8話『その手を伸ばすことさえ』
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美原夏野が、いじめられていることが発覚したその日、結局約束していたスイーツ店への突撃は延期になり、俺たちは連絡先を交換して帰宅することにした。
全身ずぶ濡れでジャージも使い物にならない夏野には俺のジャージを貸し、着替えてもらった。
一方で夏野の苦しみを少しでも和らげるために自分も水を被るという不器用な真似をした俺は、替えの服もないのでそのままの姿で帰ることに。
途中、道行く人からは好奇の視線を向けられたがそこはそれ。
このことは誰にも話さず墓まで持っていく所存だ。
そしてその日の夜。
あらかじめ連絡先を交換していたことで友達登録されていたメッセージアプリを通し、俺は夏野から事情を聞くことにした。
古典的ではあるが、誰かに話を聞いてもらうことで多少なりとも気持ちは楽になるものだ。
何がどうしてこんなことになってしまったのか。
俺はそれを知り、理解しなければならない。彼女を助けたいから。
夏野からメッセージが来た。
例のギャルっぽい口調ではなく、いたって普通の女の子らしい文章。
たどたどしいところもあるが、それでも心の痛みと戦いながら、俺に事情を伝えようとしているのが分かる。
すべての始まりは夏野がまだ一年生のとき。
夏休み、内気で人見知りだった彼女は友達と呼べる友達もほとんどおらず、灰色の毎日を過ごしていた。
そしてとあるきっかけがあり、こう思ったそうだ。
自分の見た目を変えれば、控えめな自分をもっと輝かせることができるかもしれない。
そうして彼女はいわゆる夏休みデビューを果たした。
地毛の茶髪はそのままに、手入れの仕方を変え、爪や肌を意識するようになり、化粧も覚えた。
ギャル語も勉強したらしい。主にネットで。
新学期――見違えた彼女は人目を惹くようになった。
どこにでもあるクラスカースト――その底辺に近かった夏野は、一気に上位に食い込むようになったのだ。
それは良くもあり悪くもあることだった。
人間は劇的な変化を本能的に嫌う生き物だから、出る杭が打たれるように、そうなるのは当然の帰結と言えたのかもしれない。
急に人気者になった夏野の存在。
それがカーストトップの女子、女王蜂ともいうべき七瀬七海の目に留まった。
要は、それまで自分一色だった世界を夏野に奪われそうになった嫉妬なのだろう。
いわゆる『調子に乗っている』という理由で、夏野は影で小さな嫌がらせを受けるようになった。
だが一度はその嫌がらせも止まることになる。
というのも、夏野に告白をしてきた男子がいたのだ。
名前を田中直紀。夏野から印象を聞く限り、冴えない眼鏡男子といったところか。
彼は以前の夏野と同じくクラス内で弱い立場にあるカースト弱者らしく、その告白も『罰ゲーム』という理由があった。
そんな事情を知った夏野は、田中を以前の自分に重ねて、どうにか助けたいと思った。
だから告白を受けることを決めた。
とはいえそれは正式な恋人になるということではなく、『あくまで友達同士の距離感を保ってくれるなら、恋人になったフリをしてもいいよ』ということ。
田中はそれに同意し、それから体裁を気にした交際がスタートした。
その後、田中と付き合ったことで七瀬から『カースト底辺と付き合う女』といった具合の評判を流された結果、周囲の環境が逆戻り。
しかしそれにより小さな嫌がらせもなくなり、それなりに平和な日々が続いたのだという。
田中とはたまに一緒に映画を見に行くくらいの距離感で、プライベートでは互いに深く干渉することはなかったらしい。
平和な日々。しかし以前とさほど変わりない灰色の日々。
そんな生活はある日、突如として崩れることになる。
冬休み前、田中から二度目の告白をされた。
しかしそれは愛の告白などではなく、自分は七瀬七海の指示で美原夏野に告白し、その評判を下げるために付き合うのが目的だった。という旨の話だった。
あらかじめ決めていた交際期間は冬休みに入る前まで。
つまり――『好きでもない女子に告白し、仲良くなったところでこっぴどく別れろ』。
それこそが田中に与えられたカースト上位者からの命令であり、目的だった。
だが、その話には続きがあった。
なんと田中は夏野の優しさに触れて、彼女のことを本気で好きになってしまったらしいのだ。
曰く、彼はその日、こう言ったらしい。
――これから七瀬に、もう美原さんをいじめないよう直談判してくる。
なんだ、まるで物語の主人公のようではないか。
夏野は予感した。自分が夏休みデビューを果たしたように、田中にも一つの転機が訪れたのだと。
だが、しかし事態は急転する。
突如として七瀬によるいじめは再開し、手段はより直接的になり、そして――田中は夏野から離れ、救いの手を差し伸べてくれることはなかった。
あろうことか、田中直紀は美原夏野を裏切ったのだ。
そこにどのような事情があったのかは知らない。
少なくとも夏野は、自分を好きだと言ってくれた男子のその行動を気にしてはいるが、責めるつもりはない。
変わるべきは自分で、失敗したのも自分だと、夏野は思っている。
それが、彼女から聞いた話のすべて。
そして翌日――四月九日、金曜日。
俺は朝一番で、田中直紀に会うことにした。
相変わらず寝不足ではあるが、眠気よりも先に心を支配しているものがある。
しかしひとまずは冷静に行動するべきだ。
田中の教室は夏野と同じ二年一組。だがこの時間帯では、昨日教室にいた生徒や見張り役だったやつもいるだろう。
だとすれば今、下手に接触するわけにはいかない。
なら方法は一つ。
俺は田中の下駄箱の位置を確認し、そのまま昇降口付近で待ち伏せすることにした。
これなら相手の顔を知らずとも問題はない。
そして待つこと十分。狙いの下駄箱に手を付ける男子が現れた。
黒縁眼鏡に垢抜けない印象――何かに怯えてるように視線がふらついている。
間違いなく彼だ。
「――君、田中直紀だよね。ちょっといい?」
「……え? う、うん、そうだけど」
「一年の冬馬だ。夏野のことで話がある。今話すのと、昼休みに呼び出されるのどっちがいい?」
俺は強引に迫る。
簡単な二者択一法だ。今話すか、後で話すか。選択肢を絞ることで、『俺と話さない』という考えを排除する。
そして彼の性格からして、昼休みに一年に呼び出されるなんて目立つことは嫌うはず。
「み、美原さんの? …………じゃあ、今で」
作戦成功。
「じゃちょっとついてきて」
俺は、昨日夏野と出会った屋上に彼を案内した。
あらかじめ昨日から扉が施錠されていないことは確認済み。
ここなら誰にも話を聞かれずに済む。
「呼び出して悪いけど俺は今、かなり怒ってる。細かい話は抜きだ。事情は知ってる。俺が聞きたいのは、君がなぜ夏野を裏切ったのかだ。嘘は通用しないぞ。正直に答えろ」
「え……いや、……その……。そ、そもそも、君、誰? 美原さんとはどういう……?」
田中は明らかに怯んでいる。
ダメだ。これじゃあ埒が明かない。
「細かい話は抜きだと言った。二度目だぞ。いいから話せ。なぜお前は夏野を裏切った。どうして夏野が好きなのに、助けを求める彼女を見捨てた。答えるんだ」
「な――何なんだよ、君は! いきなり出てきて! 僕と美原さんの何を知ってるって言うんだ!」
「ああいいぞ、そういう声も出せるんじゃないか。だが細かい話はしない――これで三度目だ。いいか、夏野は今日学校には来ない。なぜなら昨日、七瀬七海によってトイレの個室に閉じ込められて大量の水を浴びせられ、風邪を引いたからだ!」
「あっ――――な、なん……」
「――さあ、答えてみろよ」
夏野が受けたいじめの一端を知り、すっかり放心状態になった田中。
こうなればさすがに話すしかないだろう。
久々に剥き出しの感情で他人を傷つけたことを自嘲しながら、俺は彼の言葉を待った。
「……仕方なかったんだ」
「……」
「全部を七瀬に話して、美原さんにはもう何もしないでくれって頼んだ。でもあいつはそれに怒って……」
当然だろう。
敵軍に潜り込ませた自分の駒が、目的を果たして帰ってきたと思ったら、すっかり敵に肩入れして、それで見逃してくれと言ってきたのだ。
七瀬七海はプライドが高い。そんなことは絶対に許さないだろう。
それに彼女ならば、夏野が田中を利用し自分をコケにしようとしていると勘違いしても不思議じゃない。
捻くれた思考だが、俺が同じ立場なら可能性の一つとして考えるだろう。
――正直なところ、ここまではすべて予想通り。
だが俺は聞きたい。この男の口から、一体何を思って好きな人を裏切るなんて行為ができたのか。
手を伸ばせば届いたのに、どうしてそれをしなかったのか。
「……お、脅されたんだ。これ以上美原さんに関わるなら、ほかのクラスの不良にサンドバッグとして紹介するって……。でも、美原さんを裏切って七瀬のパシリに戻れば、それ以上は何もしないって……」
「それで?」
「そ、それで……って?」
「自分を守るために夏野を差し出したのは分かった。けど、お前はまだ夏野のことが好きだ。ならどうして守ってやらない」
「だ、だから仕方ないだろ……! 僕みたいなカーストの底辺はカースト上位の人間に逆らえないんだ。勉強もスポーツもそこそこ止まり。周りの人間はトップにうまいこと言いくるめられて、結局こっちが少数派にされて。……どんなに、文句言っても僕の言葉じゃ誰も動かせない……文句を言う権利すらないんだよ……!」
「なら同じことを夏野に言えよ」
「…………っ」
田中は崩れ落ちる。惨めだ。哀れだ。だが――俺もかつてはそうだった。
俺がこんなにも彼に怒りを覚えるのは、いわゆる同族嫌悪なのかもしれない。
「そもそもこんなこと始めた七瀬たちが悪いんじゃないか……」
絞り出すような声で、彼は言う。
確かに、自分一人の力ではどうにもできないことだってあるだろう。
弱者の意見は黙殺され、意志は淘汰され、存在は無かったことにされてしまうだろう。
スクールカースト――そんな言葉が日本でも広まって、学生はより格差に縛られるようになったと思う。
だけど、息の詰まる教室から目を逸らして、窓を開けて空を見上げてみるんだ。
案外世界は広くて、案外教室は狭い。
そして一度冷静になれ。
スクールカーストは、好きな人を見捨てる理由にはならない。なってたまるか。
「確かにお前は周りの人間を動かせないかもしれない。それでも手を伸ばせば、少なくとも夏野は救われたはずだ。だが結局は保身を選んだ。夏野を何よりも傷つけたのはお前の裏切りなんだよ。そんなお前に、彼女を好きでいる資格なんかない」
「…………………………」
田中はそれ以上何も言わなかった。
お前に僕の気持ちを決めつける権利なんてない、くらい言い返してくればいいのにと思うが、そんな度胸があればこんなことにはならなかっただろう。
けれど人は失敗から学び、成長する。
この男にも再起のときがくるはずだ。
そこで重要なのは、一度の失敗で次への道を奪い取らないこと。
そのためにも七瀬七海の独裁は止めなければならない。
プライドが高く、思い込みの強い彼女を手っ取り早く潰す方法――。
「最後に一つ。七瀬七海のスマホの機種知ってる?」