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大那物語

鳳凰の羽根

作者: ginsui



 なんてこった──。

 久丹(くに)は、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

 目の前をとうとうと瀬也(せなり)川が流れている。

 この川を渡り、半刻も歩けば久丹の住む瀬座(せざ)村だった。今日中に、我が家にたどり着けるはずだった。

 それなのに。

 久丹は、うらめしそうに前を見た。

 橋が消えている。

 平地ではたいした雨ではなかったが、上流の方では思いのほか降ったらしい。

 増水した川は、古い木の橋を、ものの見事に押し流していた。なんとか残った橋桁にぶつかって、水が白いしぶきを上げていた。

 瀬也橋の老朽化は、長い間瀬座の村人たちの懸案事項だった。国府や他の村への幹線道も、橋が無ければ寸断される。壊れる前に何とかしなければ。

 木材の数やら人夫の日当やら、こまごまと算盤をはじき、予算を組み立て、国守の許しも出た。棟梁も決まり、ようやくこの秋が過ぎたら架けかえることになっていたのだ。

 よりにもよって、自分が渡ろうとするその時に、こんなありさまになっているとは。

 対岸の、穂を出しかけた葦の茂みが、そよそよと風になびいている。早く来いとまねいているようだ。

 泳いでいけない距離ではなかった。だが、あいにくと泳ぎは久丹の得意とするところではない。飛んでも行けないとなると、ぐるりと回り道するしかないわけだ。

 久丹がため息ついたとき、後ろに人影がさした。

 振り返ると、一人の男が立っていた。

 年の頃は自分と同じ、二十歳を少し超したくらいだろうか。まっすぐな黒髪を背中に長く垂らしていた。髪を結わないのは、漂泊の民の証。

 旅嚢を肩に掛け、大きな革袋を背負っている。その形からすると、中身は琵琶か。旅の琵琶弾きは、これまでにも何度か見たことがあった。

 中背で、ほっそりとした面立ちはなかなか美しい。こんな田舎をうろついているよりも、どこかの館のお抱えにでもなっている方が似合いそうだ。

 一方、琵琶弾きの方でも久丹を観察しているようだった。人の良さそうな細い目にとがった鼻。痩せて、やけに長くひょろひょろした手足。筒袖の上衣も袴も、あきらかに丈が足りていない。

 久丹は立ち上がった。いくぶん猫背だが、琵琶弾きを充分見おろせる背丈だ。

「あんたも、向こうに行くつもりだったのかい」

 琵琶弾きはうなずいた。

「瀬座村は、こっちの方だと聞いてきた」

 低いが、涼やかで落ち着いた声だった。

「その通りだ。だが、橋が流れちまった」

「他に道は?」

「山越えするしかないな。だいぶ遠回りになるが」

「そうか」

 琵琶弾きは、川の上流の、ほんのり色づきはじめた山を見やった。

「しかたがない」

「道はおれが知ってるよ。迷ってもめんどうだ。一緒に行こうか」

 琵琶弾きは眉を上げた。

 久丹は笑ってみせた。

「おれは鴉の一門の久丹。瀬座の村役人だ。国府に文書を届けた帰りでね」

 琵琶弾きは、軽く頭を下げた。

「そうしてもらえれば、ありがたい」

 琵琶弾きは、羽白(はしろ)と名乗った。

「しかし、瀬座に何の用があるんだい」

 歩きながら、久丹は首をかしげた。

「会いたい人間がいる」

「ほう」

 村に住んでいる者なら、ほとんど知っている。しかし、琵琶弾きと結びつく人間など、皆目見当がつかなかった。

「名は?」

「名は知らない。彫師だ」

「彫師」

遠海(とおみ)の市で、見事な木彫りの鳳凰を見た」

「なんだ」

 久丹は笑って頷いた。

(けい)だな、それは」

「知り合いか」

「幼なじみだ」

 背中を丸めて、一心不乱に鑿を動かしている景の姿が思い出された。

 久丹が村を出たのは三日前だったが、ちゃんと食事はとっているだろうか。こちらから声をかけなければ、眠ることさえ忘れているようなやつだから。

「よく知ってるよ。あいつは鳳凰しか彫らない」

「なぜ」

「いくら彫っても、思うような物ができないらしい」

 鳳凰は大昔に死滅した。龍よりも古い生きものなのだ。伝説に残っているだけで、その姿を見た者は誰もいない。それらしい鳥を彫ればみな鳳凰になるはずなのに、景は自分の鳳凰を追い求めている。

「充分すばらしかったが」

 羽白は言った。

「翼を広げて飛び立つまぎわの鳳凰だ。羽の一枚一枚まで緻密で、いまにも啼き声をあげそうだった。その目で見たのではないかと思えたほどだ」

「あいつの腕はみんな認めている」

 久丹は頷いた。

「だが、自分が満足しなければしかたがないな」

「たしかに」

 羽白は、ちょっと笑ったようだった。

「あの彫物を見て、鳳凰の曲を作ってみた。でも、なにか違う。彫った人間に会えばもう少しいいものができるかと思った」

「ふうん」

 彫物も芸のうちに入るなら、芸人同士呼応するものがあるのかもしれないな、と久丹は思った。が、訊ねたのはもっと現実的なことだった。

「その彫物、いくらだった」

「銀二粒」

「へえ」

 久丹は驚いた。

 半年に一度、景のところにやって来ては木彫りの鳳凰を買い取っていく商人がいる。そんなに大きなものではないから、毎回十個は持って行くが、五粒ほどの銀しか置いていかないはずだ。

 景が金に無頓着なのをいいことに、あいつめ、だいぶ儲けているとみえる。

 久丹は、肩をそびやかした。

 今度会ったら締め上げてやらなければ。

 獣道よりはいくらか広い山道だった。橋が出来るまでは、みなこの道を通っていたのだが、今は狩人か炭焼きくらいしか使う者はいない。

 このあたりは山萩が多く、赤紫の花が茂みのあちらこちらから顔をのぞかせ、目をいこわせた。

 羽白は無口なたちらしく、話しかけるのはもっぱら久丹だった。しかし、時折おきる長い沈黙も嫌なものではなかった。こういう相手は、景で慣れていた。

 景と羽白、二人の出会いを、少なからず楽しみにしている自分がいる。

 まあそれは、明日のことになりそうだ。

 道はずれに、いくらか広い草地を見つけたところで、久丹は羽白に声をかけた。

「悪いな、羽白。もうこのあたりで野宿していいか」

 日没まではまだ間があった。だが、秋の日暮れは早いのだ。

「おれは鳥目なんだ。夕暮れになると、ほとんど見えない」

「そうか」

 羽白はうなずいた。

「鳥の一門だからってわけじゃないんだけどな」

 冗談めかして久丹は言った。

「不便このうえない」

「鴉の一門だったな」

 羽白は言った。

「瀬座に〈鴉〉は多いのか?」

「いや、ほとんど鷲の一門だな。〈鴉〉はおれと景だけだ」

「鴉の一門には、初めて会った」

「珍しいことは確からしいよ」

 この大那に根付いている人々は、みな守霊を持っている。

 獣や鳥、爬虫類。大昔から守霊を同じくする一門ごとに生活の規範をつくってきた。時代は流れ、〈龍〉や〈鳳凰〉のような古い一門は滅び、人々の行動範囲が大きく広がっても、田舎の小さな村などはたいてい同じ一門の者がかたまって住んでいる。

 二人は野営の火をおこし、それぞれ手持ちの食料で夕食をとった。陽が暮れかけ、視界がおぼつかなくなってきた久丹は、ごろりと横になるしかなかった。

「琵琶の稽古をしていいか?」

 羽白が尋ねた。

「もちろんだ。気兼ねなくやってくれ」

 久丹は片肘ついて横になったまま、焚き火の向こうの羽白に言った。

 羽白は琵琶を弾きはじめた。はじめは手慣らしのように短い古謡を一二曲。

 なかなかの腕前だ。

 橋が流れたおかげで、ずいぶん贅沢な時間をおくっているな。と、久丹は思った。こんなにみごとな音曲を、寝そべりながら独り占めしているなんて。

 いつのまにか、曲は久丹が聴いたことのないものに変わっていた。伸びやかで、重厚な調べだ。高く高く、舞い上がっていくような。

 これは、羽白がつくってみたという鳳凰の曲かもしれない。景の鳳凰を見ただけで、こんな曲をつくるとは。

 最後の旋律を、羽白は何度も調子を変えて弾いていた。

 曲の落としどころを考えているのだろうか。景と会うことで、それが見つかればいいのだが。羽白と景の出会いが、ますます楽しみになってきた。

 羽白は軽く息をはきだして琵琶を置いた。

 弦が静かに鳴った。

 はじめは、細かな振動だった。それはしだいに長い震えとなり、鳴っては止まり、鳴っては止まり、一定の調子をとりはじめた。

 羽白が、身じろぎするのがわかった。

 ただならぬものを感じて、久丹は身を起こした。

「どうしたんだ、羽白」

「琵琶が」

 羽白はつぶやくように答えた。

「ひとりでに鳴っている」

 そうしている間にも、弦の音は強くなっていた。単調な音の響きは夜気を震わせ、心をざわつかせた。

「なにが起きているんだ」

 羽白の声は聞こえなかった。

 その時、一段と高くなった音が鋭い閃光のように頭を貫き、ふっと意識が遠ざかった。





 羽白は目をあけ、軽く頭を振った。

 意識が飛んだのは一瞬のことだ。抱えたままの琵琶には、まだ弦音の余韻が残っていた。

 すぐ側に、久丹がうずくまっていた。彼も顔を上げ、驚いたように立ち上がった。

 とたんに鈍い音がして、久丹は頭を押さえてしゃがみこんだ。

「なんなんだ、これは」

 二人がいたのは、大きな籠の中だった。久丹はその天井に頭をぶつけてしまったのだ。

 頑丈に編み込まれた竹の格子が、四方を囲んでいた。

 格子をすかして、赤々と焚かれているかがり火が見えた。そして、かがり火を背に、立っている者たちの姿も。

 弓を持ち、矢筒を背負った男たちが十人ほど、ぐるりと籠をとりかこんでいた。凍りついたように二人を眺めている彼らの弓弦もまた、かすかに震えている。

 みな短髪で肌の色は濃く、腕がむきだした厚めの貫頭衣を身につけていた。帯も、膝下まで巻いた脚絆も何かのなめした革でできているようだ。やはり革製らしい額巻き。大那でこんな姿をしている者は、見たことがない。

 かがり火の方から悲鳴が上がった。何人かの女の悲鳴だ。

 男たちは,弾かれたようにそちらに駆け寄った。

 いっせいに何かを言い合っている。叫び交わす言葉が、しだいに意味を持って聞き取れるようになってくる。

「大呪者が死んだ!」

「呪者たちを落ち着かせろ」

「ちがう」

 と、彼らは言っていた。

「なぜだ」

 とも。 

 悲鳴は、いつしか低いすすり泣きに変わっていた。

「羽白」

 かたわらで久丹がささやいた。

「連中の姿。あれは大那の人間じゃない」

 羽白は久丹を見た。

「見えるのか」

「ああ、見える」

 久丹は、はっとしたように目をこすった。

「まだ夜なのに」

 疑問はあふれるほどあった。ここはどこで、なぜ自分たちはこんな籠に閉じ込められているのか。

「羽白」

 久丹は言い、絶句した。

 久丹は、竹格子から見える夜空を仰いでいた。青黒い雲が切れ、満月が顔をのぞかせていた。

 そしてその隣には、二まわりほど小さな、もうひとつの月。 


 弓を持った一人がこちらに向きを変えた。

 まだ、少年だ。つかつかと歩み寄り、弓に矢をつがえて鏃を羽白に向けた。

「やめろ、サイ」

 誰かが彼の腕をつかんだ。

「離せ、リン。こいつらには、用がない」

 サイは、叫ぶように言った。

「だからといって、こいつらの罪じゃない。失敗したのは、大呪者だ」

 リンはサイから矢を取り上げた。

「なぜだ」

 サイは首を振った。

「大呪者が失敗するはずがない。なんで鳳凰ではなく、こんな人間が」

「鳳凰?」

 羽白と久丹は同時に口にした。

 かがり火の前の一団が、何かを運び上げて移動しようとしていた。死んだという大呪者だろう。女らしい二人が、誰かに抱えられるようにして後に続く。

 リンはサイをそちらに押しやった。

「悪かったな」

 サイが行ってしまうと、リンは言った。

 羽白たちと同じくらいの年の頃だろうか。太い眉、彫りの深い顔立ちは、明らかに大那の者とは違う血をしめしていた。久丹にも負けない長身で、筋肉質のしなやかな体躯をしている。

「いったい、ここはどこだ」

 久丹が格子に手をかけて言った。

「なぜ、おれたちはここに来た」

「おれたちも混乱している」

 リンは、眉間に深い皺をよせた。

 リンの背後から、白髪の老人が現れた。

 濃い眉からほお骨にかけて大きな傷跡があり、右目が痛ましく瞑れている。肩幅広い、がっちりとした体つき。若いときはさぞかし壮健だったに違いない。

 首には、ずしりと重そうな首飾りをかけていた。黒光りする、なにか大きな獣の爪のようなものが数個つけられている。これほど大きな爪をもつ生き物が、この世界にはいると言うことか。

「長」

 リンが振り向いた。

「どうする?」

「どこでどう間違ったのか」

 長と呼ばれた老人は、ゆっくりと首を振った。

「わしには、わからん。念が乱れてしまったらしい」

「鳳凰を呼ぶつもりだったのか」

 羽白は言った。

「そうだ」

「間違ったのなら」

 久丹が、断固として言った。

「さっさと、帰してもらいたい」

「大呪者は、死んだ」

 長は、言った。

「あとは、若い呪者しかおらん。あれらが力をつけるまで、季が何巡りすることか。われらだけで、もう鳳凰は呼べぬ。おぬしらを、どうすることもできぬ」

「馬鹿な」

 久丹は、悪態をついた。

 長は深々とため息をつき、しばらく考え込んでいた。

「なにか、意味あることかもしれん。おぬしらが来たのは」

 やがて、長は口をひらいた。

「ここにいてくれ。明朝、迎えに来よう」

 

 羽白と久丹は、籠の中に取り残された。

 水音が聞こえていた。足もとは白っぽい細かな石。

 広い河原らしかった。明るい二つの月が、流れの速い川面をきらめかせていた。まわりの険しい山々の稜線も、くっきりと浮かび上がって見える。

「ここは大那じゃない」

 久丹が口を開いた。

「あの月もそうだが、空気が軽い。なんだか」

 羽白はうなずいた。

「それに、おれは夜でも目が見える」

 確かに、ここの空気は軽やかだった。羽白は、自分の身体にも不思議な充足感を覚えていた。力が、満ちてくる感覚。今まで、一度も感じたことのないものだ。

「地霊のせいかもしれない」

 羽白はつぶやいた。

「地霊?」

「地霊が充ちている。そんな気がする。久丹の目も、それで癒されたんだ」

「なるほど」

 久丹は顎をこすった。

「ここは、大那より若い世界。そういうことか」

「ああ」

 地霊は、生きものの命の源だ。あらゆる生きものの魂は地霊から生まれ、死してまた地霊へと還っていく。

 かつては大那も地霊に溢れていた。龍が翔び、鳳凰が舞った。だが、時代を経るにつれ、地霊は衰えた。霊的な生きものも、それを守霊とする一門もいつしか姿を消した。大那は、この世界よりもずっと年老いているのだ。

「だが、そもそもおれたちは、なぜここに来た?」

 久丹は、考えこんだ。

「鳳凰を呼んだはずだ、と言ってたな。失敗したとも。おれたちは、ここに間違えて引き寄せられた。あんたの弾いた鳳凰の曲のせいだろうか」

 羽白は黙って久丹の言葉を聞いた。見かけによらず、久丹は冷静な人間らしい。この状況を見極めようとしている。

「連中の弓弦が震えていた。あんたの琵琶も。何かの力が共鳴をおこしたのか」

「かもしれない」

「大呪者とやらの呪力か」

 羽白はうなずいた。

 呪力は地霊から生み出される。別の世界のものを呼び寄せるほどの呪力だ。大量の地霊を必要とするにちがいない。この世界は、それだけ地霊が豊かだということだ。

「来たのなら、戻る方法も必ずある」

 先ほどの長の言葉をはねのけるように、久丹はきっぱりと言った。

「大那に帰らなくては」

「ああ」

「それにしても、窮屈だな」

 久丹は頑丈な籠の中を見まわした。

 羽白も倣い、やがて下の方に四カ所結びつけられた縄を見つけた。それをほどけば格子を取り外せるようだ。

 縄は太くはなかったが複雑な結び目になっていた。

「こういうのは、得意なんだ」

 久丹は手を動かし続け、ついに縄をほどいた。

 二人は籠から抜け出すと、かがり火の側に座り込んだ。

 どこからか、虫の音が聞こえてくる。季節は、夏の終わりか秋の初め。少しづつ冷えてきた夜気に、燃える火はありがたかった。

 このまま彼らから逃げだしたら?

 だが、逃げたところで、この世界のことは何もわからないのだ。もう少し、情報が必要だ。彼らがすぐに自分たちに危害を加える様子もないようだし。

 久丹も同じ思いのようだ。

 久丹はかがり火の前に座り込んだ。夜空を見上げ、

「眠ってもいいぞ、羽白。異界の夜に、何が潜んでいるか見当もつかない。おれが番をしているよ」

「交代しよう」

「眠たくなったら頼む」

 久丹は笑った。

「おれは、夜を楽しみたいんだ。異界とはいえ、夜に目が見えるのは子供の時以来なんだよ」

「そうか」

 羽白はその場に横になった。大地の地霊が、じかに感じ取れるようだった。

 この世界は、むせかえるほどの地霊にあふれている。龍も鳳凰も、ここでなら生きていけるに違いない。かつて大那がそうであったように。

 長の首飾りを思い出した。あれは、龍の爪ではなかったか?

 おかげで、龍の夢を見た。

 何匹もの龍が、連なって空を翔んでいる夢だ。龍たちは数尽きることもなく、身をくねらせながら悠然と大空を横切っていった。

 目を覚ますとまだ夜半で、久丹と交代した。

 久丹は横になるとすぐに鼾をかきはじめた。

 久丹の存在が心強かった。こんなわけのわからない事態になっても、落ち着いているのがありがたい。

 本当に、自分の琵琶の音のせいでここに引き寄せられてしまったのか。

 羽白は考えた。

 彼らは籠をかこみ、弓弦を鳴らしていた。おそらく、大呪者の呪力を増幅させるために。念を合わせ、どこからか鳳凰を呼ぶはずが、答えたのは羽白の琵琶だったのだろうか。

 だとすれば、まきぞえにした久丹にすまないと思う。

 大那に戻る方法を、なんとしてでも探さなければ。





 久丹は身を起こした。

 夜は、しらじらと開けていた。川面には朝靄が漂い、東の方らしい尖った山の頂が赤みを帯びてかがやいている。

 身体を伸ばして立ち上がる。ここは、四方を険しい山嶺にかこまれた深い谷間だ。夜よりも、ずっと空が狭く見える。

「悪かったな、羽白。思ったより寝ちまった」

「かまわないさ」

 羽白は、火をかきたてた。

「眠れる時は寝ていた方がいい」

「あんたが同じ主義で助かるよ」

 朝霧の向こうから、男がたちやってきた。昨夜のリンとサイ、あと二人の若者だ。

 リンは、籠と二人を見比べた。

「出ていたのか」

「鳳凰と違って、手はあるんでね」

 ふふんとリンは鼻先で笑った。

「ついて来い」

 いやだといっても、力ずくで従わせようというのは彼らの様子を見れば明らかだった。むっつりとこちらを眺め、いつこちらに飛びかかってきてもおかしくない身構えだ。

「おれたちは、もといた場所に戻りたい」

 久丹は言った。

「それだけだ」

 リンは、ただ顔をしかめた。

 歩き出した羽白の琵琶を見つめて、リンが尋ねた。

「それは、何かの呪具なのか」

「いや」

「おれたちの弓といっしょに鳴っていた」

「楽器だ。琵琶という」

「不思議な形だ。あんたも呪者じゃないのか」

 羽白は首を振った。

「琵琶弾きだ、わたしは」

 リンたちが羽白の琵琶を聴いたら驚くだろうな、と久丹は思った。弦と言えば、弓弦しか思い浮かばない連中らしい。複雑な音曲に、呪力すら感じるかも知れない。

 眉を寄せ、ちらと考えた。

 やはり、自分たちがここに来たのは羽白の琵琶が一因なのか。


 川辺を辿っていくと、土手の斜面に歩きやすい広い道が作られていた。そこを登り切るともう村の入り口で、山を背にした細長い平地に、大小の草葺きの家々が散らばっている。

 わらわらと現れた子供たちが、遠巻きにこちらを眺めていた。久丹がにっと笑いかけると、後ずさって物陰に隠れた。

 村の中心の広場に、三つの高床の建物があった。その右側の一つが、無残にも半分焼け落ちていた。最近のことだろう。脇を通るとき、かなりの焦げ臭さが残っていた。

 リンたちは山の斜面よりの、大きな家に二人を導いた。普通の家を五つばかり繋げたくらい幅広い。

 戸口の前で、待ち構えていた者がいた。白髪交じりの、小柄な中年男だ。髪を頭の上で一つに結い、袖のある上衣に袴、幅広の腰帯。額巻きや革らしいものは身につけていない。肌は褐色だったが、大那の者とさほど変わらぬ格好だ。

「ラカタさん」

 リンたちは頭を下げた。

「連れてきたのか」

「長の仰せなんでね」

 ラカタと呼ばれた男は、じろじろと久丹たちを眺めまわした。

「どう見ても、人間だ」

「あたりまえだ」

 久丹は言ってやった。

「言葉がわかるのか」

「ありがたいことに」

「どこから来た」

「あんたがたの知らないところだ」

「困ったなあ、リンよ」

 ラカタはさほど困っていないような口ぶりで言った。

「龍が今来てもおかしくないのに、鳳凰の羽根はない」

「なんとかする」

 リンはぼそりと言った。

 ラカタを残してリンはさっさと家の中に入った。他の者も後につづく。

「あいかわらず、いやなやつだ」

 むっと押し黙っていたサイが言った。

「気にするな」

 リンは息をはき出し、首を振った。

 中は、地面を掘り下げた広い土間になっていた。等間隔に三つ、四角い炉が切ってあり、種火が燃えている。入り口の右側は竈になっていて、二つの甑がしつらえてあった。それから大きな水瓶と、いくつもの木の椀が積み重なったちょっとした棚。大勢の者が生活している気配だ。

 しかし、今は明かり取りの窓から陽が射し込んでいるだけで、誰もいなかった。

「長は、女たちと大呪者を葬りに山に入った」

 リンは言った。

「夕までには帰るだろう」

「今のは?」

「派遣吏だ。都から来ている」

 見たところこんな小さな山村に、都から直々に役人が派遣されているわけか。

 久丹は意外に思った。ここは、都にとってだいぶ重要な場所なのか。

「サイ、飯を食わせてやってくれ」

 サイは(こしき)に残っているものを椀によそい、箸といっしょに久丹たちに突き出した。

 受け取って驚いた。混じりっけなしの米なのだ。久丹とて、年に一二度しか食べたことはない。大那では、雑穀があたりまえなのに。

 それにしても、まわりに田らしいものはなかった。離れた場所にあるのだろうか。このあたりが、豊かな土壌とは思えなかったが。

 羽白は、といえば米の飯よりも自分たちの座った敷物に気をとられているようだった。

 灰色がかった、なめした皮ような敷物だ。厚く、弾力がある。こんな厚い皮を持つ獣がいるのか?

「これは?」

 羽白がたずねた。

「龍の皮だ」

 あっさりとリンは答えた。

「長がつけていたのは、龍の爪だな」

「そうだ」

「ここには、龍がいるのか」

 久丹は思わず口をはさんだ。

「いや」

 リンは首を振った。

「違う世界からやって来る。季の十数巡りおきに、この空に現れるのさ。西から東へと空を渡り、やがて消える。おれたちは、一匹だけその命をもらう」

「なのに」

 サイがぼそりとつぶやいた。

「鳳凰の羽根が無い」

「必要なのは、鳳凰の羽根か」

 久丹は尋ねた。

「鳳凰と龍、何の関係があるんだ」 

「生きている龍の鱗を射通すことができるのは、鳳凰の矢羽根だけだ」

 リンは言った。

「鳳凰も別の世界にいる。羽根が足りなくなると大呪者が呼び出す。大昔からそうしてきた」

この世界は背中がむず痒くなるほど地霊に溢れているというのに、鳳凰も龍も棲んでいないとは。それでいて、どちらも深くかかわっているらしい。

 他の世界との境界が、薄いのかもしれないな、と久丹は思った。ずっと昔は境界など無く、鳳凰も龍も自在に出入りしていたのかもしれない。自分たちも、大那に帰る方法を見つけ出せるかもしれない。

「前の〈渡り〉は十八巡前だ。いつ龍が現れてもおかしくない。ところが」

 リンは小さくため息をついた。

「鳳凰のかわりに、あんたがたが来た」

「好きで来たわけじゃないがね」

 久丹は、苦笑した。

「しかし、そんなまぎわのことなのに鳳凰を呼ぶのが遅すぎないか。それから矢羽根を作るんだろう」

「矢羽根はあった」

 怒ったように誰かが言った。

「燃えたのさ」

 久丹は、はっとした。

「あの高床」

 リンはうなずいた。

「雷が落ちた。全部、灰になっていた」

「本当に雷のせいだろうか」

 サイがぼそりと言った。

「ラカタが何かしたのかもしれない」

「めったなことを言うな、サイ」

 リンが叱るように言った。

「羽根が無くなって、あいつに何の得がある」

「だが、あの時、真っ先に倉の前に立って、燃えざまを眺めていたぞ。今だって、おれたちが困っているのを、おもしろがっているようじゃないか」

「あいつは王国の役人だ。困るのはあいつも同じことだ」

「そりゃあそうだが」

 サイはつぶやいた。

「あいつは、どうも好かない」

「ここは、国の直轄地か」

 久丹は尋ねた。

「国にとって、特別な場所なんだな」

「あたりまえだ」

 サイが胸をはった。

「おれたちは龍を狩る。それが務めだ。おれたちが獲った龍の首は、都に運ばれる。新しい龍の首とともに、〈王〉は代替わりするんだ。おれたちなしでは、王国は続かない」

「龍が来ないうちに王が死ぬことだってあるだろうに」

「いいや、〈王〉は死なない」

 サイは、きっぱりと言った。

「〈王〉は龍の首に守られている」

 龍の首は、一代の王の絶対なる守護となるわけか。

 龍はこの世界にとって、特別に神聖な生き物なのだ。その龍を狩る彼らもまた、特別な存在。

 しかし、鳳凰の羽根がなければ龍は射落とせないらしい。龍の首を代えられないとしたら、古くなる龍の首とともに、この世界の王権は存続の危機を迎えることになるのだろう。

「おれたちは、弓場に行く」

 久丹と羽白が空腹を満たすと、リンが言った。

「いっしょに来てくれ。あんたがたから目を離すなと言われているんだよ」

 羽白の琵琶を指さし、

「そいつは置いておけ。どこかに姿をくらまされても困る」



 


 この家は、若者宿なのだとリンが教えてくれた。子供以外の結婚していない男が、この家で集団生活をおくっている。

 村の男たちは、一日の大半を弓場での訓練か、山狩りをして過ごしている。龍が来るその日に備えるためだ。狩りは、食糧を得るためというより、龍を射るための重要な実践なのだ。

「米は誰が作るんだ?」

 歩きながら久丹が尋ねた。

「王国から来る」

 リンが答えた。

「米だけじゃない。獣の肉以外は、王国が整えてくれる。酒や野菜や、生活に必要なもの全部。それを取り仕切るのがラカタさんの仕事だ」

 家の裏手の山道を登り、しばらく行くと平らにならされた広い場所に出た。十代から三十代ぐらいの男たちが二十人ほど集まって弓の訓練をしていた。

 羽白と久丹を見ると、みな忌々しげな表情を浮かべ、そっぽを向いた。

 無理からぬことだと思う。龍がいつ現れてもおかしくないのに、鳳凰の代わりに自分たちが現れたのだから。

 平地のずっと奥にあづちが作られていて、両端の高い柱に板的をぶらさげた縄が張ってあった。的は大きく揺れており、中てるのはなかなかむずかしそうだ。

 リンたちが弓をとったので、羽白と久丹は所在なく彼らを眺めた。

リンはゆったりと打ち起こし、両腕を広げた。弓はかなり強そうで、二の腕の筋肉がみごとなほど盛り上がった。放たれた矢は、動いている的のほぼ真ん中を貫いていた。

 リンは、ほとんど的を外すことがなかった。この中で、一番腕が立つことはあきらかだ。リンよりも年上らしい男たちも、一目おいているようだった。

 的の付け替えに皆が弓を下ろした時、リンは陽の位置を確かめて、そのまま弓を片づけた。

「物見の交代だ」

「物見?」

「龍を見張る。いつ来るかわからないからな」

 二人一組らしく、サイもリンに従った。

 羽白と久丹は、ついて行くことにした。

 彼らは、さらに山道を登った。

「もし、いま龍が来たらどうするんだ」

 久丹が声をかけた。

「龍を射落とす矢がないというのに」

「ひとつだけ急所があるそうだ」

 サイが言い、眉をひそめた。

「喉の下の鱗と鱗の間だ。そこだけ皮膚が薄くなっている。普通の矢でも、同じところに何本も射ることができれば……」

「並大抵なことではないな」

「ああ」

 リンは久丹にうなずいた。

「だが、やるしかない」 

 彼らは生まれた時から、龍を狩ることを定められている。誇りと、あこがれをもって龍が来る日を待ちわびているのだ。

 それなのに、龍を射るべき矢羽根がないとは。

 龍の巨体に何の力もない細い矢で立ち向かう。勇壮で悲壮な光景が目に浮かんだ。どんな弓の名手が、龍を射落とせるというのだろう。

 リンたちは、階段状の急斜面を登って行った。

 後に続いて登りきると、視界が大きく開けた。

 そこは、切り立った崖の上に突き出た、弓場ほどの広さがある岩盤だった。縁から覗き込むと、すぐ下に昨夜の川が緩やかに蛇行しながら流れていた。まわりの山々の頂はほぼ目線にあったが、左右にひときわ高く、同じような形にとがった峰がそびえていた。

「東の峰、西の峰」

 リンが指さした。

「龍は東の峰の上から現れて、西の峰の上に消える。水に呼ばれるのか、川の上で下降する。狙うのは、その時だ」

 リンは、目を細めた。

「前回、おれは弓も持てないほど小さかった。だが、はっきりと憶えている。それはみごとな眺めだった」

 羽白は、二つの峰の間の雲一つ無い空を見上げた。たしかにすばらしい眺めにちがいない。昨夜見た夢のように、龍たちが次々と空を横切っていくのは。こんな状態にありながら、自分もそれを目にしたい思いはある。

「龍の曲でも創りたそうだな、羽白」

 かたわらで久丹が言った。

「いや」

 羽白は答えた。

「もう創ってある」

 久丹は破顔した。

「こんど聴かせてくれよ」

 東の峰に向かって、高い櫓が組まれていた。リンとサイは、するすると櫓に上った。代わりに下りてきた前の見張り番たちは、羽白と久丹をじろりと見て、行ってしまった。

「おれも上っていいか?」

 久丹は、櫓の上に呼びかけた。

「まあ、いいだろう」

 リンが答えた。

「高いところが好きなんだ」

 指を傷つけるのが嫌なので羽白は残り、久丹があぶなっかしく上っていくのを眺めた。

 櫓の上には大きな太鼓が据え付けられていた。龍が現れた時、それを打って知らせるらしい。太鼓の皮も龍のものを使っているのかもしれないな、と羽白は思った。どんな音が出るのか興味はあった。

 軽い足音がして、誰かが斜面を登ってきた。

 目を向けると、二人の女がこちらにやってくる。

 一人はすらりと背が高く、もう一人はだいぶ小柄。

 二人とも男のものより長い貫頭衣をまとい、髪を頭の左右に結い上げていた。薄い、きらきらした楕円状のものが何片も連なった首飾りをつけている。貝にしては薄く、透明に近い緑銀色。

 龍の鱗だ。

 背の高い方が、羽白の前にかがみ込んだ。羽白よりは何歳か年上に見える。目鼻立ちのはっきりした、美しい女。ことに黒目がちの大きな目が印象的だった。

彼女は、その大きな目を羽白にむけた。

「夕べ来たのはあなたね」

 羽白は頷いた。

「もう一人は?」

 羽白は櫓を指さした。

「姉者」

 リンの声が聞こえた。

「弔いは終わったのか」

「ええ。弓場に行ったら、昨日の人たちはここだって」

 彼女は、まじまじと羽白を見つめた。

「やっぱり王国の人間ではないわ。なぜ来てしまったのかしら」

「こちらが訊きたい」

「こんなはずじゃなかったのよ。あやまるわ」

 彼女は悲しげに顔を伏せた。

「大呪者まで死んでしまうなんて」

「あそこにいたのか」

「わたしたちは呪者だもの。わたしはキリ。こっちが、ミヤ」

 キリは、後ろを振り返った。ミヤはまだ少女の面影が残る、温和しめな女だった。キリとは違う、線の細い美しさがある。

「わたしたちを帰すことは?」

「無理ね。大呪者の力がなければ。わたしたちはただの呪者。まだまだ未熟なの」

 羽白は黙り込んだ。長も言っていた。呪者が大呪者の力を身につけるには何年も必要だと。呪力に頼れないとしたら、いったいどうやって戻ればいい?

「あなたの名は?」

「羽白」

 キリは羽白に顔をよせ、声をひそめた。

「羽白、あなたたちを元の所には戻せないけど、ここから逃がすことはできる」

「逃がす?」

「今すぐ」

「なぜ」

「くわしく話す時間はないの」

 キリは顔を上げ、久丹に声をかけた。

「そこの人、下りてきて。長がお呼びなの」

 ミヤが、まぶしげに櫓の上を見上げていた。

 久丹が降りてくると、キリはすたすたと歩き出した。

「リンの姉さん?」

「そうよ。キリ」

「そっちは?」

 ささやくような声がかえった。

「ミヤ」

「おれは久丹だ」

「あなたにも、あやまる。悪かったわ」

 久丹は羽白の顔を見た。

「夕べいた呪者だそうだ」

「そうか」

 急斜面を下り、弓場に向かう道の前でキリは立ち止まった。

「この茂みの中をずっと行って、山を下りるのよ。村の人たちに見つからない所へ」

「なぜだ?」

 久丹が驚いて言った。羽白もうなずいた。村から逃がすとは、どういうことなのか。

「長は決めたの」

 キリは声を落とした。

「あなたたちを鳳凰の代わりにするつもりよ。別の世界から来たなら、それなりの力をもたらすはず。あなたたちを殺して羽根をその血で染めれば、鳳凰の羽根と同じ力がある」

「馬鹿な」

 久丹は目を見ひらいた。

「そんなこと、誰が決めたんだ」

「鳳凰のかわりに人間が来たのは初めてだけど、大呪者は役にたたないものを呼び出すわけがないって、長が言ったわ」

 キリは、首を振った。

「わたしたちは、違う気がする。人間が鳳凰の代わりになれるわけがない」

「あたりまえだ」

 久丹は言った。

「リンたちは、急所さえ狙えば普通の矢でも龍を倒せると言っていたぞ。やるしかないと」

「ただの強がりね」

 キリは、きっぱりと首を振った。

「広い河原の、たった一粒の小石のような場所よ。できっこない」

「そうなのか」

「鳳凰の矢ですら、龍に致命傷を与えるのはむずかしいのよ。龍を射落とすには、鳳凰の矢を放ち続けるしかない」

 キリのこぶしは、握りしめられていた。

「リンは、自分にそう言い聞かせるしかなかっただけ。でなかったら、今までしてきたことが、全部無駄になってしまうじゃない。〈龍の渡り〉がはじまったとき、そもそも龍を射る矢がないなんて」

「わかる気はするが」

「長は、みんなに鳳凰の矢の代わりになるものを示したいのよ。これで龍を射ることができるという確信さえあれば、龍と向き合える」

「なるほど」

「だから逃げて。あなたたちを呼んでしまったせめてものお詫びよ」

 キリは、茂みを指さした。

「今日は大呪者の弔いだから、狩りには行かない。誰も山には入らないわ。早く、行って」

「だめだ」

 羽白は、はっとつぶやいた。

「琵琶を置いてきた」

「それと自分の命と、どっちが大事?」

 羽白は眉をひそめた。そんなことは、考える必要もない。

「両方」

 あきれたようなキリにはかまわず、羽白は久丹を見上げた。

「わたしは、琵琶を取り戻す。先に逃げてくれ」

 自分のためにこの世界へ来たかも知れないのだ。これ以上久丹を巻き込むわけにはいかなかった。

「冗談じゃない」

 久丹は即座に首を振った。

「おれも一緒に行くよ」

「しかし」

「おれたちはここに二人きりだ。もう一蓮托生なんだよ、羽白。手助けくらいできるさ」

 羽白は、久丹の必死な顔を見つめた。久丹は、危険を承知で羽白の勝手につきあってくれようとしている。琵琶よりも命の方が大事なはずと決めつけることはせずに。

「すまない」

 どんなことしても琵琶を取り戻し、二人で逃げ延びなくては。

「どうなっても、知らないから」

 キリは癇癪をおこす寸前だった。

「警告はしたわよ。もう借りは返しましたからね」



 


 弓場では、男たちがあいかわらず弓を引いていた。

 キリは彼らに目もくれず、久伊と羽白を従えて村へと向かった。ミヤが後に続く。

 若衆宿の手前でキリは立ち止まった。

「女はこの中に入れない。あとは、勝手にすればいいわ」

 羽白は、家の戸をくぐった。

 久丹も後につづいた。

 真ん中の炉を囲んで、数人の老人が座っていた。長の姿もあり、その膝には羽白の琵琶がのせられている。

「おまえたちだけ来たのか」

 長は動く方の眉を上げた。

「キリに皆を連れてこいと言ったのだが」

 キリは、長のもくろみを若い連中に伝えず、自分たちを逃がしてくれようとしたのだろう。それなのに、のこのこと戻ってきたわけなのだ。

 老人たちは立ち上がった。老いてはいても昔の弓引きだけあって、誰もが長のように頑丈そうだ。腕っ節の強くない自分など、即座に組み伏せられてしまうかもしれないな、と久丹は思った。それは羽白も同様だろうが。

「わたしの琵琶を返してくれないか」

 羽白は長に言った。

「これのことか?」

 長は両手で琵琶を差しだした。羽白が受け取ろうと近づいた時、二人の老人が素早く背後にまわり、羽白を羽交い締めにした。

「羽白!」

 叫ぶ暇もあらばこそ、久丹も両脇から腕を捕まれ、あっという間に土間に組み敷かれた。

 まったく想像通りだな。

 あっけなさに、怒りよりも笑いがこみ上げてくるようだった。羽白に力を貸そうだなんて、よくも思っていたものだ。

 他の老人が縄を持ってきた。それで縛り付けるつもりなのだろう。羽白は両膝をつき、琵琶を見ていた。その目が、きつく閉じられた。

 と、琵琶が鋭い音をたてた。耳を塞ぎたくなるほどの高音が空気を震わせ、皮膚にまで伝わってくる。

 老人たちは驚いて叫び、手を離した。羽白はすばやく立ち上がり、長から琵琶を取り上げた。

 こんどは羽白の指が弦を弾いた。低い、身体にまとわりつくような音だった。長たちはその場に凍りついたまま、身動きできないでいる。

「いまのうちだ」

 羽白は言った。

 久丹は頭をぶるっと振り、羽白とともに外に駆けだした。


 戸口にキリとミヤが立っていた。様子をうかがっていたらしい。

「何をしたの?」

 キリは目を見ひらいたまま羽白に言った。

「あなた、呪者?」

 久丹も聞きたいところだった。しかし、時間はなさそうだ。

「キリ!」

 背後から老人たちの怒鳴り声が聞こえた。

「そいつらを逃がすな」

 外にいた子供や女が、声を聞きつけてこちらに駆けてくる。

「西に向かって」

 追いかけるふりをしながら、キリはささやいた。

「山を下りれば他の村もあるわ」

 久丹は羽白とともに必死で村の外へと駆けたが、子供たちは速かった。足がもつれて転びそうになった久丹は、大きめの少年に後ろから飛びつかれ、両手をついて前のめりに倒れた。まるで遊びのように、何人もの子供らが歓声をあげてのしかかってくる。

 羽白は、立ち止まってこちらを見た。手助けどころか、明らかに足手まといになっている自分がなさけない。

 羽白の指がまた弦をはしった。こんどは音ばかりではない。なにかの曲だ。

 低くうねりをたてるような音が、しだいに高くなり、盛り上がり、あたりに響き渡った。

 琵琶を初めて聴く子供たちは、あっけにとられて動きを止めた。久丹は彼らを振り払い、なんとか立ち上がった。子供の一人が、一声叫んで空を指さした。

 久丹は空を見上げた。

 上空を飛んで来るのは大きな鳥?

 ちがう。

 久丹は目を見開いた。下降してくるにつれ、その長くうねる胴体がはっきりと見て取れた。ひるがえる黄金のたてがみ、かがやく緑銀の鱗。

「龍だ!」

 子供たちが、てんでに叫んだ。

「龍だ」

 久丹もつぶやいた。

 龍は村の上を悠然と旋回していた。子供たちは、口をぽかんと開け、その姿をただただ追いかけるだけだった。聞いていた〈龍の渡り〉とはちがい、その龍は一匹だけ忽然と頭上に現れ、空を舞っているのだから。

「久丹」

 琵琶を弾きながら羽白は言った。

「行くぞ」

 久丹は、はっとした。

 あれは、羽白の琵琶が生み出した幻の龍なのだ。

 聴く者に曲の幻を見せる呪力者、幻曲師の話は聞いたことがあった。大昔の、大那の地霊がまだ豊かだった時の伝説だと思っていた。

 しかし、この世界は地霊に充ちている。羽白ほどの腕があれば、幻曲を弾けてもおかしくはない。

 考えている場合ではなかった。久丹は羽白のあとにつづいて再び駆けだした。

「あれはなに?」

 キリも追いかけてくる。

「あんなものを、どうやって」

 キリは龍が幻だと、すぐに見破ったらしい。呪者だけのことはある。

 一生ぶん走ったのではないかと思えるほど、道なき道を久丹は走った。どこをどう走ったのかわからない。とっくに久丹を追い越したキリの背中ばかりを見ていた。

 二人が立ち止まったので、ようやく久丹はしゃがみ込んだ。追っ手の気配はない。

 あえぎながら、肩で大きく息をした。子供たちに乗られた背中がじんじん痛んだ。

「大丈夫か? 久丹」

 羽白が言った。

「おれは、文官、でね」

 乱れた髪の毛をかき上げて、ようやく久丹は言った。

「身体を動かすのが、苦手なんだよ」

「なぜ、ついてきた」

 羽白がキリに言った。

「わからないわ。夢中で」

 キリは首を振り、羽白の琵琶を指さした。

「それは呪具ね」

「いや」

 羽白は頑固に首を振った。

「楽器だ」

 久丹は思わず笑ってしまった。

「あんたは幻曲師で、呪力者だ」

「地霊のおかげだ」

 羽白はつぶやいた。

「ここは地霊が濃すぎる。呪力が使えるような気がしてやってみた」

「目」

 まじまじと羽白を見つめていたキリが言った。 

「あなたの目、色が変わっているわ」

 久丹は、はっとして羽白を見た。

 たしかに、羽白の瞳の色が変化していた。

 光の加減などではなかった。明るい紫色だ。

 久丹の知っている限り、目に紫を持つ者は龍の一門しかいない。龍とともに大那から姿を消した彼らは、紫の瞳をした呪力者だったという。

 羽白は指で自分のまぶたに触れた。

「紫に変わっているよ」

 久丹は言った。

「あんた、〈龍〉なのか」





「親がそうだったらしい」

 羽白は認めた。

 顔も知らない両親だし、旅芸人は守霊など持たないものなのだが。

 映すものがないので、自分の目がどんなふうに変化しているかはわからなかった。とはいえ、この世界の豊かな地霊が、内なる呪力を目覚めさせていることは確かだ。いったい、どの程度のものなのか。

「あんたの呪力で大那に戻ることはできないか?」

 久丹と同じことを考えた羽白は、ややあって首を振った。

「いまはまだ、それほど強力な力を使いこなせるとは思えない」

「あたりまえじゃない」

 キリが怒ったように言った。

「違う世界のものを呼ぶのに、どれだけの力が必要だと思っているの。大呪者は命を失ったのよ」

「ああ、すまん」

 久丹が、あやまった。

「龍って、どういう意味?」

 キリは、羽白を見つめた。

「あなた、向こうの世界では龍なの?」

「一門の名だ」

 羽白は答えた。

「わたしが生まれた一門の守霊が龍なんだ」

「不思議なところね」

 羽白は苦笑した。自分たちにとっては、こちらの世界の方が不思議きわまりない。

「このまま龍の首がとれなかったら、村はどうなる」

「龍の首が朽ちた時、王国は滅ぶと言われているわ。いつまでも新しい首が手に入らなければ、大騒ぎでしょうね。もちろん王国の庇護は受けられなくなる。今まで通りの暮らしはできないでしょう」

「それは、困るな」

 久丹が口をはさんだ。

 キリは、きっぱりと首を振った。

「いえ、いいの」

「いい?」

「弓は、獣を狩る時にだけ使えばいい。鍬や鋤を持って、土地を開いて田畑を作るの。王国に頼らずに、自分たちで生きていく。もう血を見るのは、たくさん」

 キリは眉をひそめ、一気に言った。

「龍の首ひとつ手に入れるために、いったい何人の村の男が死ぬと思う? 矢を射られた龍は大暴れするわ。尾で打たれ、胴に潰され、爪で引き裂かれる。前回の〈龍の渡り〉は、ひどかった。龍が強すぎた。長は片目一つですんだけど、村の半分以上の男が死んだのよ。私たちの父親も、ミヤの父親も。河原は、龍の血より人間の血で染まった」

 あまり想像したくない光景だ。

 キリは、つぶやいた。

「私は、一部始終を見ていた。リンといっしょに」

 リンは、〈龍の渡り〉のみごとさしか語らなかった。考えまいとしているのか。

 男たちとて、犠牲になりたくはないだろう。だから龍に一時も早く致命傷を与えるべく、一心不乱に訓練をしているのだ。

「あんたは、龍を狩らせたくない」

 久丹が、静かに言った。

「鳳凰を呼び寄せる念を乱したのは、あんたか」

「わからない」

 キリは顔を伏せた。

「でも、鳳凰の羽根なんていらないと思ったのは確か。せっかく全部燃えてしまったのに」

「そうか」

「もう行く」

 キリは、思いをふっきるように首を振った。

「今日のうちに、出来るだけ村から離れた方がいい。あなたたちは、反対の方に逃げたって言っておくから」

「世話になったな」

「悪かったと思ってる」

 キリは、それだけ言うと駆け去った。

 羽白は久丹と顔を見合わせた。

 キリの言葉に従うべきかどうか迷うところだ。大那に帰るには、この村を離れてはいけないような気がする。この世界では、大那に一番近い場所なのだ。

 自分の呪力がもっと高まれば、大那への扉を開くことができるだろうか。しかし、それには時間がかかりそうだし、まずは生き伸びることが肝心だ。

「キリの言うとおりにした方がいいかもな、羽白」

 久丹も同じ思いのようだった。

「ひとまず生きることを考えよう」

 二人は、西に向かって山を下りた。しばらく行くと、斜面の下に細い沢があった。冷たい水で喉を潤し、枯葉の吹きだまりになった斜面の窪地に腰を下ろして一息ついた。

 羽白は、久丹が苦しげに顔を歪めているのに気がついた。身体をそらし、長い手で背中のあたりをさすっている。

「どうした?」

「さっきから背中が痛いんだ。子供たちに容赦なく潰されたからな」

 久丹は、無理をして明るい声を出しているようだった。

「骨がどうかしたのかもしれない」

 羽白は言った。

「見てやろう」

「いや、大丈夫だ」

 久丹は首を振った。

「じきに治るさ」

 しかし、久丹の顔がだんだんと青ざめてくるのがわかった。肩を動かしたり、身体を丸めたり、痛みにじっとしていられないようだ。

「だめだ、見せてみろ」

 羽白はとうとう久丹の後ろにまわりこんだ。背中に触れ、はっとした。

 肩の下あたりが異様に腫れている。打撲くらいでこんなに腫れるものだろうか。ひどい内出血をしているのかもしれない。

 羽白は有無も言わさず久丹の上衣を脱がせた。そして、息をのんだ。

 二つの肩胛骨が盛り上がっていた。見ている間にもそれはさらに盛り上がり、薄くなった青白い皮膚は、血管を透かし、今にもはち切れんばかりだ。

 何かが、皮膚の中で激しく脈打っている。久丹はあえいで両手を地面についた。指を地面にくい込ませ、悲鳴を上げた。

 それが、ついに久丹の皮膚を突き破った。久丹の体液にまみれたそれは、ぬめりのある濃い枯葉色で、久丹の背中に張り付いていた。生あるもののように伸び続け、腰のあたりまで広がった。

 羽白は、目を見開いてそのさまを見つめた。久丹は気を失い、ぐったりと動かなくなっていた。

 久丹の背中のものは、しだいに容積を増していた。

 羽白はそっと手を伸ばし、それに触って息をのんだ。

 羽だ。

 まぎれもない羽が、久丹の背中を覆っていた。

 我に返った羽白は、久丹をうつぶせのまま、なんとか楽な姿勢に横たえた。久丹は、もう苦しげな表情は見せず、安らかにこんこんと眠り続けている。

 羽白は久丹の側に座って、じっと見守りつづけた。

 羽はしだいに乾き、輝きを帯びた明るい色になっている。

 いまや、はっきりと翼とわかる形で久丹の肩の上に折りたたまれている。

 これも地霊のせいなのか。

 羽白は考えた。豊かすぎるこの世界の地霊が、羽白や久丹を変えている。

 羽白はもともと龍の一門だ。久丹は? 翼の生えた一門など、聞いたこともない。しかし、あるいは‥‥。

 久丹が身動きした。羽白はほっと息をはき出した。

「おれは?」

 久丹は両手をついて起き上がった。背中のものがばさりとして、久丹はぎょっと身体を硬くした。おそるおそる背中の方に首をめぐらす。

「翼?」

「痛まないか?」

「ああ、もう痛くない」

「動かせるか?」

 久丹はのろのろと立ち上がり、不安げに両腕を組んだ。翼が肩からもちあがり、大きく広がった。久丹は一度羽ばたきをした。風であたりの木の葉がざわめいた。

「思い通りに動かせるようだ」

 久丹は翼で自分の痩せた身体を包み込むようにした。

「おれは‥‥」

「鳳凰の一門」

「らしい」

 久丹は、困ったように顔をしかめた。

「子供のころ、おふくろが言っていた。昔むかし、鴉は鳳凰だったんだよ。この世で一番美しい翼を黒で隠しているんだよ。みんなに嫉まれないように……。ずっと、おとぎ話だと思っていた」

「美しいな、確かに 」

 羽白は久丹の黄金色の翼を見つめた。久丹は居心地悪げに羽をざわつかせた。

「鳳凰の一門は、自分たちが鳳凰だったのか」

 羽白は確信した。鳥としての鳳凰は、実在しなかったのだ。それだから、その姿は想像の域を超えられないままありつづけたのだろう。

「大那の鳳凰は、だな」

 久丹は言った。

「別の世界にも鳳凰がいる。ここの連中が必要としている、ちゃんとした鳥の」

「だが、大呪者は決して間違ったわけではなかった。形は違うが、鳳凰を呼び出した」

「まあ、いろんな要素が絡まってだな。あんたの琵琶とか、キリの思いとか」

 羽白は思わず笑ってしまった。心の重荷がおりたような気がした。自分の琵琶のために久丹をこの世界に引き込んだわけではなかったのだ。

 羽白が声を出して笑ったので、久丹はきょとんとした。

「どうした?」

「いや、気が楽になった。ここに来たのは、ずっとわたしのせいだと思っていたから」

「悪かったよ。おれだって自分がこんなものだとは思っていなかった」

 久丹は翼をばさばささせた。上衣を拾い上げ、着るのは諦めたとみえて、腰の上に結びつけた。

「広い大那でおれたちが出会った。驚いたな」

「まったくだ」

「あんたは鳳凰に導かれてやってきた。偶然ではないかもしれないが」

 しかし、大那にいては互いに気づかなかったことだ。とうに滅びた過去の一門の子孫が、この異界で、かつてと同じ姿で顔を合わせているとは。

「飛べそうか?」

「たぶん。やってみていいか」

「ああ。わたしも見たい。久丹が飛ぶのを」

 久丹は空を見上げた。羽白は、数歩退いて久丹を見守った。

 久丹は、翼を広げた。一度、二度、大きく羽ばたくと久丹の身体はふわりと浮いた。久丹は顔を輝かせ、翼がぶつからないように大きな木々の枝葉をかいくぐって上昇した。羽白に一度手を振って、空の高みへと飛び出した。

 久丹は、悠然と翼を動かしていた。みるみる小さくなり、もう本当の鳥と見分けがつかなくなる大きさだ。

 久丹は、しばらく旋回し、やがて方向転換して戻ってこようとしていた。その時、斜面の上で勝ち誇った声がした。

「見つけたぞ」

 羽白は、はっとして斜面を下ってくる男たちを見た。リンが先頭に立っている。

 リンは短刀を手にしていた。羽白よりも先に置いていた琵琶を取り、すばやく五本の弦を断ち切った。

「こいつには気をつけろと長が言っていた」

 琵琶を投げ捨てながらリンは言った。

「やっぱり呪具じゃないか」

「楽器だ」

「ふん」

 リンは顔をしかめた。

「姉者の言うことを信じなくてよかった。どうもおかしかったからな」

 羽白は、二人の男にがっちりと両脇をつかまれた。

「もう一人はどうした」

「はぐれてしまった」

「まあいい、おまえだけでも」

 リンは、はっと息をのんだ。

「おまえの目」

「ああ」

「龍と同じ色だ」

「ここに来る龍の目も紫か」

「そうだ」

 リンは、自分に言い聞かせるように言った。

「おまえたちが来たのは、やはり意味あることだったかもしれん」

「わたしを殺すのか?」

「しかたがないさ」

 リンはささやいた。

「すまんな」





 久丹は飛んだ。

 羽白も木々も山々も、遥か下だ。常緑樹の多い広大な山脈が、波のように連なっていた。都は、もっとずっと遠い所にあるらしい。

 羽ばたかなくても、気流にのって飛ぶことができた。高いところが好きとはいえ、これは、まったくもってすばらしい体験だ。雲と同じ場所から大地を俯瞰しているのだ。

 上半身裸の寒さも気ににはならなかった。身体の重みはまるで感じられない。長い手足をもてあまして、地上で不器用に動いていたのが夢のようだ。

 龍とだって飛べるかもしれないな、と久丹は思った。〈龍の渡り〉の中を、あの長い胴の群れをかいくぐって飛ぶのはどんな気分だろう。龍とともに、さらに別の世界にも行けるかもしれない。

 久丹は、ただただ飛翔を楽しんだ。景に、話してやりたかった。鴉は、本当に鳳凰だったのだと。自分は思いきり翼を広げ、空を飛んだのだと。

 それには、大那に帰らなければ。しかし、大那に帰った時、この翼はどうなるのか。地霊の衰えた大那では、むろん使えそうにない。

 鳳凰の一門である先祖たちも、やがて飛べなくなったのだろう。萎えて役にたたなくなった翼は邪魔なばかりだ。しだいに退化し、肩胛骨の中にもぐり込んだ。鳳凰は鴉と名を変え、ほそぼそと生き続けた。

 つらつら考えながら羽白の所に戻ろうとした久丹は、木立の下を行く数人の男に気づいてぎょっとした。

 リンたちだ。

 彼らは羽白を見つけ、有無も言わさず捕まえてしまった。

 自分がここでぐずぐずしていたおかげで、村の連中に追いつかれてしまったのだ。

 皆が行ってしまうと、久丹はそっと地面に降りた。

 羽白の琵琶が、無残にも弦を絶たれてころがっていた。羽白の呪力は、琵琶を介してのもののようだから、今の羽白は非力にちがいない。

 羽白を助けなければ。

 彼らが本当に求めているのは、羽白の血ではなく久丹の翼のはずなのだ。

 久丹は、琵琶を大事に抱え上げた。切れたのは弦だけで、どこも壊れてはいないようだ。それを持ち、もう一度飛び上がった。

 

 村の連中は弓を持っている。この姿が見つかって、射落とされてはたまらない。久丹は用心しながら高く飛んだ。

 と、村の手前で久丹は、眼下の木立の下に立つ人影をみつけた。目をこらすと、キリとラカタだ。

 二人は、なにやら言い合っているようだ。

 気になった久丹は、風音にまぎれて高い木の枝に降りた。声は、上の方によく聞こえてくる。

「あなたからも長に話してちょうだい、ラカタさん」

 キリは言っていた。

「あの人たちが、鳳凰のかわりになるわけがない」

「私はただの派遣吏だ」

 ラカタは楽しげに答えた。

「村のやり方に口出しはできん。ここの暮らしを保ってやり、龍の首を取ったら報告する。それだけの仕事よ」

「でも!」

「よそ者の血が役にたつかどうかは、わからんさ」

 ラカタはゆるゆると言った。

「だがな、時に信心は力に勝るもの」

 誰だって、弾きかえされるとわかっている矢よりも、可能性のある方にすがりたい。キリとてそう思っているだろうに、自分たちをなんとか助けようとしてくれているのだ。

「残念だったな、キリ。せっかく高倉に雷を落としたというのに」

「わたしが?」

 キリの叫びといっしょに、久丹は枝から落ちそうになった。

「男たちに龍を狩らせたくないのだろう」

「それはそうよ。でも、雷なんて」

「呪者ならば、雷を操ることもできるのではないか」

「わたしにはできないわ。そんな力はない」

「ミヤならどうだ」

「ミヤ」

 キリは絶句した。

「次の大呪者はミヤだと、長たちが話しているのを聞いたことがあるぞ。おまえよりも力はあるらしいな」

「そうよ、あの子はわたしよりずっと……」

「おまえでないなら、ミヤしかいない」

「まさか」

 キリは大きく首を振った。

「あの時、ミヤは呪者の家でわたしたちと眠っていた。騒動で目を醒ますのも、一番遅かった」

「眠ったふりをしていても、力は使えるさ」

「雷は偶然よ。ミヤがそんなことするわけがない」

「好きな男のためならわからんぞ」

「好きな?」

「ミヤは、いつもリンを見ている」

「リン‥‥」

「おまえの弟は、真っ先に龍の前に飛び出しそうだからな」

 キリが拳を握りしめるのがはっきりとわかった。殴りかかるかと思ったが、彼女は大きく呼吸をして自制したようだ。

 その時、鋭い笛の音が耳に響いた。村の方からだ。

「よそ者が見つかったようだ」

 ラカタの言葉も終わらないうちに、キリは駆けだした。  

 こうしてはいられない。今は羽白を助けることが先決だ。

 久丹はぶるっと首を振って、翼を広げた。

 

 高床前の広場には、すでに村の者たちが集まっていた。

 久丹は木の陰に隠れながら、広場を見下ろした。

 幅の広い刀のようなものを持っている男が立っていた。龍の解体用に使っているものに違いない。

 側には大きなたらいがひとつ。

 久丹はぞっとした。あれに羽白の血をためるつもりなのか。

 長と老人たちが、何やら話をしていた。キリが、他の女たちの所に駆け寄って行く。ミヤの姿もある。ミヤは胸元で両手を握りしめ、うつむいていた。

 ラカタがのそのそと現れ、長たちに歩み寄る。

 羽白がリンたちに引き連れられて来た。

 一同は、しんと鎮まった。

 久丹は心を決め、一度大きく羽ばたいた。

 羽白のもとへと急降下した。

 突然の羽影に、村人たちはどよめいた。久丹の姿を認め、さらに仰天の声を上げた。

 みなは、あっけにとられたように久丹の背中を見つめた。

「呪者は間違ったわけじゃない」

 久丹は高々と翼を広げて言った。

「おれが鳳凰だ」

 目が飛び出すのではないかと思うくらい久丹を凝視していた長が、ようやく叫んだ。

「捕まえろ!」

「わざわざ来たんだ。逃げないよ」

 久丹は、じわじわと周りを取り囲んできた男たちに言った。

「羽白を離してくれ。あんたがたの欲しいのは、この羽根だろう」

 飛びながら考えてきたことを口にした。

「命まではやれないが、翼はやるよ。切り落としてくれ」

「久丹」

 羽白が抗議するような声をあげた。久丹は羽白に笑ってみせた。

「大丈夫だ。最初からなかったものだしな」

 羽白の前に琵琶を置き、

「決めたことだ。さっさとやってくれ」




 

 久丹は眠り続けた。

翼を切り落とされる直前に、彼は自ら意識を消したらしい。あとは眠りの中でひたすら治癒に専念している。

 出血はかなりのものだったが、二つの大きな傷口はじきにふさがった。驚くべき呪力だ。これも、この世界の地霊のたまものなのか。

 羽白は、久丹を見守りながら考えた。

 あの時、殺されるかもしれなかったのに、不思議と恐怖は感じなかった。二度と大那の地は踏めないという悲しみと諦観はあったが、それもさほど大きくなかったのは、どこかで久丹が来てくれるという思いがあったからかもしれない。

 久丹は来てくれた。

 しかも、自分の翼を差し出したのだ。 

 久丹が眠りに入ってから四日たつ。

 久丹の羽根は、男たちの手で速やかに矢羽根に仕立てられた。羽が無くなった翼の残りは、大呪者の墓の近くにていねいに葬られた。

 二人は、村の外れに家を与えられた。

 久丹がこの家に運び込まれてすぐ、ラカタがやってきた。

「いやいや、驚いた、驚いた」

 ラカタは、ほくほくと笑っていた。

「人の姿の鳳凰を呼び出すとは、大呪者もまわりくどいことをしたものよ」

 羽白は何も答えなかった。ラカタはかまわず話をつづけた。

「まあ、終わりよければすべてよし、だ。これで、いつ〈龍の渡り〉があっても大丈夫だろう。願わくば、わしの赴任中に来て欲しいものよ」

「あなたが来て、どのくらいになる?」

「もう三巡だ。あと一巡は我慢の時だな」

「好んでここに来たわけではないのだな」

「あたりまえだ」

 ラカタは鼻で笑った。

「なんの不始末をしたわけでもないのに、三人ばかりの供をつけられてこの辺境だ。都は遠いぞ。山を越え、大河を遡り、さらに山を越えてやってきた。弓を引くことしか能のない連中のめんどうを見るためにな。近在の村から、租税代わりの物資を取り立てるのもわしの仕事よ。どんな凶作の時でも、弓引きを飢えさせるなと言うのが上からのお達しだ。ここの連中はあたりまえのような顔をする。他の村の者には恨まれる。やれやれ、まったく割にあわん」

 ラカタは饒舌だった。

「せめて、おもしろいことがないとな」

「今は、おもしろいのだろうな」

「だいぶ楽しんでいる」

 ラカタは薄く笑って立ち去った。

 キリは、日に何度か様子を見に来てくれた。

 呪者の家は、すぐ近くの河原よりにあった。大呪者がいないまま、彼女はミヤと呪者見習いの少女たち数人とでそこに暮らしていた。

 はじめは、ミヤもついてきた。

「わたしたちの力で、傷をいくらかでも楽にしようと思ったんだけど」

 キリは言った。

「必要なかったわね。この人、自分で治している」

「そのようだ」

「不思議ね」

 キリはつぶやいた。

「あなたは龍で、この人は鳳凰。二人そろって来るなんて」

「呼ばれたんだ」

 羽白は言い直した。

「そうね。念が乱れなかったら、大呪者はたぶん本当の鳳凰を呼び出してた」

 キリはミヤを見た。ミヤは、黙って目を伏せた。

「でも、この人のおかげで、大呪者の死は無駄にならなかった」

 キリも罪の意識からいくらか解放されたのかもしれない。無意識とはいえ、念を乱したのは自分かもしれないと思っていたのだ。久丹の翼を得たことで、大呪者の死は報われたことになる。

「よかったのだろう、これで」

 キリは羽白を見返し、ため息をついた。

「わたしは、まだどこかで、あなたたちに来てほしくなかったと思っている。大呪者が務めを果たしたとはいえ」

    

 琵琶の弦の替えは、大那に置いたままだ。羽白はしかたなく、切られた弦の代わりに弓の麻弦をもらい受けた。

 龍の革でしごいてもっと細くなめらかにし、張ってみる。絹とは違って好みの音は出なかったが、稽古には使えそうだ。

 久丹の眠りを乱したくないので、音を出さずに弾いていた。久丹と出会ったいま、鳳凰の曲は少し違ったものになりそうだった。

「それも呪力か」

 声が聞こえて、はっとした。

「器用だな。音を消して弾けるのか」

 久丹が目を開け、ほほえみかけていた。

 羽白は琵琶を置いた。

「どんな具合だ?」

「まあ、悪くはない。痛みもないし」

 久丹は、確かめるように両手を上に伸ばした。

「どのくらい眠ってた?」

「ちょうど四日だ。無理はするな」

「まだ〈龍の渡り〉は来ないよな」

「ああ」

「よかった」

 久丹は、息をはき出した。

「夢を見ていたんだ、羽白。〈龍の渡り〉の中を飛ぶ夢だ」

「そうか」

 久丹は、まだ飛びたかったのだろうと羽白は思った。せっかく手に入れた翼を、すぐに手放してしまったのだから。

「夢の中で考えた。おれたちが大那に帰る方法があるかもしれないと」

 羽白は眉を上げた。

 久丹は、身を起こし、胡座をかいた。

「龍は別の空間からやってくる。この世界の出入り口が開くということだ。龍について行って出口に行く。そこで念ずれば、大那に帰れるかもしれない。今のおれたちには、それだけの呪力はあると思う」

「だが」

 一瞬希望がよぎったが、羽白は首を振った。

「どうやってその出口まで行く。リンたちの話では、西の峰の上空にあるらしい」

「おれが飛ぶ。あんたをおぶって」

「羽がない」

 久丹は軽く笑った。

「羽がなくとも飛べるんだ。龍はあの身体で、翼もなく空を飛んでいる」

 羽白は、はっとうなずいた。

「鳥のことを考えると、人の身体が飛ぶには、とてつもなく大きな翼が必要なんだよ。あんな翼じゃ最初から無理だ。あれは、舵のようなものだな。一直線に飛ぶぶんには、なくてもかまわない」

 鳳凰の一門は、龍のように呪力で空を飛んでいたのだ。大那の地霊が衰えると、翼があっても飛ぶことは不可能になった。飛べない生活に順応するために、彼らはいち早く翼を捨てたのだろう。

 しかし、この世界にはふんだんに地霊がある。

「西の峰の上までは飛んで行ける。ただ」

 久丹は、真顔になって羽白を見つめた。

「あんたはそれでかまわないのか?」

「どういうことだ」

「ここにいれば、この地霊豊かな世界に残れば、呪力も使える。昔の〈龍〉のように、何百年も生きることができる」

 羽白は眉をひそめた。

 確かに、今の大那は〈龍〉が生きるには地霊が少なすぎるのだ。地霊の衰えとともに龍の一門は目の紫を失い、呪力を失い、普通の人間よりも寿命が短くなった。大那で、あと何年生きることができるのか、羽白にも見当がつかない。

「久丹も同じだ」

「いや、おれたちは翼を失ったことで普通の人間に近くなったんだと思う。村には年寄りも結構いたよ」

「そうか」

「おれは、景がいるし、残した仕事もある。だがあんたは、好きにしてかまわないんだ」

 羽白は黙り込んだ。

 そう、ここは魅力的な世界だ。たっぷりと時間が得られる。思うさま琵琶を弾き、好きなだけの曲を創ることができる。

 数百年もあれば、自分の琵琶の腕前はどれほどのものになっているのか。

 大那か、この世界か。

 迷うのは、あたりまえだな、と羽白は思った。

 だが、答えが出るのは思いのほか早かった。

 久丹のように待つ者はいないが、羽白とて友人や知人がいる。めったに会える人々ではないが、同じ空の下にいると思えば満足だ。

 羽白は、大那が恋しかった。

 大那で、大那の曲を弾きたかった。

 だいたい、どんな人間だって自分の命がいつ尽きるかわからないのだ。その時々に生きていることを実感できれば、充分だろう。

 羽白は、琵琶を引き寄せた。

「大那に帰りたい」

 久丹を見つめて、きっぱりと言った。

「ここには、欲しい糸がないんだ。連れて行ってくれるか」

 久丹は一呼吸おき、うなずいた。

「もちろんさ」

 久丹は、笑みを浮かべた。

「あんたが軽そうでよかったよ」

 羽白は、微笑み返した。

 あとは、〈龍の渡り〉を待つだけだ。





 久丹が目覚めたことを知ると、キリはすぐさま粥を運んできてくれた。

「元気そうね。次は、もっと滋養のあるものを持ってくるわ」

「世話をかけるな」

「いえ。そもそも、悪かったのは私たちだもの」

「ごめんなさい」

「もういいさ」

 久丹は首を振った。

「大那にいては出来ない経験をさせてもらったよ」

 皮肉ではなく、本心だった。大那にいたままだったら、空を飛ぶことなど考えもしなかったろう。

 短い間だっかけれど、あの翼を動かす感覚は一生忘れられないと思う。肩甲骨の意志が翼の端々にまでとどき、空気をうち、風に乗ったのだ。

 景も同じ体験ができないのは残念だ。景気とて、背中に翼を秘めているはずだから。

 久丹は、食べ終わった椀を傍らに置いた。

「それより、キリ。ミヤのことなんだが」

「ミヤ?」

「飛んでいたとき、あんたとラカタの話を聞いた」

 キリは眉をよせた。

「ラカタの言っていたことは、本当なのか」

「わからない」

 キリは、自問するようにつぶやいた。

「ラカタは、何を考えているかわからない男。でも、ミヤなら倉を燃やすことはできるかもしれない。あの子の思いもわたしと同じだから。命を失ってまで、龍の首はいらないもの」

「ミヤは、リンを好いているのか」

「ええ」

 キリは、うなずいた。

「ずっと昔から、ミヤはリンを見ていたわ。リンは〈龍の渡り〉のことしか頭になくて、気づきもしていないけどね。ミヤはあんな子だから、思いばかりをため込んでいる」

「ミヤは、リンを失いたくないんだ」

「そうでしょうね」

「だとすれば、またなにか起きるかもしれない」

 久丹の言葉に、キリは目を見開いた。

「なにか?」

「リンたちが、龍と戦えなくなる何かだ。ミヤから目を離さない方がいい」

「でもね」

 キリは声を押し殺した。

「わたしもミヤと同じ気持ちよ。できるなら、誰も死なせたくない」

「男たちは、死ぬために〈龍の渡り〉を待っているわけじゃないだろう」

 久丹は言った。

「生まれた時からずっと、龍を狩ることに憧れてきたんだ。生き甲斐なんだよ。それを取り上げるのはどうかと思う」

 キリは黙り込み、顔を歪めた。

「わかってる。どうなっても、リンたちは本望だということはね。

父者もそうだった。喜々として龍に挑んで行った」

 キリは、深々とため息をついた。

「結局、わたしは自分が悲しみたくないだけなんだわ」

「信じてやればいい」

 羽白が静かに口をはさんだ。

「前回の〈龍の渡り〉を知っているんだ。どうすれば犠牲を出さずにすむか、リンだって考えている」

「そうね」

 キリは、ようやくうなずいた。

「信じて、祈るしかないわね。ミヤにも言い聞かせる」


 翌日には、久丹は外を出歩けるまでになった。背中に違和感はない。ほんの少し、猫背がなおったような気がするだけだ。

 村を一回りして散歩から戻ると、ラカタが来ていた。

 よほど暇を持て余しているのだろう。羽白が琵琶の稽古をしているので、それを珍しそうに眺めている。

「いやいや、みごと、みごと」

 ラカタは言った。

「よくそんなに指が動くものよのう」

 気が散ったらしい羽白は、琵琶を片付けはじめた。

「都に琵琶はないのか?」

 炉の前に座りながら久丹はいった。

「同じようなものならある。割った瓢箪に棹をつけてな、四本の弦を張るから四弦と呼ばれている。しかし、小さい弓で弦をこすって音を出す。指は使わんぞ」

「大那でも、撥は使う」

 羽白は言った。

「指と撥と、半々だ。わたしは、こっちの弾き方が好きだから」

「ほう」

「四弦の弦は何で出来ている?」

「獣の腸だ。裂いて乾かして糸にする」

「獣の」

 羽白は興味を持ったようだ。

「どんな音が出る?」

「これよりも硬い音だな。曲の調子もだいぶ違う」

 ラカタは大げさに肩をすくめた。

「昔は音曲など興味は無かったのだが、今となっては懐かしいわ。この村にあるのは太鼓くらいだ。それも、龍が来ないと鳴らないらしい」

「そろそろだろう?」

 久丹は言った。

「今までは、十八巡を超えたことがないそうだ。長の話ではな」

 ラカタは、ふふんと笑ってうなずいた。

「鳳凰の羽根は手に入った。もういつ来てもいいのに、なかなか来ない。村の連中はそわそわしている。ことに、女たちは」

「だろうな」

 久丹は、キリの不安をおもんばかった。

「さっき、ミヤを見かけたから言ってやった。もうリンに弓を引かせないためには、どこかに閉じ込めておくしかないだろうとな」

「あんたはまったく」

 久丹は思わず声を荒らげた。

「あんな娘をからかって、面白いのか。可愛そうに」

「ちょっと試してみたかったのさ」

 ラカタは、平気な顔で言った。

「前にも、鳳凰の矢がなければ龍は狩れないのにな、と言ったことがある。そうしたら、すぐにあの雷だ」

「本当にミヤの仕業だと思っているのか」

「だから、試しているのだろう」

「ミヤが、どうするか?」

「ああ」

「人の心をもてあそんで、あんたは何をしたいんだ」

「何、と言われてもな」

 ラカタは薄く笑っていた。

「ただ、成り行きを眺めていたいだけさ。龍の首などどうでもいい。都の王など、知ったことか。わしは面白いことが好きなんだ」

「ひどいやつだ」

「わしをこんな所に派遣したお上が悪い」

 ラカタはひょいと立ち上がった。

「わしはただ、退屈をまぎらわせているだけさ」

 ラカタは家を出て行った。

「まったく」

 久丹はラカタが去った戸口をしばらくにらみつけていた。

「役人の風上にも置けない男だ」

「ラカタの見込みが本当なら」

 羽白が眉をひそめた。

「リンが心配だ」

 久丹は、羽白を見た。

「キリに、伝えておいたほうがいいな」

 二人がリンの異変を耳にしたのは、翌朝だった。



10



「まったく、わけがわからない」

 サイが言った。

「かすかだが、息はしている。脈もある。だが、それだけなんだ。朝になっても動かない」

 夜が明けて、皆が起き出しても、リンは眠ったままだったという。

 いや、眠りというにはあまりに浅い息、ゆるやかな鼓動だった。身体のぬくもりがなかったら、死さえ疑ってしまうほどの。

 リンの身体は呪者の家に運び込まれた。

 キリ同様、ミヤも真実驚いているように羽白には見えた。キリとミヤは村の女たちを集め、リンを目覚めさせるために念をこらした。半日たっても変化はなく、女たちは肩を落として引き上げていった。最後にキリと慰めあうようにして出て行ったのは、キリとリンの母親にちがいない。

 羽白は、久丹とともに呪者の家に行った。キリは、疲れたように二人を迎えた。

 リンは、家の奥に横たわっていた。枕辺に、目を赤く泣きはらしたミヤが座っている。両手を祈るように胸元で組み合わせ、じっとリンを見つめている。

 ミヤの一途な様子を見れば、彼女がリンに何かしたとは思えなかった。鳳凰の羽根に雷が落ちたのも、リンのこの妙な病も、すべて偶然なのだろうか。ラカタの言葉が、物事をかき乱しているだけなのか。

 しかし、心のどこかに引っかかりはある。

「キリ」

 久丹が言った。

「おれたちに、なにかできることはないか? おれたちも呪力を持っている。力を貸すことがあったら」

「ありがとう」

 キリは弱々しく微笑んだ。

「みんなでリンを起こそうとしたんだけど、だめだったわ。呼び起こすものがないのよ。サイの魂は、消えてしまった」

「消えた?」

「そう。どこにもないの。身体だけを残して」

「なぜ」

「それがわかればね」

 羽白は、そっとリンの前にかがみこんだ。わずかな胸の上下の他は、なにひとつ動かない、からっぽの身体。確かに、霊のありかをつきとめなくては、呼び出しようもない。

「ラカタは来たかい?」

 キリは、久丹にうなずき返した。

「のぞいて行ったわ。いやなやつ。わたしたちが困っているのを見て、喜んでいるのよ」

 羽白と久丹は帰りぎわ、キリを家の外に連れ出した。

「あんたに伝える前にこんなことになった」

 久丹は、声を落として言った。

「ラカタはミヤに言ったらしい。リンに弓を引かせないためには、どこかに閉じ込めておくしかないと」

 キリは目を見開いた。

「身体ごと閉じ込めるのはさすがに無理だ」

「魂を?」

「封じている。どこかに」

「でも」

 リンはとまどったように首を振った。

「ミヤは本当に力を尽くしてリンを目覚めさせようとしているのよ。今だって必死だわ。あれが嘘とは思えない」

「自分のしたことに、気づいていないとしたら?」

「どういうこと?」

「ミヤは、無意識のうちに自分の望みを遂げているのかもしれない。高床に雷が落ちたのも、ミヤの無意識の力かも」

「そんなことって」

「大那には、生霊の話がある」

 久丹は言った。

「思いが募りに募った時、霊は身体を離れて欲望のままに動き回るんだ。本人にはその記憶がない。たしか、古謡にもあったよな、羽白」

「ああ」

 大那の地霊が豊かだったころの謡だ。一人の女がある男を思い焦がれ、ついには自覚のないまま生霊となって、恋敵を取り殺してしまう。やがて自分のしたことを知った女は、自ら命を絶ち、残された男は二人のために霊鎮めの琵琶を弾く‥‥。そんな謡。

「ミヤは、〈龍の渡り〉が終わるまで、リンの霊を安全な場所に置いておくつもりなんだ」

「どこに」

「それがわかればな」

「あなたたちの言っていることが本当なら、ミヤに訊いてみるしかない。リンを返してもらう」

「正気のミヤに何を尋ねても無駄だろう。ミヤは自分が何をしているかわからない」

「どうすれば」

 キリは、両手で顔を覆った。

「わたしだって、〈龍の渡り〉が無ければいいと思っていたわ。でも、これではリンが可愛そうすぎる。魂が戻ったら龍は去っていて、自分は何も出来なかったなんて」

 羽白と久丹は同時にうなずいた。

「やっぱり、ミヤに何もかも話す」

 キリは、きっと顔を上げた。

「すべてが終わってリンが目覚めたら、リンはけしてミヤを許さない。自分がしていることを知る以上に、ミヤは傷つくわ」

「もう少し様子を見た方がよくはないか」

 久丹が言った。

「ミヤをかえって頑なにしてしまうかもしれない」

「もう少しって」

 キリは、声を押し殺した。

「時間がないのよ。龍は、いま来てもおかしくない」



11


 

 ミヤは首を振るばかりだった。

 しまいには両手で自分の身体をかかえ、胎児のように丸くなってすすり泣きつづけた。

「ミヤ、ごめんなさい」

 キリはミヤを優しく抱き寄せた。

「責めている訳じゃないのよ。あなたの気持ちはよくわかる。でも、リンの望みもかなえてあげたい」

「知らないわ」

 ミヤは幾度もかぶりを振った。

「わたしは何もしていない。わたしだって、リンに目覚めてもらいたい」

「ええ、だからよく考えて。思い出してちょうだい。リンの魂をどこにやったか」

「知らない、わたしは何も知らない」 

 ミヤは、キリを突き飛ばして立ち上がった。涙をぬぐいもせず、家を飛び出した。

「ミヤ!」

 羽白がキリを助け起こした。久丹は、あわててミヤを追いかけた。

 ミヤは、河原の方に駆け下りて行った。

 思いのほかミヤは足が速い。久丹が羽白とキリに追いつかれた時には、ミヤは河に辿り着いていた。ためらいもせず河の中に入って行く。

「戻ってきなさい、ミヤ」

 キリが叫んだ。

 ミヤは、振り向きもしなかった。さらに河の中央へと進み、流れに足をとられたのかぐらりと傾いた。

「ミヤ!」

 ミヤの姿は一度河の中に消え、再びのぞいた頭は、速い水の流れにみるみる押し流されて行った。

 三人は、下流に向かって浮き沈みしているミヤを追いかけた。

 羽白も久丹同様、泳げる気配はない。

 どうするべきかめぐるましく考えているうち、耐えきれなくなったキリが河に飛び込もうとした。久丹は、あわててキリの腕をつかんだ。

「だめだ、あんたまで溺れてしまう」

「ミヤが死んだらリンも戻って来ないのよ!」

「そうか」

 久丹ははっと思い当たった。

「すまん、忘れていた」

 久丹は地を蹴り、飛び上がった。

 翼がないので身体がぐらついたが、久丹はミヤの真上まで飛ぶことができた。

 ちょうど浮かび上がったミヤの身体に腕を伸ばし、ひっぱり上げた。岸に連れて行こうとすると、ミヤは暴れ出した。半分水の中の身体は重く、さらに河の流れがあるので自分まで河に引きずり込まれそうになる。

 これはまずいな、と焦った時、近くの岸からざぶざぶと河に入ってきた者がいる。

「何している。さっさとこっちに連れて来んか」

「ラカタ!」

 ラカタはなにやら文句を言いながらもミヤのもとに泳ぎついた。 

 久丹はラカタの力を借りて、どうにかミヤを岸に引き上げた。

「ラカタさん」

 放心状態のミヤを抱きとめながら、キリが言った。

「なぜここに」

 ラカタは山の方に顎をしゃくってみせた。

「狼煙の点検だ」

「ああ」

「終わって帰うとしたらこの騒ぎだ。まったく、大の男が二人そろって泳げんとは」

 羽白が苦笑した。

「久丹は飛べる」

「ふん、あれでか」

 ラカタは鼻で笑った。

「たいして、役にたたんな」

「まったくだ」

 久丹は、濡れて顔にはりついた髪の毛をかき上げた。

「助かったよ。こんな時、あんたはただ眺めているだけかと思っていた」

「目の前で人死にがあったら寝覚めが悪い」

「羽白の時は、黙っていたくせに」

「つきあいが違うだろうが。何があったのか、すっかり話してもらうからな」

 ラカタの二人の側人が駆け寄って来た。ラカタは盛大にくしゃみをした。

「帰るぞ。このままでは風邪をひいてしまうわ。おまえたちも来い」

 キリは、ミヤを連れて呪者の家に戻った。ミヤはもう逆らわず、おとなしくキリに従った。

 久丹と羽白は、ラカタの家について行かざるを得なかった。

 派遣吏の住まいは、村を見下ろす山際の高みにある。

 大きく燃えている炉の前で、久丹とラカタは身体を乾かした。側人が、熱い白湯を渡してくれた。それをすすりながら、久丹はひと息ついた。

「さて」

 乾いた衣に着替えたラカタは、おもむろに言った。

「ミヤになにがあった?」

 手助けしてもらった手前、すべてを話すしかなかった。

 ラカタは、ふむふむとうなずきながら聞いていた。

「おもしろいな。女の力とは恐ろしいものだ」

「人ごとのように言わないでくれ。ミヤにそうさせているのは、みんなあんたの言葉だろうが」

「ミヤが素直すぎるということだ」

 ラカタは肩をすくめた。

「まさかその通りになるとはな」

「少しは反省しているのか?」

「はてさて」

 ラカタは答えず、腕組みをした。

「リンはどこに行ったのか。わしが知りたいのはそのことよ。答えがわからなければ、面白みがない」

 久丹はため息をついた。

「あんたの楽しみにつきあう気はないが、〈龍の渡り〉の前にはリンの魂を探し出してやりたいよ」

  

 ミヤは心を閉ざしてしまった。

 河から連れ戻されて以来、身体をまるめて座り込んだまま、どんな反応もない。

 呪者の家は魂の消えたリンと、虚ろなミヤとを抱え込んでいた。

「わたしが焦りすぎたのよ」

 キリは悲しげに言った。

「ミヤをこんなにしてしまった。もう三日よ。食べもしなければ、眠りもしない。だいたいミヤはリンがこうなってからずっと眠っていないんだから。このままでは、本当に死んでしまう」

 久丹と羽白は、ミヤに目をやった。両膝の上に顎をのせ、家の隅にうずくまっている。小さな身体が、やつれてますます小さくなったようだ。

「キリも寝てないのだろう?」

「大丈夫。他の女の子たちと交代しているから。ミヤも眠れば少しは楽になるかもしれないのに」

 久丹はもう一度ミヤを見つめた。ミヤの双の目は、赤く充血していた。視線はどこにも向けられていない。ただ、けして眠るまいとしているかのように、頑なに見開かれている。

 そうするだけの意思が、どこかに残っている?

「高床に雷が落ちた時」

 久丹は、考えた。

「ミヤは眠っていたんだな」

「ええ、ぐっすり」

「落雷がミヤの力なら、それは眠っている時に発動したものだ」

「夢」

 羽白がつぶやいた。

「夢には、隠れた願望があらわれる」

「そうだ。ミヤは鳳凰の矢を消したかった。夢で雷を落とした」

 久丹は大きくうなずいた。

「ミヤは、リンの霊を閉じ込めておきたい。誰の手にも届かない場所に。リンが、けして出られない場所に」

「夢の中」

 羽白は言った。

 キリが息をのんだ。

「ミヤは、リンの魂を自分の夢の中に閉じ込めているというの?」

「眠らなければ、ミヤの夢は現世につながらない。ミヤがリンを守るのに、これ以上安全な場所はない」

「それじゃあ、ミヤが眠れば‥‥」

「リンは解放される」

「ミヤ」

 リンは、ミヤにすり寄った。

「眠って。お願い」

 ミヤは、ぴくりともしなかった。

「呪力をあわせてみよう」

 久丹は、羽白と顔を見合わせた。

「ミヤを眠らせるんだ」

 キリは、ミヤの身体を抱きかかえた。久丹と羽白は、ミヤの頭に手をおき、呪力をこめた。

 不思議なものだ。ちらと久丹は思った。

 大那にいたら考えもしなかった呪力を、普通に操ることができる。大那に帰ったら、失った翼とともに、しばらくは喪失感を味わうことになるのだろうか。

 ミヤは、あらがうかのように首をふった。キリは、子供でも寝かしつけるように、その身体をやさしく揺すった。子守歌めいたものを、低く歌い出す。

 ミヤのまぶたが、だんだんと緩んできたようだった。ミヤは目を閉じかけては、何度も見開いた。久丹たちは辛抱強く、眠りへと誘う思念の波を送りつづけた。

 ついに、ミヤはがくりと首を垂れた。静かな寝息をたてて、眠ってしまった。

 三人はミヤをその場に横たえると、リンの枕辺に行った。

「リンの名を呼んでくれ」

 キリは、うなずき、ささやいた。

「リン」

 もう一度。力強く、

「帰ってきて、リン」

 リンの眉が動いた。

 深くひそめられ、元にもどり、両手を上げて顔をこすった。

 リンは、目を開けた。

 覆い被さるように自分を見ているキリを驚いたように見返して、

「どうしたんだ、姉者」



12

 


 その朝、羽白にははっきりとわかった。

 目覚める前から、心がざわついていた。

「久丹」

 羽白は言った。

「龍が来る」

「わかるのか」

「ああ。まちがいない」

 長にも告げた。

 長は龍と同じ目を持つ羽白の言葉を疑うことなく、村の者に〈龍の渡り〉の準備をさせた。

 射手たちは、矢筒に鳳凰の矢を入れ、手に手に弓を持って物見台のある岩場に立った。

 弓を持たない男たちは、河原にひかえた。龍の解体用の大包丁や鉈が並べられた。龍の頭以外は、すべて無駄なく使われる。肉は食糧に、鱗や爪は工芸に、革やたてがみは日用品に、骨すらも龍の首を運ぶときの輿に組み立てられるという。

 龍の頭の仕上げをするのは、女と老人の仕事なのだとキリが教えてくれた。村広場には腐敗防止用の漆が入った大壺や、肉を掻き出した後に詰める大量の藁が用意された。

「こんなに落ち着いて龍を迎えられるなんて」

 キリは言った。

「準備万端。あなたたちのおかげね」

 キリの側にはミヤがいた。

 自分がしてしまったことを知ったミヤは、はじめのうち、誰にも合わせる顔がないと言ったふうに縮こまり、ますます内にこもってしまった。しかし、リンに怒りはなかった。それどころか、リンははじめてミヤの存在を意識したようだ。ミヤにぎこちなくも優しく接し、ミヤの心もしだいに開かれてきている。

「あの時、おれは本当に気持ちよく目が覚めたんだ、姉者」

 リンは言っていた。

「どれくらいたったかなんて、判らなかった。だだとっぷりと、居心地のいい場所に浸っていた。あんなに安らいだ気持ちは、子供のころ以来だった」

「そう」

「ミヤの夢の中だったとはな」

 キリは、やさしく微笑んだものだ。

「守られていたのよ、あなたは」

 羽白と久丹は、キリに別れを告げた。

 キリは、二人を名残惜しそうに見つめ、

「ほんとうに、ありがとう」

「いや、おれたちもいろいろ世話になったことだし」

 久丹は、にっと笑って見せた。

「なかなか、おもしろかったよ」

 確かに、これほど地霊に満たされた感覚は二度と味わえないだろうなと羽白は思った。無事に大那に帰れたら、この世界での出来事をおもしろかったと語り合えるにちがいない。

「きっと帰れるわ」

 キリは、大きくうなずいた。

「信じてる」

 二人はうなずきかえし、キリに背を向けた。

 村の出口まで来ると、ラカタがやって来た。村の者たちより、ラカタの方がそわそわしているようだった。

「これですべてが報われるわい」

 ラカタは言った。

「〈龍の渡り〉を見る都の人間など、めったにおらんぞ。我慢を重ねた甲斐があった」

「よかったな」

 久丹は言った。

「おれたちも、あんたとはお別れだ。龍といっしょにこの世界を出る」

「失敗したらどうする」

 ラカタの声は朗らかだった。

「また舞い戻ったり、別の世界に行くかもしれん」

「そしたら、また帰る方法を考える」

 久丹はきっぱりと言った。

「どんなことをしても帰ってやる」

 羽白も同意見だ。

「それでは、〈龍の渡り〉を見物に行くとするか。ついでに、おまえたちの見送りもしてやろう」

 ラカタは空を見上げた。

「まったく、いい天気だ。龍びよりだな」

 この世界に来て、すでに一月は過ぎていた。

 今は、深い秋の空だ。青く澄み、どこまでも高い。

 西の空に、半分かけた二つの月が、白い雲のかけらのように浮かんでいた。

「狼煙がよく見えることだろう。一刻もあれば都に伝わる」

「龍の首を手に入れた知らせか」

「首尾よくいってくれればの話だがな」

 羽白は琵琶を持ち直し、久丹たちとともに射手のいる岩場に向かった。

 岩場では、男たちが弓を手に東の空を見上げていた。誰もが無言で息をひそめている。

 その張り詰めた空気に、ラカタさえ黙り込んだ。

 羽白も、目を細めて空を見た。龍はどこから来て、どこに帰るのだろう。ここや大那とは違う世界か。あるいは、過去の大那からか。

 陽は中天に上っていた。渇望するかのようなまなざしで空を見上げる人間たちをよそに、とんぼがのどかに飛んでいた。

「本当に来るんだろうな」

 ラカタがささやいた。

「首が痛くなってきたわい」

 羽白は答えなかった。胸のざわめきは、ますます強くなっていた。まわりの空気が、ぴりぴりと振動するのが感じられた。

 風の向きが変わった。ひやりと冷たく、頬をなぶった。

「来る」

 羽白はささやいた。

 とがった東の峰の上空が、ほんの少し暗くなった。

 暗い青みを帯びた部分が、渦を巻くように凝縮していった。

 太鼓が打ち鳴らされた。最初は戸惑ったように、あとは続けざまに。

 高い、よく通る音が谷間中に響き渡った。

 リンたちは、てんでに鳳凰の矢をつがえた。

 最初の龍が現れた。青黒い渦の中から黄金のたてがみを持った首が、鋼色の胴が、長い尾が飛び出した。

 龍は、水の中の魚めいて、流れるように空を翔んだ。たっぷりと地霊を浴びて、充足の咆哮をあげた。彼らはおそらく、その身に地霊を満たすために、この世界へやってくるのだ。

 目を見はっているうちに、龍たちは次々と現れた。上空に高く昇り、たがいにぶつかりもせずに旋回した。そして、河の上まで来ると下降する。風が巻き起こり、まわりの木々をどよもした。大きくさざ波だった水面が、龍の巨体で暗く陰った。

 せり出した岩場は、龍の目の色もわかるほどの近さだ。

 ラカタは声も出せず、ただだだ唸るばかりだった。羽白たちは、ラカタを引っ張って、射手の邪魔にならないように後ろに下がった。

「一斉に喉の下を狙う」

 リンが言った。

「合図してくれ、リン」

 サイの言葉に皆がうなずいた。

「次だ」

 リンが片手を上げた。

「次に降りてくるやつだ」

 ほぼ同時に、弦音が響いた。鋭く空に放たれた鳳凰の黄金色の矢羽根がひらめき、幾本も龍の喉に突き刺さった。

 龍はぐらりと傾いた。はじめて人間の存在に気づいたかのように首をめぐらし、怒りの咆哮を上げた。まっしぐらに、岩場めがけて飛びかかってくる。

 サイは素早く、二本目の矢を放った。それも喉元に刺さると、龍は頭を下げ、ぐるりと尾をうねらせた。丸太よりも太い尾は、岩場を叩き、何人かを吹き飛ばした。

 龍はさらに回転して岩場に上半身を乗り上げた。

 岩場が揺らいだ。龍の顔はすぐ間近だ。

 湿った木の葉の匂いがした。かっと開いた口の牙の並びがはっきり見えた。

 二人の男が、振り上げた角になぎ倒されて弓をおとした。龍は人間たちをかみ砕こうと歯をがちがちいわせていた。

 リンたちは、ひるむことなく次々に矢を放った。鳳凰の矢は、きらめく硬い鱗を貫き、ふかぶかと龍の身体に突き刺さっていた。

 龍は飛ぶことも忘れ、頭を振りながら、岩場を這い進もうとした。首を振り上げて近づくたび、射手たちは飛び退りなから矢をつがえた。

 耳の奥が痛くなるほどの龍の咆哮と、叫び交わす射手たちの声、途切れることない弦音が岩場を満たす。

 頭上の龍たちは、下界の仲間にはかまわず、悠然と空を舞っていた。西の峰の上、二つの月の下に、すでにもう一つの渦が出来つつあった。

 一番はじめの龍が渦の中に吸い込まれるように消えていった。

 岩場の龍には、何本もの鳳凰の矢が突き刺さっていた。それには、確実に龍の生気を奪う力があるようだった。

 龍はがくりと顎を落とした。上目遣いにした紫色の目が羽白の視線と交わった。

 羽白は、思わず頭を下げた。

 龍の目がゆっくりと閉じられた。胴は崖下にだらりと垂れた。前足の爪を岩場にたてたものの、その重みをささえきれず、ずるずると落ちはじめた。

「河原に行くぞ」

 リンが叫んで駆けだした。

 他の者たちも雄叫びを上げて後につづいた。

「わしも行くぞ」

 目を輝かせてサイたちの戦いぶりを見ていたラカタは、我に返ったように拳を上げた。

「ラカタ、おれたちはそろそろ行く」

 久丹は言った。

「みなによろしく言ってくれ」

「そうか。おまえたちがどうなるかも見とどけなければな」

 ラカタは鼻をならし、空を見上げた。

「わしは忙しいぞ。早く行け」

「そうするよ」

 久丹は笑って羽白に背を向けた。

「琵琶はおれが持つ。しっかりつかまっていてくれ」

「頼む」

 羽白は久丹に琵琶を渡し、かがんだ久丹の背にしがみついた。

 久丹が伸び上がるようにすると、二人の身体はふわりと浮かび上がった。

「帰ろう、羽白」

 久丹は、まっしぐらに西の峰を目指した。

 大地がみるみる離れていった。

 岩場の下の河原には、龍の身体が長々と伸びていた。河原にひかえていた者たちが遠巻きに眺めている。弓引きたちも、やがて合流するだろう。

 視線を上げると、龍たちはすぐ近くだ。風が耳元でうなりをあげた。

 風圧で久丹の身体はぐらついたが、不安はなかった。

 空を飛んでいるのだ。はじめての体験だ。これほどの高みから大地を見下ろせるとは。

「すごいな」

 久丹が満足そうに言った。

「おれたちは、龍といっしょに飛んでいる」

 手を伸ばせばとどきそうなところに龍はいる。二人には目もくれず、たてがみをなびかせ、悠然と翔んでいる。西の峰の上の青黒い渦に、一頭また一頭と吸い込まれていった。

 目の前に渦はせまっていた。羽白は一度、岩場の方に目を向けた。早く行けと言っているのか、別れを告げているのか、やみくもに手を振っているラカタが見えた。

「行くぞ」

 久丹が、覚悟を決めたような声で言った。

「ああ」

 二人は、呪力を合わせた。

 羽白は、大那を想った。いかに地霊が衰えていても、自分が生まれ、育ち、琵琶を弾いてきた大那。生きていけるだけ生きて、そこに骨を埋めるのが自分の望みだった。

 二人を追い抜いた龍の尾が、渦の中に呑み込まれた。

 久丹は、その後につづき、暗い渦の中央に飛び込んだ。



13



 身体に衝撃がはしった。

 どこかに投げ出されたようだ。

 久丹は、かたく閉じていた目をそろそろと開いた。目の前に、ぼんやりと赤くゆらめく光がある。熱さが感じられるところをみると、焚き火らしい。

 夜だ。

 自分は光しか感じられず、なにも見えない。もうここは、地霊が豊かなあの世界ではない。

 かたわらで、身じろぎする人の気配があった。

「羽白?」

 久丹は声をかけた。

「大丈夫か」

「ああ」

「ここは、どこだ」

 羽白は黙り、周りを確かめている様子だった。

「荷物がある、わたしたちの」

 羽白は、ゆっくりと言った。

「久丹。帰ってきたようだ」

 間もなく夜が明けた。

 白みはじめた空とともに、久丹の視力も戻ってきた。

 あたりはあの時のままだった。焚き火の炎は小さくなっていたが、積み上げたのと同じ形で燃え滓が残っている。枕がわりにしていた旅荷物も、頭の窪みを残したまま、同じ場所に置いてある。

 自分たちが姿を消してから、四五刻しか過ぎていないようだ。あの世界で、一月以上暮らしていたというのに。

 夢だったのか、と思いもした。地霊溢れるあの世界。羽白の目は龍と同じ色で、自分には羽が生え、呪力まで使えた世界。

 羽白といっしょに、同じ夢を見ていたのだろうか。

 だが羽白は首を振った。

 羽白の目の色はもとにもどっていたが、琵琶にはられた弦は、あの世界の弓の麻弦のままだったのだ。

 ぼんやりとした気分のまま、久丹は羽白と野営をたたんだ。身体の重さも、しだいになじみあるものになってきた。これが大那ではあたりまえの状態なのだ。

 朝方の冷たい秋風に顔をなぶられて歩き始めると、ようやく帰ってきたのだという実感がわいた。

 青空の下、くっきりと際立つ山々の稜線は、まぎれもなく故郷のものだ。次の峠を登り、降りていけばじきに瀬座の村が見えるはずだ。

 峠を少し下ったところで、久丹は足をとめた。枯葉や雑草に覆われてはいるが、道らしい跡が残っている。

 ここを通るのは何年ぶりだろう。

 鎮まっていたはずの悲しみが、静かに頭をもたげてきた。

「この道の先に、おれたちの村があった」

 久丹は言った。

「景とおれの村だ。みんな鴉の一門だった」

 羽白は眉を上げた。

「〈鳳凰〉か」

「今は〈鴉〉だよ。小さないい村だった。十五六年前になるかな。若いころ都に憧れて村を離れた男がいて、結局そいつは村が恋しくなって戻ってきた」

 久丹は目を細め、ため息をついた。

「そのころ、大那では疫病が流行っていた。そいつは村に帰って、間もなく倒れた。身体中に赤い斑点ができていた。旅の途中でうつってきたんだな。村に病がひろがるのに時間はかからなかった」

 久丹は、道の向こうへ、過去へと目を向けた。

 あの災厄の年。

村長(むらおさ)はこの場所に厄札を立てた。誰も村の外に出ず、誰も村に入らないようにと。疫病はここで止めなければならなかったんだ。まわりの村にうつすわけにはいかなかった。村の中でも、病人とそうでない者とが別れて生活した。効果は無かったな。はじめに年寄りが死に、小さな子供が死に、おれたちの親も死んだ」

 亡骸に触れることも許されなかった。病いの軽い者が荼毘にしてくれた。だがしまいには、動ける大人もいなくなった。

「村のみんなが死んだ。おれと景だけ残して」

「そうか」

 羽白はひっそりとつぶやいた。

「瀬座の者が、様子を見に来てくれていた。ここまで食べる物も運んでくれた。そのころには、食糧は底をついていたからな。おれたちが村を出るのを許されたのは、最後の死者が出て、一月近くたったころだ。おれたちに疫病の心配はないと判ってから」

 村の家々はみな焼き払われた。住人が死んで横たわったままの家もあった。

「最後に死んだのは、景の妹だった」

 久丹と景は、瀬座の者たちに連れられて村を出た。

 厄札から一歩踏み出した時、肺の隅々まで新しい空気が入ったような気がした。三月にわたる死と隣り合わせの日々は、終わりをつげた。

 久丹は暗い影のような悲しみをなだめ、過去へと押し戻した。

 空を仰いで目を見開く。

「ああ」

 笑みを浮かべて久丹は言った。

「ちょうど、あんなふうだったよ」

 青々とした空を透かして、ほの白い雲がひろがっていた。両翼を大きく広げ、顔を上に向けて、まっすぐに飛び立とうとしている巨大な鳥のような。長い尾が、山並の陰に消えていた。

 あの時の雲とよく似ている。

「おれたちが村を出る時、あんな雲を見た」

「景の鳳凰のようだ」

「そうだな。雲を見ながら、おれは生きてやると思った。景といっしょに、死んだ村の者のぶんまで。たぶん、景も同じだったはずだ。それから、鳳凰ばかりを彫り始めたから」

 羽白は黙り込み、しばらく空を見上げていた。

 久丹は、先にたって歩き出した。景の顔を早く見たかった。

 話してやらなければ。鴉が鳳凰になり、翼を失ってまた鴉に戻った顛末を。

 景は黙々と鑿を動かしながら聞くだろう。眉一つでも動かしてくれたら上等だ。

 あの時から、景は感情を表に出せなくなっていた。笑いもしなければ、泣きもしない。だが、決してその心が死んでいるわけではない。

 木に向き合っている景は、いつも大空に羽ばたく鳳凰を想い描いている。

 鴉は鳳凰なのだ。景が彫っている鳳凰は、景自身の姿にちがいない。

 いつの間にか、薄い雲は形を変えて風に流れていた。

 坂の下に、のどかな盆地が見えてくる。

 久丹は羽白を振り返り、指さした。

 瀬座の村は、すぐそこにあった。


 

   


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