24話『温もりを君に 二人で手を繋ごう』
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「――お久しぶりです、冬馬さん」
背後から聞き覚えのある気怠そうな声が飛んできた。
俺は振り返り、驚きと共にその名を呼ぶ。
「ッ、高梨⁉ アンタは死んだはずじゃ……」
「あれは私の偽装よ、白雪」
さらに響く声。
いつの間にかそこには、もうしばらく会えていない桐野江涼子の姿があった。
「涼子さん……! 今までどうしてたんだ! ずっと連絡が取れなくて俺……俺は……」
「疑わせてしまってごめんなさい。ずっと一人でホワイトキラーを追っていたの。わざと自分が疑われるようにして、情報を広がり方を見てたのよ」
「そう、だったのか。謝るのは俺のほうだ……涼子さんだって家族を殺されたのに、信じ切れなくて……」
「気にしないで。それより決定的な情報を掴んだの! ホワイトキラーの正体が分かったのよ! さあ、こっちに来て!」
暗闇の中――扉が現れた。
「ぁ……」
この先に行けばホワイトキラーの正体が分かる。
もう涼子さんを疑わなくていいんだ。ほかの誰も疑わなくていいんだ。
俺の復讐も、やっと――。
「ッ――!」
覚悟を決めて扉を開くと、そこに在ったのは暗闇だった。
うっすらと見えるのは天井。この風景を知っている。ここは間違いなく、洋館のリビングだ。
「……ゆ、め?」
頭がぼんやりする。これまで見ていたのは夢、なのだろうか。
そういえば、昨日は夏野と電話で話をしていて、その安心感から眠くなってこのソファーで仮眠を……。
「――白雪」
不意に、記憶を呼び起こす声が聞こえた。
ぼんやりとしたまま頭を動かすと、視界の端に光が映りこむ。
光――それは月光を浴び、魔法のように光を纏った白銀の髪だ。
その持ち主を、俺はたった一人しか知らない。
「さ、く……ら……」
名前を呼んだが、思ったように声が出ない。出そうと思っても力が入らない。
意識は覚醒しない。時間の感覚がなく、自分がどこにいるのかもあやふやになっていく。
それでも――さくらはもうこの世にいないことだけは、はっきりと理解していた。
だからこそ判別できてしまう。
これが、夢なのだと。
「夢……か……」
だけどせめて、もう少しその顔を見ていたい。声を聴かせてほしい。
心の中でそう念じていると、夢の中のさくらはその端正な顔をゆっくりと近づけてこう囁いた。
「白雪――時は近い」
ぼんやりした意識にすっと沁み込むほど優しい声で、さくらは言葉を続ける。
「ホワイトキラーとの決着をつけてくれよ。絶対だ。ヤツを否定して、拒絶して、必ず裁きを下すんだ。――頼んだぞ、白雪」
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目蓋を開けると、すでに夜は明けていた。
空は相も変らぬ曇天模様だ。カーテンを閉めずに眠りこけたおかげで、灰色の光が網膜に毒で仕方ない。
「まさか夢の中で夢を見るなんてね……」
おぼろげだが夢のことは覚えている。
涼子さんと、さくら。どちらもきっと俺の願望の現れだ。
「涼子さん――」
すぐそばのテーブルに置かれた資料と写真に目を向ける。
資料は富樫健三の事件を調べた結果だが、正直あまり芳しくない。
いや、情報自体は、ネットや風見グループを介した興信所などを頼り、思いのほか簡単に手に入った。
それでも芳しくないとはつまり、得られた情報が俺の意に沿うものではなかったのだ。
俺の両親は法の手が届かない犯罪者から金を奪い返すために詐欺を働いていた。
というのは詐欺師である父の言い分なので信用できないが、いずれにしても両親は数年前、富樫健三から大量の金を巻き上げた。
順風満帆な暮らしをしていた富樫はそれですべてを失い、果てに精神を病み、俺の両親を殺すことにした。
計画的ではなく、衝動的な犯行だ。
そうして説得も交渉も通じない狂人となった富樫を止めるには、当時冬馬夫妻をマークしていた警官が射殺するしかなかった。
その警官の名前は桐野江浅見――そう、涼子さんの夫だ。
これが、俺にとってはあまり良くない、望ましくない情報。
真実には近づいただろう。
だが富樫を調べたことで、結局はまた涼子さんに行きついてしまったんだ。
「はあ……」
ため息一つ。それで思考を切り替える。
桐野江浅見による犯人射殺は警察内部でも世間でも問題視された。
その結果彼は自殺に追いやられ、一方で冬馬夫妻も一度は事なきを得たが、この件がきっかけで警察の注目を集めてしまい、逮捕されるに至った。
これが富樫健三の事件の大まかな流れだ。
実のところ、俺はこの一件を知っていた。
テレビで見たのか、あるいは両親から直接聞かされたのかは不鮮明だが、俺はこれを、既に完結した出来事として記憶していたのだ。
だから思い出せなかった。
反対に今回初めて知ったことは、富樫には当時、大学に通う娘がいたということ。
――名前は伊織。
彼女は事件後、父の一件と財産を根こそぎ失ったことで何年も苦しい生活を続けたという。
確かに冬馬夫妻――引いてはその息子である俺に恨みを抱いても不思議じゃない人物だ。
そして涼子さんも、俺の両親が関わった一件で夫を失った。
正しい選択を、最善の選択をしたのに――お前は間違っているとレッテルを貼られ、迫害され、その果てに命を絶つことを選んだ。
これらの情報をまとめると一つの仮説ができる。
富樫伊織と涼子さんが共謀し、冬馬夫妻への復讐として俺に精神的苦痛を与えているという――つまりはホワイトキラー=富樫伊織説だ。
当然、まだこれは結論じゃない。
粗なんていくらでもある。むしろ破綻してほしい仮説とさえ思っている。
鍵となるのは動機だ。
例えホワイトキラーが富樫伊織だったとしても、それに協力している涼子さんにはまだ、俺を憎む理由はあっても十七夜月さくらとその両親を殺す動機が見つかっていない。
動機の有無――それこそがこの仮説の証明に繋がる。
「…………」
涼子さんは、俺に十七夜月家という居場所ができるきっかけをくれて、それが失くなったあとも保護者として俺を引き取ってくれた。
知ってしまった以上はどうしたって考えてしまう。
彼女が俺にここまでしてくれたのには、どのような理由があったのだろう。
そこには一体、どんな感情があったのだろうか――と。
資料の横に置かれた五枚の写真を一瞥して、再びため息を吐いた。
時計を見ると時刻は午前八時。
そろそろ外出の支度をしなくてはならない。
今日は八月三十一日――高砂楓と七瀬汐音の釈放日だ。
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大まかな流れは前回――琴平陽光のときとほぼ同じだ。
場所はとあるホテルの地下駐車場。
風見グループの人が、両家の家族が揃っているこの場所に二人を連れてくる。
マスコミの目から逃れられるここへ。
理由は一つ。釈放された二人が自宅に帰らないからだ。
七瀬汐音はこの町を離れる。
積み重なったトラウマを治療するためにどこか遠くの医療センターに入るとのことで、家族もそれに付いていく――と、隣にいる七海が話してくれた。
楓ももう、桔梗高校に来ることはない。
車内で待機している両親曰く、とりあえずは水波市を離れて母方の実家に身を寄せるらしいが、海外に行くことも考えているようだ。
つまり俺がここに来たのは、出所祝いの言葉を送るためではなく。
別れの挨拶をするためだった。
「あ……来たみたいね」
――黒塗りのハイエースが一台、駐車場に入ってきた。
計画では二人を乗せた後、マスコミを撒くために別の地下駐車場で車両を変える手筈だ。
それがあの車。間違いない。
ハイエースが俺と七海の近くで停車すると、扉が開いて中から楓が姿を見せた。
「……よっ。悪いな、ここまでしてもらってさ」
「謝るくらいならありがとうって言ってくれ」
「そうだな。……ありがとう」
思えば、彼は俺の数少ない男友達だ。
人助けが趣味で、好青年で、青春バカで、自分の信念を貫いた男。
そんな愛すべき友人は今――一部民衆から批難を受けている。
――駄目だ。今はそんなこと考えるな。
そう思っても、思考は頭の片隅で勝手に走り続ける。
紙面では楓と汐音を無罪にした裁判官への批判、それを利用した政治批判がおこなわれている。
マスコミの張り付きも尋常じゃない。
ニュースでも遠慮なく取り上げられて、二人の家族、同級生などに強引に話を聞き、議論を展開することだって普通にある。
そうすれば、注目を集められるから。
「先輩、中に汐音さんがいるんで、話してあげてください。って、俺が言うことでもないですけど」
「え、ええ。……そうね」
楓と入れ替わるように、七海が車内に入る。
その間にも思考は途切れない。
ネットも、SNSやニュース記事のコメント欄では心無い言葉が飛び交っている。
それだけでなく実名、年齢、住所、学校――交友関係から人柄など残酷なまでに正しいものから、虚飾に彩られた偽物までが晒されている状況だ。
誰かが面白半分で扇動した悪意が膨れ上がって、集団心理に影響を与えて、一部では二人に実刑――それも死刑にするべきだという署名までおこなわれた。
「眠れてないみたいだね」
「え?」
「目の下にクマがある。それに肌も少し荒れ気味だ」
「……相変わらずよく見てんな」
楓が苦笑いをこぼしながら言う。
「時間が経つにつれてさ、あの男――神無月が夢に出てくるようになったんだ」
「そっか」
胸糞悪いなんて話じゃない。中には二人が人を殺したという事実だけで誹謗中傷をする奴だっている。
汐音が強盗に巻き込まれ、地震に巻き込まれ、その極限下で突きつけられた選択を。
楓が誘拐され、監禁され、拳銃を向けられ、その極限下で突きつけられた選択を。
何も知らないまま、"お前は最低最悪の許されないことをしたんだ。だから死ね"と言う連中がいるんだ。
「多分、これが罰なんだろうな。そのうちメシ食ってるときとか、好きな曲聞いてるときとか、誰かと笑い合ってるときにも思い出して、嫌な気持ちになって――でもこれでいいんだ。この気持ちに抗わないことが、少なくとも、今の俺にとっての贖罪の一つだと思う」
「……そっか」
裁かれる人がいる。裁かれない人がいる。
それに納得できない人がいる。公平ではないと、正しくないと声高に叫ぶ人がいる。
なら――その善悪の天秤の、公平さを決めるのは誰だ? なんだ?
くそ、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
俺は今、楓と話しているんだ。なのに頭の中じゃあ余計な思考が空回りし続けている。
思考の波に溺れそうだ。
黙れ。静まってくれ。俺はこれ以上、何も考えたくは――。
「――なあ冬馬。俺はお前と出会えてよかったと思ってる。入学式の日にお前に声をかけなければ、なんて思ったことは一度もない。今日はそれを伝えたかった」
「ッ――」
そうだ。俺がここにいるのは、大切な友人を笑って送り出してやるためだ。
楓のその言葉が、冷静さを取り戻させてくれた。
目的を、やるべきことを見失うな。
「……楓、俺も同じ気持ちだ。君は大切な友人だよ。ははっ、だから一つアドバイスだ。七瀬姉妹としっかり手を繋いでおくといい」
「……ん? あー、まあ、覚えとく。ってかそうだ、冬馬! お前、会長のこと泣かせんじゃねえぞ!」
「あ、まあ……うん。きちんと誠意を持って真摯に対応するよ。約束する」
「なんか腑に落ちねぇ返答だな……ま、そろそろ時間だ。名残惜しいがこれでしばらくお別れ――」
「すみませーん! ちょーっといいですかねぇ!」
知らない男の声。俺と楓はとっさに振り返り、声が聞こえた方向に目を向けた。
脳裏をよぎったのはマスコミ。
しかしこちらに早足で近づいてきたのは、スマホを片手に持った大学生くらいの若い男だった。
「ども! スマイル動画で活動してる墓穴チャンネルのボーンって言いますー。そちらの方に用があるんですがお話いいっすかねぇ? あ、今ライブ配信中なんですけどー」
「……楓、乗れ」
男を無視して俺は後部座席の扉を開けた。
「悪い」
「ちょっとちょっと! 逃げんのかよ!」
「ナンバーを見られてるだろう。途中で車両を変えてもらって」
車内にいる楓たちに念のための指示をする。
気持ちのいい見送りとはならなかったが、充分だ。
扉を閉めようとした束の間――楓が真剣な表情で言った。
「冬馬――勝てよ。ホワイトキラーに」
「――ああ」
またな、と言うこともできたはずだ。
それでも彼が最後に選んだその言葉を、その想いを、俺はしかと受け止めた。
「あーあ、行っちゃった。君、関係者だよねぇー。代わりに話聞いてもいいっすか」
まずはこの墓穴チャンネルのボーンとかいう男が、どうやってこの場所に辿り着いたのか。
情報を漏らしたのが誰なのか――それを明らかにさせてもらうとしよう。




