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19話『それはきっと、特別なちゅー』

 茜色の光がカーテンの隙間から差し込む室内。 

 鼻をかすめるのはシンプルで清涼感のある石鹸の香り。


 ああ――そういえば"彼女"は、いつもこんなにいい匂いを纏って俺の前に現れる。


 冷たく鋭い目をした夏野と見合いながら、俺は改めてそう思った。


「――こんなことをしてどういうつもり? まさか私を起こすためにやったの?」


 低く、押し殺すような声。明らかに俺に対して敵意を持っている。

 それも当然か。


 俺がおこなったのは美原夏野(みはらなつの)を、その精神を縛る鎖を、より強く引き締める行為。

 敵意を持たれるのには充分すぎる行為だ。


 ――けれど。

 

「それは違うよ。これは夏野がトラウマを乗り越えるために必要なショック療法だ」


「……」


 無言の眼差しが"続きを話せ"と訴えてくる。


「辛い記憶を乗り越えるために必要なことは、それ自体を忘れることじゃなく、今の自分にとって平気なモノだと思えるようになること。だから俺は敢えて夏野のトラウマを刺激したんだ」


 薄暗い空間、密閉され、息苦しく、身動きの取れない体――。

 当時の状況を再現することで、目蓋を閉じた夏野の精神を、神無月(かんなづき)によって監禁されていた七月一日にまで逆行させた。


 それがトラウマを乗り越えるのに必要な第一条件なのだ。


「起きてしまったことを、なかったことにはできない。でも認識を変えることは可能だ。手錠は簡単に外れる。外には簡単に出れる――そうやって危険がないことを刷り込み、夏野の中に芽生えた恐怖心を摘み取る。それが俺の目的だよ」


 それに俺が干渉しなくても、トラウマを鮮明に思い出し、自分にとってどの部分が傷になっているかを理解することで克服できる場合だってある。

 客観性の獲得というやつだ。


「分かってもらえたかな」


「――そう」


 話を最後まで聞いてくれた夏野は僅かに顔を逸らして、馬乗りになっていた俺の体から降りた。


「あの子はもう大丈夫なの?」


「神無月が目の前で撃たれたことについてはまだだけど、それ以外はおそらく。自信はある」


 俺が立ち上がりながら答えると、夏野は背を向けたまま数歩遠ざかり、肩にかかった髪を払った。

 どうやら彼女としても、ひとつ気が楽になったようだ。


 しかしそれが意味するところは、ともすれば俺にとっての不都合に繋がってしまう。


「そういうことなら、私が起きている理由もないわね。この体はあの子にあげるわ。あの子と君で好きに使って頂戴。それじゃあ――」


「ちょ、っと待った……!」


 とっさに夏野の腕を掴んだ。


 案の定だ。

 まだ目覚めて五分も経ってないけれど、彼女にしてみれば心配事がなくなり気兼ねなく眠りにつける絶好のタイミング――しかしここで"はいそうですか"と認めるわけにはいかない。


 "美原夏野"が乗り越えるべき痛みは、神無月関係のものだけではないのだから。


「君が目覚めたのは想定外だった。でも予定外ではないんだよ!」


「はあ?」


「君と会いたかった。会って、話がしたかったんだ! まだもう少しだけ俺のそばに居てくれないか……!」 


 とにかく夏野を眠らせたくない一心で、必死に想いを伝える。

 

「は、はぁ――⁉ な、なんてこと言って――」


 すると、声を荒げた夏野は力強く俺の手を振り払って、また数歩離れては身を守るように腕を組んだ。

 顔を逸らして、意地でも目を合わせてくれないが、案外悪い反応ではない。


 今度はそのまましばらく無言でいると――、


「ま、まあ」


 沈黙に耐えかねた夏野が先に音を上げた。


「いいわよ。どうせこれが最後なんだから、小話の一つや二つ聞いてあげようじゃない」


「ありがとう」


 言うべきことはすでに決まっている。


 夏野自身が自負しているように、きっと優しく遠回しに言っても彼女には伝わらないだろう。


 心や感情に鈍感――だったら鉄を熱し、激しく打ちつけるように遠慮なく、直球で。


「早速だけどさっき――空野六花(そらのりっか)と話をしてきた」


「――」


 はっきりと、夏野の雰囲気が変わった。

 先ほどの警戒態勢と同じ、それに加えて、まるで天敵と相対したかのような恐怖も見える。


「君に会いたがっていたよ。彼女は、明後日には――」


「待って、それ以上は言わなくていい。六花とは会わない。それがきっとお互いのためよ」


 俺の言葉を遮って夏野は早口に言い切った。

 だが俺はこんなところで終わらせたりしない。まだ何も、話は始まってすらいないのだから。



「彼女と会えるのは、おそらく明日が最後だ」



「っ――」


「君は本当にそれでいいのかい?」


「いいのよ――だからもう、私は何も知らないまま眠りたい」


「なら六花の気持ちは? 彼女はきっと悲しむ」


「それは――そんなの、知らないし分からない。私は心に鈍感で、ましてや他人のことなんて――」


「いいや、そんなことない」


 自らを卑下するように夏野は言うが、それは誤解だ。間違いだ。すれ違いなんだ。


 二か月前、俺はそれによって夏野を傷つけた。

 俺の抱えた事情を話せば、巻き込んでしまうと思った。後悔させてしまうと思った。


 でも今は違う。同じ過ちを繰り返してたまるものか。


 絡まった糸を丁寧に解いていくように、けれども目を逸らしてはいけないと突きつけるように――、


「君にはちゃんと笑って、泣いて、誰かに優しくできる心があるじゃないか」


 ――俺は真実を伝えた。


「え?」


 一歩、夏野のもとへと踏み出す。


「君は、もう一人の自分のことをまったくの別人格だと思っているね? でもそれは誤解だ」


 言葉を重ねるのと同時に歩みを進めて、彼女の前に回り込む。

 これは、正面から向き合ってほしいことだから。


「解離性同一性障害は解離した心に人格が宿ることを言う。けど、その解離した感情も元を辿れば自分のもの。別人格は決して他人なんかじゃない。その人が持つ別の側面であり、その人から生じた願望、想い――こうしたいという理想でもあるんだよ」


「何を、言って――」


 戸惑う声、表情。

 どうしたって、夏野は逃げるようにして体を逸らし、意地でも目を合わせてくれない。

 それでも俺は――手を伸ばして、彼女の両肩を掴んだ。



「つまり君も、もう一人の夏野も、同一人物なんだ。だから君にはちゃんと心がある。苦しむ自分を見過ごせずに出てきた君が、悲しみを恐れて六花と会いたくない君が――ちゃんと存在しているんだ」



 慈愛も悲哀も感情がなければ発生しない。

 彼女が今ここにいること自体が、心の証明になるのだ。


「仮にそうだとしても――」


 夏野が横に目を逸らすことはなかった。今度は下。俯いて、目を閉じている。


「それなら余計に六花とは会えない。また彼女と別れてしまったら、自分がどうなるか分からないの! 先が分からなくて、どうしたらいいのか不安でたまらない――!」


「なら俺が支える。君が俺の欠けた部分を埋めてくれたように、俺も君の不足しがちな部分を補って、一緒に歩くよ。君一人に悲しい思いはさせない。絶対に――」


 息を呑む音が聞こえた。

 それから数秒の間を置いて、そっと夏野の閉じられた目蓋が開かれる。

 

 やっと――視線が重なった。


 生まれたばかりの赤子のように、触れた感情に怯え、戸惑い、涙を流そうとするその姿。

 安心させるように、俺は優しく笑いかける。


「苦労なら二人で分ければいい、君が言ったんじゃないか。それに何も伝えられないまま大切な人と会えなくなってしまうのは、心を失くすほどに悲しいことだよ」


「なぜ、そう言い切れるのよ」


「俺がそうだったから」


 ホワイトクリスマスの夜に殺された――愛すべき家族、十七夜月(かのう)さくら。


 何度だって、目蓋を閉じればすぐそこに、その景色はある。

 それほどまでに彼女の存在は、冬馬白雪の内側に深く刻み込まれているのだ。


 いつか、出会ったばかりのさくらが俺に言っていた。

 十七夜月という苗字は、十五夜の二日後に浮かぶ月に祈りを捧げると、願いが叶うという言い伝えがあったから――(かのう)と読むのだと。


 この苗字なら、どんな願いだろうと一度くらいは叶いそうな気がする――そう言ってさくらも、密かな願いを込めていた。


 俺はそれがどういうものか気になっていた。

 でも結局聞けないまま彼女はこの世を去った。


 眩しさに身を焦がすほど特別で在り続けた孤独な彼女が、どのような想いと願いを抱いていたのか――その答えはもう一生分からない。


 その後悔を、絶望を、夏野に味わってほしくない。


「だから行こう。あのとき途切れてしまった君と六花の時間を取り戻すんだ」


「どうして君はそこまでしてくれるの? こんな私に、なんで――」


 それは本当なら、すべてが終わったあとに取っておきたい言葉だった。


 けれど夏野が神無月に攫われたとき、このまま想いを伝えられない未来を想像して、そんなのは絶対に嫌だと思った。


 だから、ここが分岐点だというならいいさ。

 口にしたところで無くなるものじゃない。むしろそれは増していくはずだ。


 一度で使い切ってたまるか。いくらでも、何度でも、より強く、より愛しく言ってやる。


 だからまずは――最初の一回目。

 冬馬白雪(おれ)美原夏野(かのじょ)と向き合って、勇気を持って、心を開いた。




「君が好きだ」




「ぁ――――」


「好きだから、後悔なんてしてほしくない。笑っていてほしい。人格がどうとかそんなことは関係ない。失くした青春を取り戻してくれた君が、何でもない時間を一緒に過ごしてくれた君が、俺を救ってくれた君が、全部をひっくるめた夏野(きみ)が――好きなんだ」


「そんなこと突然言われても困るわよ――だって、だって私は……!」


 一歩、二歩と後ろに下がる夏野の頬には、涙が流れていた。文字通り感情が溢れていた。


「君にこんな面倒な自分を押し付けたくない。きっといつか絶対に後悔させてしまうから、君にはもっとほかの幸せなことを探してほしい! 私よりいい人なんて沢山――」


「それでも俺は、夏野がいい」


「わ、私は……」


 彼女は自分の手のひらを見つめていた。

 きっと気付いたのだろう。


「……そう、私も……」


 俺が夏野に語った想い――後悔してほしくない、幸せでいてほしいという願いを、夏野自身も持っているということに。


 そしてその感情がどういうものか、夏野はすでに答えを持っている。


「これが……好きってことなのね」


「ああ」


 二人して、相手のことを思って距離を取ろうとした。なんて臆病で、面倒な性格なんだと思わず苦笑がこぼれそうになる。

 でも――俺は選んだ。


「俺がそばにいる。だから一緒に行こう」


「本当? 何があっても絶対に、勝手にいなくなったりしない?」


「ああ、約束する」


「言葉だけじゃ足りないわ。その……行動で、示して」


 少し意外な言葉だったが、俺は頷いた。すると今度は夏野のほうから一歩、ゆっくりと俺に近づいて。


 目蓋を閉じて――唇を差し出した。

 

 これは、まさしく誓いだ。俺も夏野も過去に縛られている。痛みがあって苦しみがあって傷だらけで。


「――――」


 でもだからこそ、それをきちんと乗り越えて、胸を張って未来へ行きたい――二人で。


 俺はもう大切なものを何も取りこぼさない。約束だ――。

 そうして、その瑞々しい唇に熱い口づけを、と想像した刹那。



「…………やっぱりちょっと待った。水を差すようで本当に申し訳ないんだけど、今はダメだ。風邪がうつるかもしれない」



 とっさに思い出してしまった。

 薬で誤魔化して、すっかり無かったことにしていたが、俺は本来なら病床に伏している身じゃないか。


「え――なに? 風邪引いてるの?」


「ああ……、まあ……」


 まったくもって不甲斐ないばかりだが、しかしやはり、夏野に風邪をうつすわけにはいかない。


「だからその、それ以外で……」


「……ふーん」


 がっかりした様子を少しも隠さず、夏野はじっとりとした目で俺を一瞥する。

 ため息一つ。

 夏野はおもむろに閉じたカーテンと窓を開けた。


 眩しい茜色の日差しが差し込む。

 ベランダに出た彼女は夕日を背に、いつもの夏野らしい表情を浮かべて首を傾げた。

 

「ねえ――白雪は、ガラス越しのキスってアリな人?」


「が、ガラス越し?」


 アリかナシかで言えば……ナシ、だろうか。

 しかしそれなら風邪がうつる危険性もないだろう。

 先ほどの埋め合わせという意味も込めて、俺はこう答えた。


「夏野が望むなら」


「じゃあ窓閉めるから、そっちに立って」


 流れるように、一枚の窓を隔てて俺と夏野は向かい合った。

 なんだろう。かなり複雑な気分だ。俺は今から夏野とキスをするのだろうか。それともただガラスに口を付けるだけなのだろうか。


 見れば、ちょっと夏野も複雑そうにしていた。

 しかしこれも若気の至り。未知の領域に無謀にも、向こう見ずにも突き進むのだって、おそらくは青春というもの。


 心の準備を終えて、俺たちはゆっくりと顔を近づける。

 あと数センチの距離――ふとその途中で夏野が口を開いた。


 声のないその言葉は――()()()()()()()


 束の間、不意を突くようにして、俺と夏野を隔てる窓が勢いよく開かれた。

 


「――――」

「――――」



 永遠のように思えた一瞬だった。

 触れた唇はほんの少し冷たく、とても愛おしくて、吹き抜ける爽やかな潮風が祝福のようで。


 引き延ばされた時間が戻った直後、沈む夕日を背にした彼女が柔らかい笑みを浮かべた。


「白雪のそういう顔、初めて見た。ふふ、ねえ――私のファーストキスを受け取った感想は?」



「なんか……青春って感じがする」



 特に、後先を考えない感じが――と俺は苦笑しながら返した。

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