58話『狂った鍵盤の音は――』
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体育祭を終えて、三日が経った土曜日の午前中。
俺は少しばかりの眠気を覚えながらもリビングで一人、ある名刺を手に思考を巡らせていた。
――神無月秋夜。
宗教団体『イノセント・エゴ』の人間であり、風見グループの現社長、風見宗玄の新たな秘書であり、何よりも――あの日、俺と風見夫妻の会話を夏野と共に聞いていた男。
夏野から話を聞く限り、彼は俺の狙いに気付いていたともとれる言動をしており、かつ無関係な彼女をあの場に誘導した。この名刺もいつの間にかポケットに入れられていたらしい。
あれから三日。教団側に動きはない。
妙だ。風見グループに琴平陽光の横領事件を利用して教団との関係を絶つという手段が残されていることを、あの場で話を聞いていた彼は知っている。
俺が彼の立場なら、教団に報告してすぐにその手段を潰しにかかるだろう。
だが実際にはそんな素振りもない。
神無月秋夜――ヤツは何を考えている?
『――彼とはそれこそ一度くらいしか会ったことがないんだ。電話で話すことは何度かあったが……印象、か。声は優しい、物腰が穏やか、けれど何か独特の雰囲気を纏っているという感じだな。少なくて申し訳ない』
木曜日の朝。織姫がこの洋館を出て実家に戻る直前に、神無月秋夜の人柄について尋ねたのだが、あまり具体的な情報は得られなかった。
体育祭の日に遠目から見た感じ、彼は自分を隠すことが上手い。
だから神無月秋夜という人間が何者であるかを分析するためには、もっと情報が欲しいところだな。
「さて、どう動き出すべきか……」
とりあえず紅茶でも飲もうと思い、名刺を机の上に放ってリビングを出た。
織姫が実家に帰り、館内には再び静けさと冷たさが漂うようになったと思う。
この洋館はこんなにも広かったんだと思うことがあり、夜はまるで聴覚を失ったと錯覚するほどに静かだ。
寂しいって感情は積もり積もれば体に悪影響を与える。
体温を下げたり、免疫力を下げたりとか。きっと、今の俺も少なからずそういった影響を受けているのだろう。
熱湯を用意し、紅茶を淹れる。
これでちょっとくらいは俺の気も紛れるかな、などとしがない感傷に浸りながらリビングへ戻る途中。
――コンコン、コン。
玄関の扉がノックされた。はて、誰だろう。
「……」
普段、人なんか滅多に来ない洋館だ。
俺は多少の警戒心を抱えて玄関に向かい、ドアスコープに左目を近づけた。
小さな穴から覗いた外の景色。
そこに映っていたのは、ラフな恰好ながらも綺麗な黒髪が清楚さを醸し出す麗しの生徒会長――風見織姫。
「織姫先輩……?」
すぐに扉を開けて隙間から顔を出すと、織姫が照れくさそうに軽く手を振った。
「――やあ、白雪君。来ちゃった」
「え、えーと……その荷物は?」
織姫の隣に鎮座する大きなキャリーケースを指して尋ねてみる。
何かを恥じらう様子の織姫。そして一昨日に持ち帰ったはずの荷物。どうも忘れ物を取りに来たというわけじゃない。
これはむしろ逆に――。
「んんっ、まあ、その……言いたいことは分かる。だがまずはこれを」
なぜか目を逸らされながら、スマホを渡される。
すでに通話状態で画面には社長と表示されていた。
「もしもし?」
『どうも、冬馬白雪君。織姫の父だ』
「あ、これはその……この前はどうも」
社長という表記からして何となく予想していたが、相手は案の定、織姫の父親――風見宗玄だった。
『すまないが時間がない。なので要件を先に言おう。――冬馬君。織姫を再び君の家で預かってもらえないだろうか?』
「えええぇ⁉」
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「……ということで、またお世話になるよ白雪君。近々ちゃんと桐野江さんにも挨拶をしなければな」
さらりと俺を下の名前で呼ぶようになっていた織姫。いやそれに関しては別に構わない。
それよりもだ。
"ということで"で片づけられてしまったが、俺は再び、我が家で織姫を預かることになってしまった。
しまった、と言うと語弊が生じるか。
俺は、最終的にはその提案を受け入れたのだから。
宗教団体『イノセント・エゴ』の脅威をしばらくは切り離せないこの状況で、万が一を考えて娘を安全な場所へ避難させておきたいという父親の望みを、俺は受諾したのだから。
さらに言えば織姫を預かる対価として、食費等の負担に加えて、十七夜月事件やホワイトキラーの調査に手を貸すとまで約束された。
風見グループのトップが手を貸してくれるとなれば、警察への直接介入はさすがに不可能だろうが、探偵を雇ったり、情報提供を募るなど大掛かりな網を設置することができる。
俺個人で動くよりずっと、例の殺人鬼を捕まえられる確率は上がる。
ゆえに、織姫を守りたいなら俺からも遠ざけたほうがいいのではないか、という矛盾に近い懸念を抱きながらもこの頼みを引き受けた。……んだけどなぁ。
そのうえで何を悩むことがあるといった感じだが、目下、俺の思考を支配していたのはこのことを夏野にどう報告するかだった。
俺は美原夏野という女の子が好きだ。で、自分で言うのもなんだが夏野も俺のことが好きだ。
お互いが何となくお互いの好意を自覚している状態で、俺の過去の清算が終わるまで『それ以上』になることは避けている関係。
ただでさえ彼女には迷惑をかけているんだ。
そのうえ生徒会長とのほぼ同棲生活……。体育祭前後のことは無論しっかり説明し、緊急措置として仕方なかった、と納得してもらったが今回はどうなることやら。
「――ここは書斎か。ずいぶんと歴史を感じさせる趣だね」
一階の廊下。扉を開けて上半身を突っ込んだ織姫が、関心したように呟いた。
「ああ、十七夜月家の父さんが集めていたものをそのまま持ってきたんだ」
今は織姫の要望で洋館の案内をしている。前回の数日間では主に部屋とリビング、キッチンと浴場を行き来するだけだったので、ほかの場所も改めて見ておきたいといった具合だ。
一階はこれで終了。続いて二階へ。
「こうしてみると、この館はまだ知らない場所のほうが多いな。あちらの奥の部屋は?」
織姫がコツコツと床を踏み鳴らして近づいたのは、二階右通路の一番奥の部屋。
同じく二階にある俺の部屋の対極に位置するその場所は、忘れたくても忘れられない形見の宝庫。
「あそこには……さくらの私物が置いてある。捨てていいのか、自分でも分からなくて」
さくら――俺がその名前を出すと、織姫は僅かに表情を変えた。
織姫は彼女と面識がある。同じピアノ教室に通っており、コンクールでは絶対的な差を見せつけられた過去も。
「……拝見しても?」
織姫は興味本位などではなく、あのとき何よりも眩しく見えた十七夜月さくらという人間を知るために、そう尋ねた。
「ああ」
扉を開けると、日差しに照らされる埃の波が目に入った。
元々古い建物だったうえに、二か月も掃除をサボっているのだ。
すっかりと時の流れに置いていかれてしまった光景が広がる。
机、椅子、ベッド、空のクローゼットと棚。中身である本や服、そしてぬいぐるみを収納した段ボール箱のいくつかが隅のほうに置かれた、素朴な一室。
俺は素早く窓を開ける。梅雨らしい湿気がじめじめと不快ではあるものの、締めっぱなしよりはマシだろう。
「グランドピアノ――立派だな」
部屋の中央に設置されたそれに目を奪われた織姫が、小さく呟いた。
光沢が鮮やかな黒塗りのグランドピアノ。一般的な家庭用ではない、きっちりした舞台でも使用される、それ一つで数百万もするような代物だ。
まあ、見事に埃を被ってしまっているのだが……。
「これも彼女の?」
「うん。弾いてみる? 長い間調律していないから音が出るかは分からないけど」
「さて、どうかな」
織姫は閉じていた鍵盤蓋を丁寧に開けて、それから試しに一音鳴らしてみる。
「ふむ音は出るようだが、絶好調とは言えないね」
それから次々に音を鳴らしていくが、やはり織姫の言うように充分なパフォーマンスを発揮できているとは言い難かった。
音量を調節するための屋根を閉じた状態で弾いているとはいえ、以前さくらが聴かせてくれた音色はもっと華やかだった気がする。
この季節は湿気もあるだろうし、杜撰な管理が招いた結果――か。
今度ちゃんと整備してもらうのもいいかもしれない。こいつはここに運び込むだけで数万円を支払った記憶があるし、このまま腐らせるのは贅沢が過ぎるというもの。
今はこうして、弾いてくれる奏者もいることだし。
そう思い、片手ながら滑らかに音を奏でる織姫に目を向けた。
「このピアノを彼女が弾いていたんだな……」
その、刹那。
「っ――――?」
不意に演奏が止まった。理由は傍から見ていても分かる。一音だけ明らかに音が狂った箇所があったのだ。
これは調律代金もかなり掛かりそうだな、と思わずため息が漏れる。
「残念……演奏はここまでだね、織姫先輩」
「―――――」
「織姫先輩?」
それから何度か呼び掛けてみたが、織姫は鍵盤を見つめたまま一切反応してくれない。
なんだ……どうしたんだ。
急に雰囲気を一変させた織姫。様子を確かめるために一歩踏み出した、その瞬間――。
「―――――」
織姫が虚ろな目でこちらを見た。
「っ……ま、さか……?」
俺は直感する。あり得ないと思考が否定しつつも、目に映った彼女の姿が何よりの証拠だと、論理を蹴飛ばして結論が組み上がった。
――織姫は今、催眠状態にある。
焦点のあっていない目、力の抜けた手足、浅い呼吸。何度呼び掛けても戻らない自我。なんて強力な催眠なんだ。だとすればトリガーは――?
緩慢な動作で、けれども一歩ずつ着実に俺に近づいてくる織姫。
俺たちの距離がゼロになったそのとき、織姫の体は支えを失ったように崩れた。
「っ――!」
何とか抱き留める。すると束の間、織姫の腕が俺のうなじに回り、強引に顔を引き寄せられた。
繰り返される浅い呼吸、耳に当たる生暖かい息。
そして力のない声で紡がれた言葉は――――。
「『いつか――辿り着いてくれるか?』」
瞬間、まるで脳を真っ二つにされるような衝撃が奔った。
「今のはさくらの……」
忘れもしない。さくらがまだ生きていた頃、中学の修学旅行先で言われた言葉だ。
今でさえ何を伝えたかったのか定かではない言葉、それを織姫がどうして?
考えている暇はない。支えていた織姫の体の重さが増す。
「……っ、意識が! 織姫先輩……! 織姫‼」
意識が途切れたんだ。命に別状はない。だが、なんだ。一体何が起きているというのだ。
催眠のトリガーは間違いなくあの狂った音――なら暗示は誰が?
こんな強力な催眠、織姫と直接会って刷り込むしかない。
暗示はいつかけられた?
そいつの目的は?
ホワイトキラーと何か関係があるのか?
――思考を断ち切るように、ポケットに入れていたスマホに着信が入った。
表示された名前は、桐野江涼子。あまりにも間が悪くやかましいバイブレーションを止めるため、俺は仕方なく通話に出る。
「涼子さん、悪いけど今手が離せなくて!」
『白雪、最悪の事態よ……! 田中一家と常盤一家の遺体が発見されたわっ!』
「な……⁉」
『それに加えて新たな殺人も……これらはすべてあの時と同じ手口――』
フラッシュバックする十七夜月事件の現場。
机に並べられた歪なプレゼントの中には、けれど足りないピースがあって。
それは。
『被害者全員の頭部が持ち去られていたことにより、警察はホワイトキラーが活動を再開したと推定、これから公開捜査が始まる……!』
昼下がり。晴れていたはずの空は曇天に支配され、嵐のような雨が降り始めていた。
開かれた窓から入ってくる雨粒が、次第に室内を濡らしていく。
吹き荒ぶ雨風の中、鎮座し続けるグランドピアノ。
狂った鍵盤の音は――B4。つまりはシの音だった。
織姫編、一区切り&一章終わり。




