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16話『ふたつの影、ふたりの夏』

 夏野を追ってホテルに向かっている途中。

 俺はあの日のことを思い出していた。


『……ウチ、っていうか……美原夏野(みはらなつの)はね、二人いるの……』


 六月上旬に行われた体育祭。盛り上がる舞台の裏側で知ってしまった一人の少女の秘密。


 "彼女"は――どこかアンニュイな表情を浮かべていた。



『――はじめまして、なのかしらね、一応。こうして完全に入れ替わったのは久しぶりだわ。どう、白雪。これが本当の私。ぼっちでアニメオタクでギャルのようなあの子じゃない、私よ』



 自分を見せつけるようにゆっくりと教室を歩くその姿は、目つきや細かい表情、声色に至るまでどうしたって見慣れないものだった。


 これまでの夏野が、喜怒哀楽がはっきりしていて、周囲に優しく気を遣うような等身大の女の子だとするなら。

 今の彼女は少し不愛想で、気を張っていて、他人を気にしない芯の強さを感じさせた。


 二人の夏野。一つの体に、二つの人格。


 解離性同一性障害――DIDと呼ばれるものがある。

 一般的には二重人格や多重人格と言ったほうが聞き覚えがあるかもしれない。


 俺は直感で、それと夏野を結び付けた。


 人格の解離――精神が未熟な子供時代などに、受け止めきれないほどの心的苦痛を覚えた場合、自己を守るためにそのショックを感情ごと切り離してしまうことがある。


 痛みを受けたのは自分じゃない。別の誰かだ、と。


 ある程度の離人感は、日々のストレスなどによって誰にでも起こる可能性がある。

 それが軽度なものであれば時間と共に自然治癒することが多いので、自覚しないまま解消されてしまうことも。



 けれど重度の場合は()()()()()()()()()宿()()――それは解離性同一性障害と呼ばれるようになる。



 自分では果たせない役割を代わりに果たすために、もう一人の自分が生み出されるのだ。


『難しいことはどうだっていいわ――好きに解釈して。とにかくあの子は私からこぼれ落ちた人格で、私とは違う子なのよ。簡単に言えば、あの子は誰かのために泣ける子で、私は泣けないヤツってこと』


 自嘲するような声色で彼女は言った。



 曰く、本来の美原夏野は、昔から自分や他人の心がよく分からない少女だったらしい。



 あるいは意図的に見ないふりをしていたのかもしれない。


 心や感情は面倒だから何に対しても線を引いて。

 友達を作らず、趣味を持たず、何も好きにならず、何も嫌いにならない――そうしてすべてに無関心でいることが楽だから、そういう生き方をしてきたという。


 かつては七瀬にいじめられていることすら何とも思わない自分だった、と。

 


 しかし去年の冬――夏野は一人の少女と出会った。



 車椅子に乗ったその少女は、地面に落ちたストラップを懸命に拾おうとしていた。

 けれど手が届かず、周りの人もそれを見ているだけ。


 夏野はストラップを拾ってあげた。善意ではないらしい。ただ道を通るのに邪魔だったから、と強調された。


 すぐにその場を離れようとした夏野だが、車椅子の少女はそれを引き留めた。


 というのも、当時の夏野は田中直紀(たなかなおき)と交際関係にあるということになっており、彼から貰ったストラップを鞄につけていたのだが、偶然にもそのストラップと車椅子の少女が持っていたモノは、同じアニメに出てくるものだったらしい。


 それをきっかけに、お礼としてお茶に誘われて、詳しくないアニメの話に付き合って、同年代で会話をする相手がいなかったと懐かれて――。

 よりによって私に目をつけるなんて、物好きな子よね、と夏野は悲しそうに笑った。


 車椅子の少女は体が不自由である代わりに、心がとても活き活きとしていたという。


 走れない現実。徒競走で一番になる空想。

 叶わない旅行。修学旅行で最高の思い出を作る空想。

 置いていかれる勉強。勉強会をしてテストで満点を取る空想。


 足りない知識はアニメや漫画で補って。

 いつか学校に通えるようになったときのために、普通の女子高生がどういうものかをよく考えていたらしい。


 そんな少女に、夏野は感化され――変化しようとしていた。 


 水を飲んだとき、心地のいい冷たさを感じた。

 食事をすればするほど、好きな味と嫌いな味を覚えるようになった。

 好きなアニメができた。

 本屋に行く趣味ができた。


 必要ないと思っていた友人を大切に想い。


 モノクロに見えていた景色に色がついて――枯れた心に熱が込められるような感覚があったという。

 

 夢のような楽しい日々だった。


 しかし夢とはいつか覚めるものであり、彼女の場合、それは触れれば一瞬にして弾けてしまう泡沫の夢だった。

 

 ある日病室に会いに行くと、そこに車椅子の少女の姿はなかった。

 沢山あった漫画も、ほかの荷物も。名前が書かれた表札も。


 少女がそこにいたという痕跡すべてが、急に消えていたのだ。

 看護師に聞いても答えは得られなかった。


 呆然としたまま家に帰り、ベッドに横になって天井を見ていると、何となくその考えに辿り着いた。


 ああ、あの子はきっともうこの世にはいないんだ。

 優しい子だから、きっと私を悲しませないように何も言わずに――。


 涙が出た。生まれて初めて、耐えられないほどの悲しみに襲われた。


 そして気付いたら――夏野は涙を流している自分を外側から見ていた。


 こんな思いをするなら最初から出会うんじゃなかった。

 もう何も知りたくない。感じたくない。目蓋を閉じて、深い意識の底に沈んだ。



 そして――眠りについた自分の代わりに、車椅子の少女との時間によって育まれた美原夏野が体を動かすようになった。



 ちゃんとした感情があって、アニメが好きで、普通の女子高生らしい美原夏野(おんなのこ)


 それこそが、俺が屋上で出会った夏野だ。

 七瀬からのいじめに、田中の裏切りに、心を弱らせていた――一人の女の子。


 ある種、何にも流されない強さを持っていた夏野は。

 光輝く心に触れて、感情を知って、弱さを知って――失う悲しみに耐えきれずそれを切り離した。


 が、話はそこで終わりじゃない。


『――君はかつて、大切な人を失った。その気持ちは計り知れないけれど、でもそれを乗り越えようとする君の姿は、少なからず私に影響を与えているわ』


 俺が夏野と出会い、変わったように。


『今もそうだけど、最近私、こうして眠りから覚めているのよ。もう一人の私から伝わってくる君への想いが、"君と一緒なら弱い自分を受け入れられるかもしれない"って思わせてくれるから』


 夏野もまた、俺との出会いで、再び変わろうとしていたのだ。

 それから彼女は腕を組んで、そっぽ向いて、こう言った。


『だから――このままいけば自然と、私たちはうまいこと混ざり合って、ちょっと進化した美原夏野になると思う。君はそれを、受け入れてくれる、かしら?』


 当然だ。俺はそう頷いた。


 そう――やがて二つの人格は自然と一つに統合され、夏野は悲しみを乗り越えることができる。はずだった。



 水波市を遠く離れたこの土地で、例の車椅子の少女――空野六花(そらのりっか)と再会するまでは。



 ホテルに戻ると、ロビーで夏野を見つけた。

 部屋に戻らず、ソファーに座ったまま自分を抱いて小さく震えている。


 俺が近づくと笑顔を浮かべてくれたが、無理をしているのは明白だ。同時に、一つになりかけていた人格が再び解離してしまったこともすぐに判った。



 ()()()()――夏野の剥き出しの心は、『記憶』に押し潰されようとしている。


 クラスメイトが失踪し、殺された記憶。


 神無月秋夜(かんなづきしゅうや)によって拉致監禁された記憶。


 その連続殺人鬼が、目の前で射殺された記憶に――。

 

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