28話『カッターナイフ』
風見織姫編その2、開幕。
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「――――」
風呂に入っていた。
髪を洗い、体を洗い、シャワーで泡を流し、湯船に浸かるという――改めて説明するまでもない極めて一般的な、普通の行為。
だけれどこれが、俺にとって"普通"になったのは、一体いつのことだったか。
思い返してみても幼少期にまともな記憶はない。
だとするならやはり、冬馬白雪の人生における転換期として真っ先に挙げられる十七夜月家での生活が、俺にこの"普通"を与えてくれたのだろう。
そう――これまで幾度となく、飽きるほどに実感し続けてきたことだ。
俺はあの家族から、ひいては十七夜月さくらという少女から、きちんと風呂に入るという当たり前の習慣を教えてもらった。
それ以外にも食事や衣服、言葉や思考の自由、普遍的な常識、価値観による判断基準、人が人として生きるための"在り方"など――とにかく冬馬白雪という存在のありとあらゆる基盤が、彼女によって築かれたのだ。
そしてそれは、今もなお続いている。
――俺は浴槽のふちに置いておいたカッターナイフを手に取り、その刃を左手首に当てた。
「――――」
これもまた、十七夜月さくらの行動の結果によってもたらされた、俺の新たなる習慣だった。
手首に当たる鈍色の細い線を、のぼせる寸前まで眺め続けるという行為。
別に悪ふざけをしているわけじゃない。傷をつけて誰かの同情を引きたいわけでもない。
とにかくこれは……自分でもよく分からないことなのだ。
憔悴しきった人間がおこなう行動を真似しようとして、しそこねているだけにすぎない。
「――――」
あの日からずっと、頭がおかしくなっている気がする。
きつく締まっていたネジの一本か二本が抜けたとかそんなレベルじゃなく、何かもっと不可逆的な感覚だ。
――が死に、さくらに操られた花灯にキスをされ、受け止めきれないほどの悲しみと孤独に苛まれながら、いつまでもその場で足踏みを続けている――。
今の俺は、責任も、責任感も、義務も、職務も、何もかもを放り投げ、どうでもいいと思い込み、思考を止めた愚か者だ。
どうしようもないほど、救いようがない。
ああ――本当に。
「……俺はバカだ」
何を当たり前のことを言っているのだろうか。
今まで賢いフリをしていただけで、俺の根っこはどうしようもないバカだ。
だから俺はいつだって大切なものを失い続ける。誰かの掌の上で踊らされ続けるんだ。
仕方ない。俺は犯罪者から生まれた子供だから、きっとDNAに社会不適合者になる因子のようなものが刻まれているのだろう。
普通になることを許されない、マイナスの極地にいる圧倒的敗者。
ゆえに社会の枠組みにハマることができず、普通の生活を夢見ても叶わなくて、奇跡的に青春を手に入れたって長続きしない。
ふと、視線の先にある刃を見て思う。
あと少し、このカッターナイフに力を込めれば、この夢が終わってくれるんじゃないかと。
でも、結局はやらないんだ。
こうして悲しみに浸るだけで、孤独に酔いしれるだけで、生と死の境界線上に立っている演技をするのみ。
嘲笑。
死ぬ覚悟どころか、傷をつける勇気もないくせに、よくもこんな真似ができるもんだ。
このクズが。愚か者が。どうしようもない異常者が。
一体どれだけ、俺は約束を守ることができた?
復讐を果たすと、どんな真実でも受け止めると誓ったあの業火はどこへ消えた?
死ぬ勇気がない俺はきっとこの先もだらだら生きて、そのたびに誰かに利用されて、搾取されて、この心の傷に縋りながら生きていくんだろうな。
いいよな、被害者は楽で。自分に言い訳できるから。その理由があるから。
……なんて、今の俺がどれだけクソ野郎なのか、頭のどこかで理解しているはずなのに。
それでも俺は、もう何も考えたくない。
期待して裏切られるのはもう嫌だ。
だからこのまますべてを諦め続けて、バカだと見下されようと、俺は"知らない幸せ"の中で生命を終わりまで持っていく。
無知――きっとそれだけが、俺の掴める幸福だろうから。
「…………」
こうして、一日が過ぎていく。
洋館の中に閉じこもり、学校にも行かず、来客にも応じず、何も考えず、何も生み出さない、そんな無意味な時間が――過ぎていくのだった。
❀
「おはようございます」
朝、妙にベッドの中が温かいと思い目蓋を開けると、隣には花灯の姿があった。
琴平花灯――高校生とは思えない幼い顔に、少し舌足らずな声が特徴的な女の子。
ブレザーを脱いだワイシャツ姿でベッドに潜り込んだ彼女が、どうやら湯たんぽのような役割を果たしていたみたいだ。
「どうも、冬馬くん。ああ、そろそろわたしも名前で呼んだほうがいいですかね。こうして通い妻生活を始めて一週間ですし。ねぇ――し、ら、ゆ、き、さぁん?」
吐息混じりに囁かれる。耳に当たる息を避けるために体を起こすと、花灯の虚ろな瞳がよく見えた。
遠目から見た全体の雰囲気も、普段の彼女らしくない胡乱とした様子だが、それも当然か。
――今の花灯は強力な催眠状態にある。
さくらの仕業だ。
――との思い出を上書きする。それが嫌ならさっさと『十七夜月さくら』という存在を紐解いて見せろ――そう発破をかけるための駒として、現状花灯は利用されているのだ。
しかしそんな状況にも、もう慣れてしまった。
鬱陶しい妹ができたような感覚に近い。丁度、花灯は同級生だけど年は俺のほうが一つ上なのだし。
何より、避けられない以上はそうやって受け入れたほうが楽だ。
「可愛らしいですね」
さくらのそれと重なる、嗜虐的な表情を浮かべる花灯。
「まるで人に怯える子犬のようで……うふふ、中々にそそります」
思わず俺は目を逸らした。
怯える子犬とは、あながち間違いではない。
なぜなら俺の心身には強く、深く刻み込まれている。
人を支配するのにもっとも容易い感情――恐怖というものが。
そんな俺を見ると、花灯は生唾を飲み込んで、その小さな手を伸ばしてくる。
「そろそろ――先輩との思い出も無くなってきちゃいましたかねぇ? 新しい拠り所が欲しいですか? 構いませんよォ、わたしは。いつだって、どこでだって、あなたが求めるなら応えますとも。――さあ、来てください。白雪さぁん?」
「……花灯はそんなことを言う人じゃない」
首筋に触れた手をそっと払い、俺はベッドを出た。
朝食の時間だ。今日は平日。俺はどうだっていいが、花灯を遅刻させるわけにはいかない。
今の彼女は、たださくらに操られているだけなのだから。
重い足を何とか動かして部屋の外に向かう。
途中、ドレッサーの鏡に映った自分の姿に、意図せずため息が漏れた。
皺だらけのワイシャツに乱れた黒髪。
そんなだらしない格好を直す気も起きない自分に――辟易したんだ。
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「君は……何を食べたい?」
キッチンに移動した俺は、後ろをひょこひょことついてきた花灯に聞いた。
「では、トーストに目玉焼きを所望します」
「野菜も食べたほうがいい。あと牛乳も」
「む……ええ、まあ。いいでしょう。用意してもらう以上、文句は言いません」
「それが既に文句だろう」
俺は冷蔵庫から適当に材料を出して、朝食の準備を始める。
最近は料理をすることも多い。
何かをしていれば、その分だけほかのことを忘れられるから。
なので目玉焼きを作ることなど造作もないのだが――不意に、花灯から機先を制される。
「で、調査のほうは進んでいますか?」
「……その話はするな」
おかげで、フライパンに落とした黄身が割れてしまった。
これは俺の分にしよう。
「ふふ、いい感じに棘のある声音ですね。まるで雨に濡れた猫のようじゃあありませんか」
「さっきは犬で、今度は猫か。静かにしていてくれ……焦げた目玉焼きが食べたいのか」
「黙らせるならもっと手っ取り早い方法がありますよ?」
「君にかかった催眠を解いたところで、またさくらにかけ直されるだけだ。そのたびに君の心には負担がかかり、いずれは精神が壊れることになる。……そんなの御免だ。仮にそうなるとしても俺の目の届かないところで頼むよ」
「やさぐれてますねぇ、ホント。ん、おやおや電話が来たみたいですよ」
当然のようにポケットから俺のスマホを取り出した花灯が、画面をこちらに向けてくる。
このところ俺に電話をかけてくる相手といえば、女警官の宮下くらいなものだ。
警察からのモーニングコールとは嫌なサービスだな、と半ば反射的に思ったが――しかしどうやら違うらしい。
風見織姫――と、画面に表示されている。
「…………」
俺は自然と手を伸ばしかけて――そして一瞬、迷った。
織姫とはしばらく会っていない。恐怖があったからだ。
花灯がさくらに操られているように、織姫もまた、俺を追い詰める存在になっているかもしれない。
否。"かもしれない"ではない――織姫に暗示が掛かっていることを俺は既に知っている。
狂った鍵盤の音をトリガーとした思考誘導。それにより織姫はさくらの言葉を俺に伝えたじゃないか。
だから正直なところ、これ以上関わりたくないというのが本音だ。
だから――。
「出ないんですか?」
いつもだったら出るじゃないですか、と不思議そうに首を傾げる花灯。
その表情には、俺が抱く恐怖を見透かし嘲笑うような色があった。
ああ、いいさ。
好きなだけ嗤え。俺はもう、何もかもがどうだっていいんだ。
だから――――。
「手が離せない。……そのうち留守電に切り替わる」
結局、それ以降も何回か着信があったのだが、俺が電話に出ることはなかった。
ただ、花灯が学校に行ったあとに、一件だけ入っていた留守電は聞いた。
電話に出なかった際の、最低限の責務は果たしたという結果が欲しかったのだ。
そうすれば、自分は納得できるから。
残っていたメッセージは十数秒。しかし割合を占めていたのは沈黙がほとんどで、実際に言葉として紡がれたのはたった一文のみだった。
――『明日の午後一時、商店街の入り口で待っている』。
そして翌日の土曜日。
結果から言うと俺は、そのメッセージを無視した。




