速何を送ってきたのだろうと開いてみれば「退院したなら学校来るよね、いつから?」と。そんなことを聞いてどうする気なのだろう。
友達が欲しかったのに、式見蛇と友達なりたかったのに、急に返信が面倒臭くなってきた。だが、無視するのは失礼だろう。火曜日からだと正直に返した数十秒後「じゃあ一緒に行こう、迎えに行くから」と返ってきた。
「……気持ち悪いと思ってるくせに」
女神が与えるのが幸運なら人の意思を曲げるのは不可能だ。なら、怪我人に優しくして悦に浸るタイプの人間を引き合わせたといったところだろうか。気の弱そうな式見蛇がそんな人間だとは思い難いけれど、左半身に包帯を巻いた男にしか見えない女の隣を歩きたがる理由なんて、周囲の人間に好印象を与えることしか思い付かない。
「……………………やな奴だなぁ、僕……」
真実に気付けない愚か者でいいから、他者の行動から厚意を読み取れる人間に生まれたかった。
遠慮の返信をしようとしたが父に扉を叩かれ、慌てて携帯端末を隠した。
「な、何? 父さん」
「お前の分が紛れていた。ほら……明日辺り片付けなさい」
父が持ってきたのはダンボール箱だ、父の部屋に僕の荷物が紛れていたらしい。
「あ、ありがとう……わざわざ。えっと、その……お、おやすみなさい」
僕は式見蛇への返信を忘れてそのダンボールを開け、母に与えられた男の子用オモチャを眺めた。どれもよく遊んだ懐かしいものだ。
このオモチャで遊んでいる間は母は優しかった。このオモチャを持って誘えば一緒に遊んでくれることもあった。僕が息子ではないと思い出してはヒステリーを起こしていたが、僕は母が大好きだった。
「……母さん、ごめんなさい」
大好きな母を僕は助けられなかった。母の死を他人に知らせることすら出来ていない。
泣いていたら遅い時間になってしまった。僕は慌てて布団を敷き、異世界に潜る時間を決めた。




