29話『恋に、愛に、青春に怯える愚者』
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風見織姫からのメッセージを無視したその日の夜。
俺のスマホには同じような文言で、"明日も待っている"という連絡が来た。
それを当然のように花灯に見られ、からかわれ、揶揄され、煽られ――その果てに迎えた翌日の日曜。
俺は、織姫の呼び出しに応じることにした。
気付いたんだ。
俺はどう転んだってこれ以上誰とも関わり合いたくないけれど――一方で織姫は、この先も休日が来るたびに自分の時間を無駄にし続けるのだろう。
そんなの、ただひたすらに申し訳ない。
俺に手を差し伸べる必要はないんだと教えたい。
有耶無耶のままだらだらと関係が続くくらいなら、いっそのこと拒絶の意志を示すべきなんだ。
だから、会うことにした。
せめて――"もう俺に関わらないでくれ"と伝えたかった。
幸か不幸か、俺のスマホは花灯のところにある。
直接会って伝える以外の手立ては、存在しない。
「…………」
玄関に向かって、そこで初めて靴が見当たらないことに気付く。
そういえば、前に履いていた靴はシューズボックスの奥に放り込んだままだ。
理由は……思い出したくもない。
とにかく別の適当な靴を取り出し、それを履いて外に出る。
見上げる空は曇天。
眩しく鬱陶しい太陽の姿はなく、俺の気分は少しだけ楽になった。
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「来てくれてありがとう、白雪君」
とある広場。その隅のほうにあるベンチに座ったところで、織姫が言った。
透き通る声が静かに耳に触れ、そして風と共に流れていく。
「……いや」
どう返事をしたらいいか分からなかった。おかげで、曖昧でか細い声しか出ない。
商店街の入り口で合流してから、ずっとこうだ。
なんとなく居心地の悪さを覚えたので視線を泳がすと――近いとも遠いとも言えない場所に立っている黒服に行きつく。
あの黒服は、民間警備会社の人間で、織姫の護衛役だと聞いた。
「彼らには少し離れているよう言った。会話が聞かれることはないよ。やれやれ、父の気の使い方にはいつも振り回されるな」
護衛――言い換えれば、警護。
いくら社長令嬢とはいえ、以前の織姫にそのようなものは必要なかった。
それが何故、と疑問を覚えたが、しかしこの二、三か月で変化した状況を鑑みれば答えは一目瞭然だった。
――原因は俺だ。
俺が巻き込んだせいで織姫は誘拐された。命の危険に晒された。
だから身の安全を守るために護衛役が――力の象徴が、必要だったのだ。
何かを守るためには多少大げさだろうと、力を誇示しなければならない。
織姫本人はそういった振舞いを好いていないだろうが、それでも結果としてその身は守られる。
ああ――やっぱり、俺は無力だから。
最初から織姫とも、花灯とも、楓とも、七海とも、――とも、誰とも関わっちゃいけなかったんだ。
今さら謝って許されることじゃない。一生懺悔したって償えるものじゃない。
俺はどう足掻いたって修正不可能なレベルで――彼、彼女たちの人生を捻じ曲げてしまった。
「あー……その、君を呼んだのはだね、近々我が校では文化祭を実施するのだが……それ関連の買い出しを手伝ってほしいんだ。どんな形であれ、君には学校行事に関わってほしい気持ちもある。だから――」
必死に、俺を想って話す織姫。
言わなければ。
それが俺の義務だ。
申し訳ないとか、せめてとかじゃなく、当然のように果たされるべき責任だ。
何もかもを放り投げた俺が、それでもなお向き合うべきことなんだ。
だから胸が痛くても。声が震えそうになっても。
それでも――言わなくては。
震える指先を誤魔化すように拳を握った。
「……建前は、いい」
浅く息を吸って、針穴に糸を通すような慎重さで言葉を組み立てながら、それを声に出していく。
「今日は伝えたいことがあったから来た……それを言ったら俺は……もう、あなたと――」
「少しだけ待ってもらえないだろうか」
刹那。織姫の人差し指が俺の口を封じた。
しかしそれは、すぐに解かれる。
織姫としても衝動的な、思わず出てしまった行動なのだろう。
「…………」
何故――すぐに疑問を口にしようとしたが、それに被せるように再び織姫が動く。
具体的には、ぎゅっと手を掴まれた。少し強引に。けれども傷つけないよう丁寧に。
「――手、こんなに冷たいじゃないか」
その声音には悲しみの色があった。
六月上旬のことを思い出す。
――とのすれ違いから織姫と共に海を見に行って、俺はそこで告白をされた。
すべてを投げ出して、知らない場所で、二人でバカになれないか――と。
あのときと同じだ。
「いいよ。建前抜きで話そう。私は白雪君の力になりたいんだよ。今の君を見れば、何があったのかはおおよその検討が付く。だから。君が私を助けてくれたように、私も――」
織姫は今、己の心を晒して、正面から俺に向き合ってくれている。
そっと――肩を掴まれて体を寄せられた。
自分の体温を分け与え、優しく肯定し、包み込むようなその行為。
「ぁ――――」
涙がこぼれた。まったく意図せず、雫が頬を伝い、それが織姫の胸元に落ちていく。
音もなく決壊したダムは、どれだけ心の中で命じても流れる涙を止めてくれない。
突然のことに戸惑うしかない俺は、織姫の熱に当てられるしかなくて。
けれど彼女はそれを――迷いなく受け入れてくれる。
「今は何も考えなくていい。私の熱だけを感じていてくれ。君は生きている。ちゃんとここに居るから。大丈夫。君を咎めるものは何もない。私が守る。だからどうか、ゆっくりと力を抜いてくれ」
優しく、頭を撫でられた。
脳の奥のほうで詰まっていた栓が抜けたような感覚がして、余計に涙が流れる。
恥も外聞もない。これではまるで母親に抱かれて泣きじゃくる子供じゃないか。
「――――ぁ、え、うぁ……ちが、違うんだ、こ……れは……」
「いいんだよ、泣いて。君の心が生きている証さ」
「う、ううぅ……ああ、ぁぁぁああああ…………‼」
「君はこれまで頑張りすぎた。だから少しくらい休んだっていいんだよ」
顔を上げる。ぼやけた瞳に映る織姫の目。それはあまりにも柔らかく、ありとあらゆるものを包み込む母性に満ちていた。
眩しい。油断すれば目を焼かれてしまいそうなほどに、輝かしい。
「織姫……」
――だけれど。
ああ、温かい。強張った全身がほぐれて、指先の震えが消えていく。
――ゆっくりと近づいてくる彼女の瞳は。
凍り切ったはずの心に、血が通っていく。
――徐々に、明滅するようにして光を失い。
もう少し、もう少しだけ、この木漏れ日に当たっていたい。
この時間が永遠に続けばいいのに。この夢が覚めなければいいのに。
――どうしたって俺の脳裏には、散り往く桜の花びらが投影される。
「白雪」
耳元で名前を囁かれた瞬間、かちりと――撃鉄を起こす音がリフレインした。
継ぎ接ぎの心が再び崩れていくのが、驚くほど冷静に理解できる。
緩慢に。俺は織姫から離れて天を仰いだ。
「―――――――――」
永遠にも等しきこの刹那。
己が何を考え、何を思っていたかなんて、一秒後には宇宙に飲み込まれて分からない。
ただ、はっきりしていたのは。
「……俺は今日、あなたにさよならを言いに来たんだ……」
「ぇ……あ……」
困惑する織姫の、その手を引き剥がして――俺は立ち上がる。
「これ以上、俺に関わるな」
「あ……ま、待ってくれ……」
事態を飲み込めないまま手を伸ばす織姫。俺は一度、明確に拒絶の意志を示したのに。それでも彼女は、俺に手を差し伸べようとする。
だから、そういうのは、もう――――。
「もう、たくさんだ……ッ‼」
吐き出すように口にしたら最後、涙と同じように、阻むものは何もない。
決壊したダムにその役割は果たせない。
「あなたはさくらが用意した駒の一つだろう! それで⁉ 俺を慰めて、距離を縮めて、今度はあなたが殺されるのか⁉ ふざけるなぁぁぁ――‼」
どれだけ自分が最低なことをしているか、理解していても、止められなかった。
ここまで積み上げてきた思い出が、感情が、砂時計をひっくり返したように逆流し――堕ちていく。
「俺の幸福も……不幸も……! この先ずっとさくらに与えられて、操られて……挙句の果てには意味の分からないゲームに参加させられる! こんなの……! もう! 嫌なんだよ俺はァ‼」
「頼む、落ち着いてくれ白雪君……私は本当に君のことが……、君なら分かるはずだ……君なら……!」
「黙れ! 俺は何も見たくない……‼」
そうだ、見たくない。
言葉という名の見えない刃によって傷つく織姫を、堪えきれずに涙を流してしまうその姿を、見たくない。
「いいか風見織姫……‼」
「やだ……やめてくれ……白雪君………ッ」
やめろ。言うな。こんなの誰も幸せにならない。そんなこと頭では分かってるだろ。
なのにどうして、どうして――――。
「お前の恋心はさくらに思考誘導されたものなんだよ……ッ! 本当のお前はどうしたって俺なんかを好きにならないし、お前の仕組まれた恋が実ることはない! 全部が幻で、偽物だ‼ だからもう二度と、俺に近づくなぁぁぁぁぁ――ッッ‼‼」
どうして俺は、こうも間違った道を進んでしまうのだろう。
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逃げた。また、逃げた。
出口のない迷路に入り込んだように、とにかく同じところをぐるぐると回っている感覚に支配されている。
何もかもが分からない。無数の感情が渦巻いている。
そのどれもが自我を曖昧にするもので、何度も嗚咽を漏らして、胃液を吐いた。
車が通れば轢かれる光景が浮かび、ビルを見れば飛び降りることを妄想し、薬を見れば過剰摂取することを望んだ。
「あ、ああ、……あああ…………、あ……」
言葉にもならない声を垂れ流しながら、歩いて、歩いて、歩いて――。
気が付くと俺は、洋館に帰っていた。
はっきりしない意識の中、転びながら、這いずりながら、洗面所に向かう。
顔を洗いたかった。水に溺れて窒息死したかった。
「……誰だ、お前」
人としての尊厳を根こそぎ失った誰かが――鏡に映っている。
「織姫は暗示をかけられていた……だが、そんなの……。俺は……俺は……! なあ……お前はいつまでさくらや夏野を言い訳に使うんだ……。いつまでそうやって逃げ続けているんだ。……何とか言えよォ‼ 冬馬白雪――ッッ‼‼」
鏡の中の誰かは、何も答えてくれない。
それに対して怒りに似た感情――否、衝動を覚えた俺は、思いっきり拳を叩きつける。
痛みなどない。もう一度殴った。
鏡の世界に亀裂が入る。十四分割された誰かの姿は、それぞれが違う表情を見せ、そのどれもが俺の神経を逆撫でるようなものだった。
ゆえにもう一度殴った。もう一度。何回も、何回も、何回も、何回も。
「ぐ、ッ、この! この! この! このォ……‼ ッ、ぁぁぁぁあああああああ――――ッッッ‼‼」
散々と何かが砕ける音が響いて、今でも耳の奥で残響している。
目の前に広がっていた世界は砕けた。
洗面台に溜めた水が溢れて、床に流れ落ちていく。
粉々になった鏡の破片と、赤い液体を取り込んで。
――もう、つかれたな。
水の中に落ちた一際大きな破片――角度を変える度に光を纏っては輝きを放つそれを、手に取った。
鋭利な切っ先は、手首の動脈を対象に構えられる。
この破片の大きさなら狙いが多少ズレようが関係ない。
首や胸を狙うより確実に、強く力を込められ、絶対に動脈を切り裂く。
振り下ろせば。振り下ろしきれば。死ぬ覚悟さえあれば――。
「……もう……全部、終わりに……はぁ、はぁ…………、ぁあああッ、…………――――ッ、死ねよおおおぉぉぉ――‼」
結果は火を見るより明らかだ。
何度力を込めても、何度破片を振り下ろしても、切っ先が皮膚を突き破ることはなく――それでもと何回も何回も、息を切らして獣のように牙を振るうが、どうやっても最後の一線が越えられない。
やけくそに破片を放り投げた俺は膝から崩れ落ちて、額を地面にこすりつけた。
「――――――惨めだ」
そのときだった。
何かが視界の端に映り込んだ。
思わず、目を奪われる。当然だ。だってそれは、俺の持ち物ではない。
俺ではなく彼女の――。
「……これは、夏野の……」
小さなストラップだった。特殊な意匠が用いられたそのアニメ特有のものだと、以前聞かされたことがある。
それがあったからこそ、彼女は空野六花との縁を繋ぐことができ、一時の別れを伴いながらも、巡り巡るその途中で――俺との出会いが生まれた。
彼女にとって、とても大切な代物のはず。それがどうしてここに。
見れば、留め具のところに小さな紙切れが挟み込まれているようだが。
「……なんだ……?」
俺はもどかしくなる気持ちをどうにか抑えながら、震える指で必死にその紙切れを取り出した。
――息を呑む。
何か、確信があったのだ。
このストラップがここにあるのは、決して偶然なんかじゃない。
この紙が挟まっていたのだって、何者かの意図したことなんだと思えた。
だから俺は、幾重にも折られた紙切れを開くことに躊躇しない。
迷いが来るより先に。思考が来るより先に。
そう思い手をかけた、閉ざされた猫箱の中身は。
――『靴底』。
真白の紙の中心に、たったの一単語。
それだけが、記されていた――。