番外編『他愛もない短文どもよ』
✿『美原夏野のあだ名』
八月上旬。とあるリゾートホテルのラウンジで、俺は美原夏野と雑談をしていた。
「ギャル美っていうのはどうかな?」
「……何が?」
いきなり意味不明なこと言わないでよ、とでも言いたげな少し不機嫌そうな声音だった。
夏野はいわゆる二重人格というヤツで、今会話している生来の夏野のほかに、俺がこれまで長く接してきたギャルーんとした夏野がいるのだが、先ほど言ったのは彼女に対するあだ名だ。
「いやほら、どっちも夏野だと紛らわしくないかなと」
「そうね。人格の統合はまだしばらく先のことでしょうし、悪くない提案だと思うわ。でもギャル美は嫌よ。なんか、フツーに嫌」
ちなみに補足しておくと『ギャル美』とは『ギャル状態の美原夏野』から来ているのだが、それを伝えたところで彼女が納得することはなさそうだ。
「じゃあ逆に君は? 昔のあだ名とかないの?」
「はっ、あるわけないわ。こう見えても私、友達いなかったから」
「……この話はとりあえず保留にしておこうか」
「ええ、そうね。誰も幸せにならない。でも白雪――今の私には君がいる。君が私を幸せにしてくれれば何も問題ないと思うのだけれど?」
「ああ……そうだね」
✿『冬馬白雪の衛生観念』
六月上旬。桔梗高校の生徒会長であり大企業風見グループのご令嬢であられる風見織姫が家出をして、俺の生活拠点である洋館に居候し始めてから数日経ったある日。
「あっ――」
プチトマトを、落としてしまった。
なんてことはない。夕食で出てきたサラダに添えられていたものを箸で掴んで口に運ぶ途中、つるっと滑っただけ。
「おや」
床に転がり落ちたそれを、共に食卓を囲っていた織姫が目で追う。
「ごめん」
「私はただ盛りつけただけだし、気にしないでくれ。次からは半分に切ろうか。あれだね、ラーメンに入っている煮卵なんかも、半分に切られていなかったら非常に食べ辛いからね」
「里芋やウズラの卵なんかもね。っていうか織姫先輩、ラーメン食べるんだ――、と」
プチトマトを拾い上げる。
「君は私を何だと思って、って――キミキミ」
「ん?」
「いやいや冬馬君、さすがに床に落ちたものをそのまま食べるのは、どうかと思うな?」
「…………」
俺はふと、無意識のうちに口元に寄せていたプチトマトと見つめ合った。
どうも悪い癖が出てしまった。
昔は何かを食べられるだけマシだったから、床に落ちたものとか気にしなかったのだ。
無論、今は違う。
その後プチトマトは洗って食べた。
✿『琴平花灯の推し』
『推しが炎上しました』
「え?」
『推しが炎上したんですよ!』
八月中旬。琴平花灯からふと、そんなことを電話越しに言われた。
「推しって?」
『ほら、以前話したじゃないですか。『アザレア』ですよ』
「なんだったかな、最近売り出し中の高校生アイドルだっけ?」
『それです! なんですけど……その子、生配信中にちょっと失言をしまってですね、悪意のある記事とかに煽られて……それで』
「なるほど。誹謗中傷に晒されていて、ファンである君も悲しいってわけだ」
『ええ、まあ……こういうときってどうしたらいいんでしょうね……すみません、この悲しみを誰かに伝えたくて変な電話しちゃいました……』
「少しは気が楽になった?」
『ええ……多分』
「なら彼女にもそうしてあげればいいさ。きっと花灯の言葉なら、『アザレア』の力になってあげられると思う。大切なのは共感だよ」
『……はい、いちファンとして、彼女を支えてあげたいと思います。ありがとうございます』
花灯の声は静かだったけれど、強い意志を感じた。
そして後日。
『あの……『アザレア』のことなんですけど……』
「また何かあった?」
『いえ、あのあとわたしなりの言葉をSNSで送ったんですけど……実はそれがすごく彼女の力になったみたいでですね』
「それはよかったね」
『それで本人からお礼のダイレクトメールが来たんですよ』
「それはとてもすごいこと、だよね?」
『はい……で、どうも彼女、わたしが送ったようなメッセージをくれたファンに個別にお礼をしていたみたいで……それがファン格差とか差別だとか言われて、また炎上しちゃったんですよ!』
「え……えぇー……」
『もー、わたしどうしたらいいのか……ふへははは……』
今回はかける言葉が見つからなかった。
どうも炎上気質の推しを持つと気苦労が絶えないらしい。
俺もネットには気をつけよう……。
✿『七瀬七海の今後』
八月上旬。リゾートホテルでの出来事。
退院した空野六花が俺たちより一足先に水波町に戻る当日。
夏野がその見送りに行ってしまったので一人時間を持て余していた俺は、道すがらに黄昏ている七海を見つけた。
「何か悩みごと?」
「まあ」
話しかけてみたが、七海は依然としてぼーっと外を眺め続けている。
「俺でよければ話を聞くけど」
「いえ、あなたに話すことでは……」
「一人で抱え続けても、答えが出ないことだってある」
「別にそこまで深刻な悩みってわけではないのだけど……」
呆れるようにため息を吐いた七海は、その悩みとやらを話し始めた。
「果たして、今後私はまともな恋愛とやらができるのか――と考えていてね」
「というと?」
「そのままの意味よ。私が好きになった男の人――八木原先生は行方知らずで、高砂くんは、ほら?」
「でも君はまだ楓のことが好きだ。あいつが何年も牢屋に入ることはないだろうし、選択肢は残されて――」
「いえ、そういうことではなくて。高砂くんは二年前からずっと、私の姉である汐音のことを想って生きてきたわけでしょう? それが恋心かどうかはともかく。で、姉も今回のことで彼の存在を大きく感じている。……つまり、姉に取られる可能性が高いのよ」
なるほど、と思わず納得してしまった。
しかもだ。
「一応楓は楓で織姫先輩のことが気になっていたはずだけど……」
「でもその会長さんはあなたにゾッコンじゃない。とんだ泥沼ね。私たち」
「……」
結局俺も、七海の隣に座って物思いに耽ることとなった。