幕間『Fake trying to exceed God』
✿
「ありがとうございました」
六月の第二週。
一日を通して行われる体育祭で、第二種目にあたる全学年参加の綱引きが終わった直後。
競技の最中に足首を捻ってしまった"ウチ"――美原夏野は保健室で手当てを受けることになった。
診断結果としては幸いにも軽傷で、冷やして安静にしていればすぐに治るとのこと。
ウチが出場する残りの競技はどれも体を激しく使うようなものではないので、しばらくは観客席でのんびりするつもりだった。
東校舎の一階から昇降口へ向かう。
足取りは少しだけ重い。怪我のせいで僅かに右足を引きずっているということもあるが、要因はもう一つある。
爽やかな日差しの下、並べられたパイプ椅子にのんびり座っていると、つい探してしまうのだ。
彼――冬馬白雪の姿を。
探して、見つけて、目で追って。
先週の土曜のことをいろいろ考えてしまう。
面倒な女ムーブしちゃったなとか、会長さんと付き合ってるのかなとか、このすれ違いはもしかしたらもう二度と元に戻らないんじゃないかなとか。
「…………はぁ」
重い感情を吐き出しながら廊下を歩いていると、ふと声が聞こえた。
「――充分理解しているよ。相変わらず我が弟は優しいね。心配性と言うべきだろうか? 話が済んだなら切らせてもらうよ。そろそろ始まる。ああ、それじゃあ」
なんていうか、ウチは白雪くんのように声を聞いて何かの分析をするってことはできないけど、それでも何か印象を挙げるとしたら、その男の人の声はまるで声優さんのそれだった。
どこか安定感があるというか。ただ話しているだけなのに詩を朗読しているような声の滑らかさで、甘い感じって言えばいいのかな。
廊下の角を曲がると、昇降口の前にその人はいた。
高い身長で、ちょっとだけ長い黒髪で、白色が中心になった制服を着ている大人の男の人。
「――――」
スマホをポケットに入れたその人は、外に戻る様子もなく周囲を見回し始めた。
何かを探しているようだが、もしかして迷ってるのかな。いやでも出入口はすぐそこだし。
……トイレとか?
何にせよ、外に戻るにはあの人の前を通らないといけない。
「あの、もしかして迷ってます?」
意を決して、というほど大それた行為ではないけど、お節介を承知で声をかけた。
すると男の人はゆっくりウチのほうを向いて、端正な顔に自然と微笑を付け足した。
「うん? ああ、いや。ただ校舎を見ていただけだよ」
「あー……そっすか。これは失礼しました」
なんだか若干気圧されてしまった。緩やかだけど圧があるというか、オーラがあるというか……。
今の微笑みで結構な女子が落とされそうな感じだった。
まあそれはともかく、お節介気取りは本当にお節介に終わった。
七瀬が心配するかもだし、そろそろ戻らないと。
――と、適当に会釈をして一歩踏み出そうとした矢先。
「ところで君、足の怪我は大丈夫かい?」
ぴしゃりと、雷に打たれたかのように体が動かなくなった。
これに近い感覚を、ウチは前にも一度経験したことがある。
――それは四月。学校の屋上で、彼と初めて会ったときのこと。
フェンスの向こう側へ飛び立つかどうかの境界線上で、こっち側に手を引かれたあの瞬間を、想起しないわけにはいかなかった。
「どうして、分かったんですか?」
思わず質問を投げていた。捻った足には湿布を貼っているけど、ソックスを被せているから分からないはず。ならどうして、ウチが足を怪我していると気付いたんだろう。
男の人は底の見えない笑みを浮かべながら答える。
「大した芸じゃない。廊下に響いていた足音は片足を庇うようなものだったし、僕はこの学校の構造を熟知しているから、君が保健室からこの場所に来たと想像することは容易い。それだけさ」
「……」
「おや、お気に召さない種明かしだっただろうか。秘密は秘密のままであるが故に魅力的という視点もある。これはすまないことをしたね」
「あ、ああ、や、違うんです。その知り合いにも似たような子がいるっつーか。こう、鋭い洞察力を持ってるてきな? だからその、その子と話してるみたいであれだなって……」
ここ最近、ちょっとした雑談すらしていなかったせいかな。
既視感があるというか、なんだか懐かしい感じがして変な気持ちになってしまった。
「それじゃ、ウチはこれで……」
「――待ちなさい」
「え? ……ちょ⁉」
何をどうしたのか。過ぎ去ろうとしたウチの手を引いて、男が下駄箱の隅に身を隠した。
優しい手つきではあったが、強引に引き寄せられたウチはそのまま一緒になって影の中に。
すると次の瞬間、昇降口の解放された扉から足音が聞こえてきた。
よく響く音、ヒールを履いている人がいる。そのほかにも、誰か……。
そしてウチは目撃した。
来客用のスリッパに履き替える夫婦と、それを先導する白雪くんの姿を。
三人はウチらに気付くことなく、廊下を進みやがて階段を登ったところで姿は見えなくなってしまった。
「白雪くん……?」
あの大人は誰?
両親って感じじゃなかった。教師でもないし。それにどうして体育祭の最中に?
様々な疑問が渦巻く中、頭上から声が響く。
「君の知り合いかな? 夫婦のほうは僕の知り合いだ。あの三人が何故、この大舞台の裏側へ向かうのか。気にならないかい?」
「……そ、それは、まあ気になりますけど……。でももう行っちゃったし……」
「おや。先程言ったはずだよ。僕はこの学校の構造を熟知している。それに実のところ、君の知り合いの目的には見当がついているんだ。君が望むなら、案内しよう。さあ――どうするかな?」
ウチの答えは意外にもすぐに出た。
✿
「君は――神様を信じているかい?」
ウチの数歩先を歩く男の人が、そんな問いを投げかけてきた。
「えっと……それは、宗教のお誘いですかね……?」
「そうじゃない。紛らわしい言い方だったね。珍しく気分が高揚しているのかもしれないな。――僕はこう問いたいんだ。自分のすべてを預けてもいいと思える存在が君にはいるか、と」
「……んー、多分、いないです」
両親はなんか普通に嫌だし。恋人もいないし。友達は、そういう重いのはちょっと違う気がする。
「そうか。僕が所属する宗教団体『イノセント・エゴ』には、"教団は絶対だ"、"教団の言うことが正しいんだ"――そう主張する人間が多い。善悪の判断や思考を放棄し、まさしく妄信しているんだよ。誰かが勝手に行き先を決めてくれて、それに従って人生というゲームを進めれば幸せが約束されている。――それはなんて楽なことだろうと、僕は思う」
ウチが知っているのはせいぜい、広く浅いオタクの界隈くらいだけど。通ずるところはあると思った。
アニメや映画、ドラマや本、舞台。コンテンツに触れる前にまずレビューサイトの点数や批評をチェックして、見るか見ないかの判断をしている、いや、判断を任せている人は割と多い気がする。
とにかく点数がいいものを選べば、ある程度の水準が約束されているから。
何かを選ぶということは当然、失敗するリスクがつきまとうということだ。
失敗できるほどの気持ちの余裕、無駄な時間を過ごしてもいいと思える心持ちがないと、そういう冒険はできないんだろう。
でも――。
「全部を任せちゃうのって、自分がないみたいでウチ的にはなんかアレですね。……こう、ラノベを表紙やタイトルだけで買ってみるみたいなこと、ウチはよくするんで。あ、でも、何かを信じることも楽することもほどほどならいいと思います」
「ほどほど、か。果てのない自由は不自由でもある。君の言うことは案外、真理をついているのかもしれない。……その点、『イノセント・エゴ』のやっていることは洗脳と言えるね」
「……は、はあ……」
東校舎三階へ繋がる踊り場で足を止めた男の人は、ゆっくりと壁の高い位置にある窓から差し込む光を見上げて、言うのだ。
「――人間にはみな、神から与えられし何かしらの役割があると、僕は思っていた。けれど二年前のあの日、僕に与えられたものだと信じて疑わなかったそれは、一人の女の子に横取りされてしまったんだ」
ウチは隣に立ち、その横顔を覗いた。
詩でも朗読するような声――けれど、どこか俯瞰的だったその声に初めて熱が込められた気がしたから。
「その日からずっと、自分が果たすべき本当の役割を探していた。そして今――それを問うべき相手と同じ高みに届こうとしている。決して楽な道ではないが、僕は今、幸福を抱いているよ」
『イノセント・エゴ』の制服を着た男の人は、無垢な少年のような笑顔を浮かべていた。
✿
どんなカードにも表があり、裏がある。
人間もそうだ。
昔、テレビで、身寄りのない子供たちを保護する施設に多額の寄付をしていた会社の役員が、家出をした少女を使った売春ビジネスをしていて逮捕されたと報道がされていた。
ネットニュースのほうだと、有名人のSNSに見るだけで胸が痛くなるような暴言を送り続けた女性が、訴えられたという話があった。
事の顛末としては、相手の女性が夫から暴力を振るわれており、自らの精神を守るためにSNSで鬱憤を晴らしていたという事情が酌み取られ、これ以上迷惑行為をしないことを条件に示談が成立したらしい。
"私"――美原夏野がこれらの話を目にして思ったことは、『人間は複雑だなぁ』だった。
テレビニュースではコメンテーターやゲストの芸能人が、社会の影響に対するあれこれとかを論じていて。
ネットニュースでは匿名の人々が結果論を振りかざしたり、暴言を吐いたり、自分の身の上話をしていて。
多分きっと、それらも含めて、『人間は複雑だなぁ』と思った。
もっと言えば、なんでこの人たちは他人のことでこんなに怒っているのだろうと疑問が浮かんだ。
無論それには自分たちが生活する社会の秩序とか規律とか、平和のための抑止とか様々な理由があるんだろうけれど、そういう人たちがいなければ社会はもっとやりたい放題の無法地帯になっていたんだろうけれど。
幼い子供だった私にとって、それらは理解し難いものだった。
きっと理解できない自分は社会から爪はじきにされるものなんだと自嘲した。
それでも私は、見たくなくて、知りたくなくて――いつからかテレビはあまり見なくなったし、ネットニュースもコメントの表示をオフにするようになった。
趣味で見るアニメとか映画もそう。
他人のレビューや批評は見ないようにして、とりあえず自分で見て、自分で判断するようにしている。
だからできるだけ人生を簡単に――というと語弊を生むだろうけれど、単純に、受け取る情報を制限して、私は一枚のカードのどちらか片方しか見ないように生きてきたのだ。
知らないほうが幸せだったことがあるから。
けれど今、私は好きな人の裏側に目を向けようとしている。
東校舎三階。三年一組の教室。
「二年前のクリスマスに起きた十七夜月事件、俺はその生き残りです」
扉の向こうで彼が――冬馬白雪が過去を曝け出す光景を、目撃しているのだ。