10話『過ぎ行く刻限は、存在証明のために』
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目蓋を開けると不思議な世界が広がっていた。
瞳に突き刺さるほど彩度が高い赤、紫、黄色、オレンジ、ピンク、青、黄緑――様々な色に塗り潰された空間。
自分が今どこに立っているのかも、何を見ているのかも認識できない。
瞳に映る景色の焦点が数秒ごとにズレて、体の感覚はさながら空を飛んでいるようだ。
何も考えられない。ただただ浮遊して、空へと墜ちていく――。
果てのない果てを認識して、俺は幾重にも重なる夢の中で、目蓋を開けた。
「ッ――、ぁ――⁉」
目覚めるのと同時に、脳に鋭い痛みが奔った。
周囲の状況を確認しようと目を凝らすが、一向にピントが合ってくれない。
かろうじて把握できるのは、俺は椅子に座っていて、ここが狭い空間だということ。
おそらく車の中だ。後部座席に俺がいて、運転席に誰かがいる。
窓の外は暗い――もう日が沈んでいる。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ、ここは…………」
心拍が異常に早い。思わず胸を押さえようとして、両手に手錠が掛けられていることに気付いた。
そうだ……俺は神無月と内通していた警官に襲われて、拉致された。
「服薬からおよそ五時間。やっと落ち着いてきたか。気分はどうだ? いい夢が見られたならテストした甲斐があったってもんだが」
フクヤク。なんだ……、なんのことだ?
ふくやく、フくやク、ふクヤク――――くそ、思考がまとまらない!
い、いや……落ち着け。服薬、つまりは薬を飲まされたってことだろ。
あ?
あれ、俺、今何を考えて……?
ダメだ。気を抜くと何も考えられなくなる。
「ッ……なにを……飲ませた……」
全身が熱い。呼吸が整わない。椅子に座っている感じがしない。殴られた頭に時折激痛が奔る。
まるで波だ。思考も痛覚も、まとまる一瞬とバラバラになる一瞬が交互に訪れる。
「名前はまだねぇ。オリジナルってわけだ。安心しな。お前に飲ませたのは一応テストモデルってことで、後遺症が残るレベルじゃあねぇ。ま、賢いフリしてる子供をバカにしちまう薬ってとこかな」
「学生に……ばら撒く、つもりか……」
「ノーコメントだ」
男は笑いながらそう答えた。
くそ、いや、薬のことは一旦忘れよう。今の俺は多くのことを一度に考えられない。
とにかく攫われた夏野たちのことを最優先に考えなければ……!
「今、何時だ……!」
「あー、午後十一時ジャスト」
「じゅ、十一時……⁉」
「うるせえ。近所迷惑だ。静かにしてな」
「そんな……」
日付が変わるまでに警察を動かして、神無月のもとへ辿り着かなければならない。
数時間前ならば、猶予はなくともほんのわずかな余裕はあった。
だが現状――日付が変わるまであと一時間となると、事態は切迫しているどころの騒ぎではない。
窓の外。見える景色から判断すると、ここは歩風町の中心部、繁華街に近い場所だ。
揺らぐ思考を何とか手繰り寄せ、必死に脳内で町の地図を組み立てる。
ここは幸い、神無月がいる水波バンクの旧歩風中央支店に近い。
――行かなければ。俺一人だけでも、何としてもこの状況を切り抜けて。
「……っ、…………」
そのために俺がおこなった最初の一手。
それは襲い来る焦燥感の中、ただひたすらに待つことだった。
人間は絶えず変化し続ける生き物。時の流れに従い、男に何らかのリアクションが起こるかもしれない。
それを利用できれば――。
もはや運に身を任せるような受け身な姿勢だったが、それでもこれが現状の最善だった。
そして――天は俺に味方した。
「……ふぁ~……」
運転席に座る男の、小さな欠伸。だがそれこそ、俺にとっての希望の光。
薬の効果が切れてきたのか、それともただ慣れただけなのかは不明だが、少しずつ頭が回るようになってきた。
今しかない。このチャンスを逃すわけにはいかない。
「眠いのか……?」
何もかもを諦めたような声音で、そう聞いた。
悟られるな。平然を装え。気楽に、相手が警戒心を抱かないように。
「お前の監視で疲れたもんでね」
「寝ていいよ……どうせ逃げられない」
「……黙ってろ」
男は突き放すようにそっけなく言った。が、割と好感触だ。
「なら眠気が飛ぶ方法、教えてあげようか?」
「ああ?」
「要は意識を集中すればいい。一点を見つめるんだ。ほら、遠くにある鉄塔の赤い光。あれを見て」
波を立てない凪のような声で、俺は男に語りかける。
「一定間隔で点滅してる。まるでメトロノームみたいだ。あれに意識を集中して――」
「…………」
「チク、タク、チク、タク、どんどん声が遠のいていく。チク、タク、チク、タク、ゆっくりと……目蓋を閉じて……チク……タク……チク……タク――――さあ、おやすみ」
瞬間、運転席の背もたれが僅かに下がった。
――完了だ。男は眠りについた。
「素直な人で……助かったよ……」
相手が素直で、俺に対して油断していて、かつ潜在的に眠りたいと思っていたから成功した。
無謀な賭けだったが、結果オーライだ。
すぐに男のポケットをあさり、手錠の鍵を回収。
俺のスマホも探してみたが、それは見当たらなかった。おそらく洋館に落としてきたのだろう。
仕方ないと割り切り、外した手錠を使って男の手をハンドルから離れないようにして、車の外へと出る。
コンクリートの地面に踏み出した瞬間、不意の眩暈に加えて足に力が入らず崩れ落ちた。
「ッ……、くそ……」
気分は最悪だ。得体のしれない薬の効果はまだ続いている。
それでも何とか立ち上がろうとした矢先――鼻先にぽつりと雫が落ちてきた。
「……雨」
強く拳を握る。歯を食いしばり、全身に力を込める。
フラッシュバックする光景は白と赤の地獄――全身バラバラにされて、頭部を持ち去られた最愛の家族たち。
「させて……たまるか……」
日付が変わるまで、もう一時間を切っている。
あと少しで、新しく掴んだ俺の『大切』が永遠に失われてしまう。
大切な友達が、罪を悔いている少女が――何よりも、俺の青春を取り戻してくれた夏野が。
俺の好きな子が――殺されてしまう。
そんなのはもう嫌だ。俺はもう何も失いたくない。
だったらこんなところで、倒れてちゃだめだろ。
「……立てよ、冬馬白雪……!」
這いつくばりながら、近くの縁石に手を伸ばし、大きく息を吸って立ち上がる。
「絶対に……行くからな……っ、必ず……迎えに……‼」
涼子さんとは連絡が取れない。水波署に直接行くには時間がかかりすぎる。
ならこのまま、神無月のもとへ――。
俺はおぼつかない足取りのまま、けれど着実に一歩を踏み出した。
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濡れた髪から滴る水が、砂埃に塗れた廃墟の床を滲ませる。
「…………」
ここにあるのは外から聞こえてくる、地面を打ちつける大量の雨音だけだ。
それだけで、あとは何もない。何も見えない。何もいない。
水波バンク。二年前の地震で倒壊し、最低限の改修だけされて結局廃墟になった旧歩風中央店。
必死に体を動かし、やっとの思いで辿り着いたこの場所には。
――誰も、いない。
「…………」
なぜだ。どうして誰もいない。
土砂降りになっている外に出て、思わず看板を見た。ひどくボロボロだが、確かに歩風中央店と書いてある。
入口にはほとんど破れているが、移転先を示した張り紙もある。
どう考えたってここしかないはずなのに。なぜ。
「八木原の嘘……? いや、違う。八木原が七海に話すことを見越して、神無月が嘘を教えたのか……? なら神無月はどこに? ヤツの犯罪は劇場型、なら無関係な場所は選ばない。じゃあ二年前に強盗があったのは……そもそも、ここじゃあない……のか……ッ」
鬱陶しいほどの雨音。
それがもはや、俺を糾弾する無辜の声にさえ聞こえる。
横を向けば、数メートル先――おあつらえ向きだとでも言うように屋外時計が設置されている。
時刻は午前零時――ジャスト。
「――ッ、くっそおおおおぉぉぉぉぉ――――‼‼」
降り止まない雨に叫び声はかき消され、やるせない気持ちを抑えきれず地面を殴った。
「まだ……まだだ。まだ終わってない……終わってるわけがない……」
ヤツは自分のルールに従って殺しをする。
何かほかに理由があって、すぐには攫われた五人は殺されないかもしれない。
諦めきれるはずがない。また繰り返していいはずがない。
でも。だけど。どうしたって――――もう手段がない。
「俺は……、俺は……」
このまま再び、闇に埋もれていくのだろうか。大切な人たちの人ではなくなった姿を見て、抱えきれない悲しみに心を壊して。
虚ろな目で空を睨む。降り注ぐ夏の雨は、誰の涙だ――。
「――――」
刹那。光を見た。あるはずのない光。
それは俺の背を照らす、車のライトだった。
ゆっくりと振り返る。そこにあったのは見覚えのある車。
「白雪!」
「涼子……さん」
僅かに雨に濡れた涼子さんが、車の中に来るよう手招きしていた。
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「どうして涼子さんがここに」
差し出されたタオルで濡れた髪を拭いながら、そう聞く。
「私も神無月と繋がっている警官とひと悶着あってね。で、あなたを探している途中で、扉が開きっぱなしの車を見つけたの。寝ている運転手が見覚えのある警官で、手錠されてるものだから、もしかしたらと思ったのよ。七瀬汐音さんの文章を読んでから、この場所には見当をつけていたでしょう?」
「でも、ここじゃなかった。ここには誰も……」
「とりあえずこれ。家に落ちてたわよ」
「俺の、スマホ……」
傷だらけだ。覚えていないが派手な落とし方をしたのかもしれない。
そんなことを思いながら起動すると、すぐに現実を突きつけられた。
時刻は午前零時十分――タイムリミットは過ぎており、そして神無月の居場所も分かっていない。
二年前のあの日、七瀬汐音とその祖父が訪れた銀行は、強盗に巻き込まれた銀行は、ここじゃなかった。
何か、どこかで読み違いをしたんだ。それは一体なんだ?
「私からのプレゼントなんだから大事にしなさいよ。なんて、言ってる場合じゃないわね。とにかく今は神無月の居場所を」
「――――ああ」
そうだ。
『妹の誕生日が近いこともあって誕生日プレゼントを用意しようという話になった』――七瀬汐音の書いた文章には、そう記されていたじゃないか。
妹、つまりは七海の誕生日プレゼントを買おうとして、でもそのためにはお金が足りず、銀行に行った。
俺はずっと、その銀行が七瀬祖父の家に一番近い場所だと考えていた。
けどそれは間違いだ。
本当は、七海の誕生日プレゼントを買える場所から一番近い銀行――と考えるべきだったんだ。
だとすれば……!
俺はすぐに七海に電話をかけた。
「……出てくれ、七海……!」
コール音が二、三度鳴り響き、そして通話は繋がった。
すぐに涼子さんにも聞こえるようスピーカーをオンにする。
『もしもし、冬馬⁉』
「ああ、俺だ!」
『あなた今までどこに……!』
「悪いけど詳しく説明してる場合じゃない。神無月は旧歩風中央店にはいなかった! 七海、思い出してくれ! 二年前に姉か祖父から誕生日プレゼントを貰わなかったか⁉ それをどこで買ったか分かるか⁉」
『そ、そんな……いきなり言われても、ちょっと待って』
七海の困惑が伝わってくるが、しかし戸惑っている暇はない。
俺はまだ諦めない。この目で見るまでは、何も。
「銀行に行ったってことはATMがあるデパートとかじゃない。多分、個人経営の店で買ったものだ……! 何か心当たりは⁉」
『デパートじゃない個人店、プレゼント……。確かに二年前、祖父からぬいぐるみを貰ったわ。でも店名までは……』
「ぬいぐるみ……専門店かもしれない。涼子さん!」
目配せすると、すぐに涼子さんが店名を調べ始めた。
そこからヒットした名前、住所から、その周辺にある銀行、二年前に倒壊して移転した店舗リストとの照合。
すべてが完了するまで一分もかからなかった。
「出た! 旧歩風――中央じゃない、西支店よ! 場所はここから約二十分……!」
「すぐに行こう!」
「ええ!」
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――時間の感覚はとっくになくなっていた。
窓がない半ば密室の空間に、長時間閉じ込められているのだ。当然と言える。
けれどやけに嬉しそうな、ときに残念そうな表情でこの部屋に入ってきた男によって、その意識は引き戻された。
「――本来なら、日付が変わるのと同時に君たちを殺すつもりだった」
躊躇いなく、男はそう言った。
詩でも朗読するような穏やかな声で、人の命を摘むと。
「けれどもう少しだけ、彼を待つことにしたよ」
そう言って男は――神無月秋夜は、持っていた白い封筒を見せびらかした。
一方で神無月は知らない。
俺――高砂楓の体を椅子に縛り付ける手錠が、いつでも外せる状態だと。
そしてプレリュードへ。




