5話『魔王』
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鍵盤に撫でるように触れ、音を奏でることは随分と久しい行為だ。
今の自分に、果たしてかつてのような演奏ができるかどうか、不安だった。
己の実力を認めたことは一度もない。
何故なら僕はどうしようもないほどに脆く、簡単に折れてしまう存在だ。
まさしく人間の脆弱性を体現していると自負しているよ。
誰しもが通る道だとは思うけれど、僕は幼少の頃――自分が何者なのか常に疑問を抱いていた。
いや、それは正確じゃないな。
正しくは今でも、自分が何者であるかを己が神に問いかけている。
父はとても優秀な人だった。
有名な音大を主席で卒業し、旅行先のイタリアで行ったストリートピアノがきっかけで劇団からオファーを受け、その後はピアニストとしてだけでなく指揮者としても実力を発揮していった。
父は才能があり、賢く、それでいて惹きつけられるカリスマ性を兼ね備えた――まさに強者なのだと、僕は物心つく頃には理解していたよ。
自分が歩いている道の先には必ず父がいた。
父が切り開いた道を歩んでいるのだと思うと、勇気が湧いた。
僕にとって父は、まさに神に等しい存在だったんだ。信じることで力を与えてくれる――神様。
けれど僕が十二の時、父は死んだ。交通事故だ。
どんなに世間から評価される能力を持っていたとしても、酔っ払いの運転する車に轢かれれば死ぬ。
そんな当たり前のことを、僕はその時ようやく知った。
しかし同時にこうも思ったんだ。何故父は、こんなにも信じていた自分を裏切って勝手に死んでしまったのだろうか。
ああ、もしかして父は、本当は自分にとって神様でも何でもない存在だったのかもしれない、と理解した。
あとは簡単さ。寄生虫のように寄生先を――信じ崇める対象を変えて、変えて、変えて、そうして進化とも退化とも言えない変化を繰り返した。
他人からの評価はそれなりに良かった。名のある大学を卒業し、父の名前を背負って音楽教室を開いたことで金には困らない生活をしていた。
生の実感が得られない日々が続いたがね。
そんなある日、新たな神様に出会った。
宗教団体『イノセント・エゴ』――何かを信じることでしか自我を保てない脆弱な僕は、どこまでも教団に心酔した。
けれど再び、僕は裏切られた。だから今も問いかけている。問い続けている。
――僕は一体何者なのか、とね。
狂った鍵盤の音。不思議だ。
かつて時を忘れるほどに叩いた鍵盤。どこを押せばどの音が出るのか、指使いから曲のリズムまで完璧に記憶しているというのに、このB4だけは知らない音を鳴らしてくれる。
気持ちが悪い。吐き気がする。
だというのに――何故これほどまで心が躍るのだろうか。
否定できないほどの相克。
さながら、これまでの自分の人生には登場しなかった好敵手が、この鍵盤に宿っているかのようだ。
「――――」
ああ――譜面の終わりが近づく。名残惜しい。しかし一度始まってしまったものは止められない。
また、始まってしまったものは終わらなければならない。
音を奏でることで集中力が増し、高揚した気分は冷静さを取り戻した。
己への問いかけ。解は相も変わらず出ないけれど、目的の再確認には適している。
さて、続けるとしようか。
己が何者であるかを証明するための、問いかけを。
「――ご清聴、どうもありがとう。風見織姫」
演奏を終えた僕は、四肢を手錠で拘束して椅子に座らせた風見織姫へと、視線を向けた。
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十五分ほど前に遡る。僕――神無月秋夜がこの洋館を訪れた時刻まで。
不動産業を営んでいる教団信者から手に入れたこの館の見取り図には、地下通路の存在が記されていた。
通路は館の一室から、裏の森に繋がっている。
この館の歴史を考えれば、おそらくは戦時中に行われた空襲――それに対する防空壕、あるいは緊急用の避難通路として用意されたものだろう。
警察の目を掻い潜るため、その地下通路を通って屋敷内に侵入した僕は、堂々と館内を見て回る。
冬馬白雪と桐野江涼子が外出中であることは確認済みだ。
目的はこの館で生活をしているもう一人――風見織姫に接触すること。
時刻を考えれば彼女はリビングにいるだろう。
脳内にしまい込んだ見取り図を取り出し、館内を探索する。
そして見つけた、半開きの扉から僅かに廊下に漏れ出る光。予想は的中だ。
彼女はソファーに座り、紅茶を飲んでいた。
「やあ、こんにちは」
扉をノックし、声をかける。
すると中にいた彼女は驚いたように背筋を震わせ、ゆっくりと僕を見た。
「驚かせてすまない。玄関で呼びかけたが反応がなかったものでね。本当に申し訳ないよ」
白々しい嘘。けれどバレたって構わない。
重要なのは、相手がどんな反応をするか――なのだから。
風見織姫は肩に垂れた絹のような黒髪をそっと払い、驚きと疑問を隠そうともせずこう言う。
「神無月さん……? なぜここに?」
「君に大切な要件があるんだ。入ってもいいだろうか?」
「え、ええ……」
僕は吸血鬼というわけではないけれど、きちんと許可を取ってからリビングに足を踏み入れた。
簡単な心理効果だ。
謝罪し、許可を得てから室内に入る。そうして誠意を演出することで、勝手に館内に侵入したことを追及させない。
これで本題に入りやすくなる。
「ありがとう。向かいに座っても? 今日は朝から町をあちこち移動していたから、さすがに疲れてしまってね」
しかしこの手が通じると言うことは、彼女にそれだけの拒絶心がないということ。
「お仕事でしょうか?」
「いいや」
僕が足元に置いたアタッシュケースを見てそう判断したのだろうが、返答はノー。
「どちらかと言えば趣味に近いのかな。楽しんでやっているわけではないから、そう言ってしまうと語弊が生じるけれどね」
風見織姫は腕を組んでいる。防衛姿勢、警戒心の表れだ。しかし視線から判断するに、外にいる見張りの警官のもとへ走り出す気配はない。
期待外れ――と、判断してしまうのは早計だろうか。
やれやれ。ここで自信が持てない僕は、やはりどうしようもなく弱いな。
確実な判断ができないのならば、材料を揃えてやればいい。それだけじゃないか。
内ポケットに入れていた三枚の写真を取り出して、それを風見織姫の前に並べた。
「――美原夏野、琴平花灯、高砂楓の三人を誘拐した」
「な……ッ」
わざとらしく不敵な笑みを浮かべてそう言ってやると、彼女は拘束された学友の写真と僕を見比べ、目を疑うような光景に取り乱した。
「え、……え……⁉」
そこでようやく彼女は目の前にいる男を外敵とみなし、ポケットに入れていたスマホを手に取る。
館に侵入した異物。その存在の報告を、館の主、もしくはその守護者へと知らせるために。
「なるほど。そういう反応か」
一連の動作を分析して、結論は出た。人間の直感は存外優秀らしい。
「どうやら冬馬白雪は、まだ僕の問いに気付いていないようだね。ただ、無警戒というわけでもない。疑問を抱いている程度か。ああ――君のスマホは使えないよ。妨害電波を出す装置を用意した。なに、大人しくしていれば危害は加えない、なんていうのはベタなセリフだが、約束しよう」
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「『魔王』――あなたに攫われる私にぴったりな曲、とでも言いたいのか?」
演奏が終わるまで静かにしていたのはお利巧だが、皮肉だと受け取られたのは残念だな。
「まあ、解釈は自由だ。この曲にも無数の受け取り方が存在している。中でも僕が気に入っているのは、子供を攫う魔王は人間の悪性を、子供の父親は善性を表現しているという解釈だね。実に普遍的で直球だが、それがいい」
風見織姫はその切れ長の目を鋭くして僕を睨みつける。
まさに悪役に連れ去られるヒロインのようだ。
「君にしてみれば確かに僕は『魔王』だろう。しかし僕は善と悪の間にいる子供で在りたいと思う」
「……なぜこんなことを……」
「難しい質問だ。強いて言うなら"その答えを出してくれる存在を求めている"かな」
「……?」
訝しげに首を傾げられてしまったので、そのまま言葉を続ける。
「すべての物語には神様が存在している。それは物語の書き手、創造主だ。創造主によってキャラクターは人格や役割を与えられ、駒のように動かされる。ありふれた日常も、ドラマティックな非日常も、すべては仕組まれた運命のままに、与えられた善悪を宿して操られる。――僕はその駒で在りたいんだよ」
「何を……言って……」
「君には理解できない。強い人間にはね」
父親でも魔王でもない。
子供の行き先を決めてくれる馬――そのすべてを操る神。
己が何者であるかを定めてくれる存在。それこそが僕の望むものだ。
――しかし。
視線を演奏していたピアノに戻す。
「―――」
狂った鍵盤の音が、まだ耳の奥で鳴りやまないでいる。
もし神が存在しなかったら――?
まるでそう問いかけられているようだ。
父も教団もその他の存在も結局のところ、望む答えを与えてくれはしなかった。
もし――ホワイトキラーが僕の神様ではないのだとしたら。
そのときは。
――僕が神を超えるという選択肢もある。
これは挑戦だ。己の存在を証明するための戦いだ。
ホワイトキラー。冬馬白雪。その他の誰だって構わない。僕を見ろ。辿り着いてみせろ。我が問いかけに答えてみせろ。
そのために相応しい場所で待っているぞ。
「――時間だ。行こうか、風見織姫」