4話『コラテラルダメージ』
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一昨年に起きた十七夜月事件で一人生き残った俺のように――今回の事件でただ一人の生存者となった菊代結。
まだ十歳であるその子から会いたいと言われ、実際にそれが叶ったのは、約二週間後のことだった。
面会にここまで時間がかかったのには、二つの理由がある。
一つ目は菊代結の精神状態。両親と兄を殺された少女の心は、あまりにも無垢で痛みに従順だった。要するに、人とまともに会話できるような状態ではなかったため、ドクターストップがかかったのだ。
二つ目の理由としては、マスコミの存在。
今年の四月から発生していた連続殺人事件、その唯一の生存者である菊代結は言わずもがな、事件の再現に利用された十七夜月事件に大きく関わっていた俺に対しても、あらゆる記者からの取材が殺到していた。
少女を保護している病院、俺が住居としている洋館の前には張り込みが続出。
幸い桔梗高校がしばらく臨時休校になったので、各メディアが学校に押し寄せることや俺の友人たちにその余波がいくことはなかったが……いずれにしても身動きの取れない状態が続いたのだ。
結果――警察からの報道規制や、未成年の子供に対する執拗な張り込みがネット上でバッシングを受けたことで、状況が少しだけ落ち着いた六月最後の土曜日。
ようやくこの邂逅は果たされることになった。
とある病院の一室。扉を開けた俺は室内を見渡す。
部屋の雰囲気は、まるで子供の遊び場だ。床にはピースごとに色の違うパズル型のマットが敷かれ、その上には車やロボットなどの玩具やミニチュアの家が散乱している。
色鮮やかな箱庭――立法体のガラスが敷き詰められた壁から淡い光が差し込んでいるけれど、一部がシルエットとなって影を落としている。
窓台の上には、半身を窓に預けるようにして小さな女の子が体育座りをしていた。
「――はじめまして、こんにちは。俺の名前は白雪だ」
柔らかい声を意識して挨拶した。それに反応して、外を見ていた少女はこちらを見る。
「白雪? 男の子なのに変な名前~」
少女の顔は笑顔に満ちていた。
久しぶりの来客に心を躍らせているような様子で、少女は窓台から下りて埃を払うように服を叩き、前髪を整えながらこちらに寄ってくる。
「こんにちは! ねえ、どうしてお兄さんは白雪って名前なの~?」
後ろで腕を組んで、体全体を傾けながら聞いてくる。子供らしい大げさな仕草。
俺は足を折り曲げ、目線を合わせてから答えた。
「雪が降った日に生まれたから白雪って名付けたんだって。君は自分の名前の由来を知ってるかい?」
「知らな~い」
「……そっか」
「ね~、お兄さんはどうしてここに来たの? あたし、自分がどうしてここにいるか分からないんだけど~、お兄さんは知ってる?」
――『つまり事件のことも家族のことも覚えていない、と?』。
――『ええ。おそらくは自分の心を守るため、でしょうね』。
この部屋に入る前の、涼子さんと菊代結の担当カウンセラーとのやり取りがフラッシュバックした。
家族を殺された少女。その記憶は悲しみに酔いしれた脳のどこかに閉じ込められた。
辛い光景を目にしたことで心が壊れそうになって、精神の崩壊から自己を守るために認識がズレたのだ。
「立ち話もなんだし、向こうで座って話をしようか」
「うん、いいよ!」
命の生存本能が働いた結果と言うべきか――いずれにしても今の菊代結は、無垢で無邪気な何も知らない十歳の女の子。
――と、こうして実際に対面するまでは思っていたが。
「君は嘘がうまいね」
「え?」
「嘘を吐くと瞬きの回数が増える、だから瞬きを我慢する。そういうのは上手い手だけど、案外不自然だったりする。上手に嘘を吐くコツは、本当のことを織り交ぜることだよ」
少女の顔から笑みが消えていく。正確には目が、冷たい空虚なものに変わっていく。
口元を緩めたまま、口角を上げたまま――空っぽの笑顔を浮かべている。
「大丈夫。この会話は誰も聞いてないよ」
最後の一押し。
俺がそう言うと無垢な少女は目を逸らし、束の間、仮面を外したように態度を一変させた。
「……誰かに話したら許さないからね」
「ああ、約束する。でもどうして、全部忘れた演技を?」
そう尋ねると、菊代結は小さく唸りながらゆっくりと柔らかい床に仰向けになった。
俺もそれに倣って横になってみる。相手と同じ行動をすることで好感度を得るというテクニックがあるのだが、別に意識したわけではない。
しばらくして弛緩した空気が流れ始めると、平坦な声が聞こえてきた。
「ナースさんたちが話してたんだ。お母さんとお父さんとお兄ちゃんを殺したのはホワイトキラーって呼ばれてる人で、その人は前にも同じ事件を起こしてるんだって。沢山噂話してたんだ~。お兄さんがホワイトキラーだとか、お巡りさんの中に犯人がいるとか、楽しそうに話してさ」
事件当時も、俺がホワイトキラーなのではないかと訝しむ声はあった。まあ本気で言っている人なんかいなかったと思うが、噂話とはそういうものだ。
誰もが冗談のつもりで、脚色して、想像で補って、語り草にする。悪意のない悪意。
「誰と会っても可哀想だって言われて、やな目で見られて、前ここに勝手に入ってきたおじさんは家族のこととか、今の気分とかを聞いてきてさ。もう悲しいとかそういう気持ちもないよ」
抑揚のない声。自分が今どういう感情で、どういう声色で話せばいいかを見失ってしまった声。
それでもこの子は周囲から”家族を殺された可哀想な少女”を強いられている。
「大人はお酒とかお薬飲んで忘れたフリするくせに、あたしには同じことさせてくれないんだよ。なんでだろうね。でも……もう、何にも考えたくないんだぁ……あたし」
――ゆえに菊代結は、無垢で無邪気な少女という仮面を被った。
無知なのではなく。無知を装ったのだ。
「ごめんなさい」
「それは何に対して?」
「最初はお兄さんと会って、お兄さんのときはどういう気持ちだったとかお話をしてみたいと思ってた。そしたらちょっと、何か変わるんじゃないかって。でも、もういいんです。来てくれてありがとうございました。もう帰ってください」
それはつまり、菊代結が今後も無垢な子供を演じ続けるということだ。
俺と会話を重ねることで変えたいと思っていた気持ちを放置して、心に負った傷と少しずつ向き合っていくことをせず、全部から目を逸らし続けることをこの子は望んでいる。
それは確かに賢い生き方と言えるかもしれないけれど、あまりにも悲しすぎる。
「あ、やっぱり一個だけ、質問したいです。あたしの家族が殺されちゃったのは、何かの『ついで』なの? あたしが今こんな思いをしているのは、誰かがこういう思いをさせようとしたんじゃなくて。誰かが何かをしようとした『ついで』で、こうなっちゃったのかなぁ?」
ホワイトキラーに魅せられた模倣犯が、自らのアピールを目的として君の家族を殺した――なんて、口が裂けても言えなかった。
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「お疲れ様」
地下駐車場。先に車内で待機してもらっていた涼子さんのところに戻ると、そう言われた。
どうやら俺の表情から何かを察したらしい。
菊代結に何も言葉をかけられなかったことは、想像以上に俺の中でショックだったようだ。
気持ちを無理にでも切り替えるため、とにかく事件のことを考える。
「……捜査の進捗は?」
「報告書を提出したら、本部も動き出してくれたわ。単独捜査のことをすっごく責められて、しかも模倣犯である可能性は無視されたけれどね」
「でもこれで三人を調べることが――」
「いえ、もう容疑者三人とその身辺、アリバイは調査済み。遺体の状態から逆算した死亡推定時刻にアリバイがなかったのはただ一人、音楽教師の八木原よ」
「っ……それで今警察は?」
「一時間ほど前に家宅捜索をおこなった結果、ガレージから殺害に使用したと思われる凶器が発見された。――八木原は今、水波署で取り調べを受けているわ。あとは証拠を固めて送検、裁判がおこなわれて事件は解決、でしょうね」
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――曇り空。肌を撫でる風は湿っていて、じきに雨が降ると予感させる。
逮捕から四十八時間後――八木原は釈放されることとなった。
理由は"証拠不十分"。
凶器からは指紋が出ず、八木原は容疑を否認し続け。さらに送検が迫ったタイミングで自らのアリバイを主張し、そして何よりも決め手となったのが――利き手。
一連の事件の遺体を分析した結果、切り口から犯人の利き手が左手であることが判明。
そこで俺は記憶を掘り起こす。
四月、八木原と初めて出会ったとき、俺は彼に握手を求めた。
あのとき差し出された手は――右手だった。
六月二十九日。八木原の釈放から三時間後。
『かわいいぼうや、おいで。おもしろいあそびをしよう』
そう書かれたメッセージが、美原夏野、琴平花灯、高砂楓、風見織姫のスマホから俺に送られてきた。




