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54話『号砲が鳴り、体育祭が始まる』

 六月の第二週。ついにこの日がやってきた。


 桔梗高校の体育祭。一日がかりで行われるこの大掛かりなイベントで、きっと多くのことが変わる。

 風見家の今後――さらには俺や花灯(はなび)の今後。

 どう転ぶにしても、ここが大きなターニングポイントであることに違いはないだろう。


 準備は万端。例の看板は昨日のうちに西校舎四階の空き教室へ運び込んでおいた。

 さきほど確認したところ、生徒会長である織姫(おりひめ)の指示もあって、予定通りの場所に配置もされている。


「よし――気合い入れるか!」


「いや、お前。選抜種目ぜんぶ補欠じゃん」


 なんて茶々を入れてくるのは、前の席で友人の高砂楓(たかさごかえで)


「言ってくれるねぇ……!」


 まったく、出鼻をくじいてくれるじゃあないか。

 確かに俺の参加種目は全生徒総出の綱引きと玉入れ、応援合戦くらいだが。

 それは断じてフィジカルが弱すぎるせいで戦力外通告を受けたわけじゃあない。


 俺にはこの大舞台の裏側でやらなければならないことがあるんだ。

 何なら俺側から謹んでスポットライトの座を譲ったと言っても過言――だな。


 うん。どうしようもないほどに過言だった。


「――それではただいまより、開会式を始めます」


 教頭の放送が入り、生徒たちが静まり返る。


 現在時刻は午前八時半。俺も楓も体育祭の開会式に備えて、すでにグラウンドに来ている。

 無論、他の生徒もそうだ。全校生徒、すべての教師、そして保護者などの来賓――。


「ええ、本日はお日柄もよく――」


 設営されたテントの中に、きちんと織姫の両親の姿も確認した。

 四月に会ったときとは確かに様子が違う織姫の母――風見舞歌(かざみまいか)

 その夫であり大企業風見グループのトップ――風見宗玄(かざみそうげん)


 織姫の父のことは『風見鶏』と揶揄されるほど打算的に会社を大きくした人間、と聞いていたので勝手な先入観としてこう、もみ手をしながらすり寄るキツネっぽい男を想像していたのだが全然違った。


 むしろあれは自分の信念を貫き通すためなら、どんな道だろうと迷わず進む男の目だ。

 ワイシャツにベスト、腕時計もシューズも上物だが、服装よりも何よりも、あの覚悟を決めた瞳こそが強く印象に残る。


 それでいて、やせ細った妻の手を優しく握るその所作。

 なるほど――関係性が見えてきた。


「――それでは生徒会長のほうから、宣誓と開会の合図をお願いします」


 校長の挨拶を終え、凛々しくも堂々とした雰囲気をまとう生徒会長――風見織姫が壇上に立つ。


「宣誓! 我々選手一同は、切磋琢磨した仲間たち、正しき教えを説いた先生方、いつも支えてくれた保護者の方々への敬意を胸に――後悔する隙がないほどに、全力を尽くすことを誓います!」


 この場にいる普段の彼女を知るものにとっては、きっといつも通りの光景なのだろう。

 水に濡れたような髪を風になびかせ、優雅な振舞いと透き通る声で、人々の心を奪っていく風見織姫という存在。


 けれど俺には。

 彼女の弱さを知った今の俺には――強く、どこまでも自分らしくあろうとするその姿が、以前の何倍も輝いて見える。


 開会の合図となるスターターピストルを上空に構えた織姫。

 一瞬、視線が重なった。


「――――」


 絶対に取り戻そう。

 そう言葉を込めて頷くと、織姫は静かに微笑んで、引き金にかかった指に力を入れた。


 ――号砲が鳴り響く。


 青き闘争心が交錯する祭り、家族の絆を結び直す戦い、崩れゆく青春を取り戻す物語――その幕が今、切って落とされた。


 なんて格好つけた言い回しをしてみたものの、開会式を終えた俺は観客席でのんびりと、最初の競技である学年別百メートル走の見物をしていた。


「……あ、ほら美原先輩いますよ。なんかクラスの女子からきゃーきゃー言われてるみたいですけど、結構人気なんですねー」


「勘違いの産物だって、前に複雑そうに話していたけどね」


 隣の席に座る花灯に言葉を返す。

 うーむ。待機列に並ぶ夏野。その服装は当然体操服なのだが、しかしこうして見ると……いいな。


 私服を何パターンか見てはいるが、体操服というのがまた新鮮でいい。

 気温が高くなってきてから見かける回数が増えたポニーテールもよく似合っているし。

 体育祭というシチュエーションゆえにかなり真剣な表情で、普段と比べると少し別人のような雰囲気。


 つまり夏野風に言い換えれば――よさみが深い、というやつだろうか。


 なんて、すれ違いの最中とはいえ、夏野への好意を自覚してからこうして改めて彼女の姿を見ると、自分でも怖いくらい惹かれているのが分かる。

 

「ふむ……なるほど」


「何か分かりました? 会長さんの両親のこと」


「え? あ、あー……まあ」


 夏野に見惚れていた、とは言わなかった。


 気合いを入れたはずの俺の心は、まだどこか弛緩しているようだ。

 行動を起こす予定時刻まで少し余裕があるし、変に力み過ぎないよう無意識にバランスを取っているのかもしれない。 


 体育祭の競技の順番は、最初が学年別の徒競走、次が学年対抗の綱引き、そこからクラス選抜の二人三脚と続いていくのだが、俺は二番目に行われる綱引きに参加しなければならない。


 舞台の裏側で動くにあたって、全員参加の競技をサボって教師陣に不信感を持たせるのは得策とは言えないだろう。いざというときに邪魔をされても困る。

 だからこそ、とりあえず綱引きが終わるまでは観客席で待機だ。


 それに花灯が言ったように、今のうちに来賓の観客席にいる風見夫妻の観察もできる。

 織姫に頼んで呼び出してもらった、普段なら絶対に接触できない人物だ。

 失敗しないために、どんな些細な情報でも拾い上げていかなければ。


「あの会長さんのお母さんの隣にいる男、親戚の人ですかね。仲良さそうに話してますけど」


 花灯に言われ、俺は焦点をその男に合わせた。

 年齢は二十代後半。すらりと高い背丈、体の線は細く、端正な顔立ちをしている。髪は黒で少し長いように見えるが清潔感は損なわれていない。笑った表情は爽やかだが、瞳の奥はどこか冷たい感触だ。


 格好としては白を基調とした珍しいデザインの服――。

 

「……あれは『イノセント・エゴ』の制服だ。それに二人が話すのを見て、夫のほうが下顎を僅かに強張らせた。嫌悪を抱いているんだよ。つまりは――」


「会長さんの婚約者ってわけですか」


 俺は深く頷いて、注意深く男の観察を続ける。

 今回の一件が失敗に終わったら、織姫はあの男と結婚するわけか。


「……あれ、なんか普通によくないです? 教団信者ってことを抜きにすれば、イケメンで優しそうな男の人じゃないですか」


「一見はね。……にしてもあの人、なんだか表情と骨格に違和感がある。整形したことがあるのかな」


「その言葉、僻みから来てません?」


「イケメン憎しみたいな気持ちで言ったわけじゃないって……」


 整形することに対して一家言あるわけでもない。

 ただ相手が人の心を利用し弄び、風見グループを乗っ取ろうとしている卑劣な輩となれば、話は多少変わってくる。


 もしあの男が本当に外科手術で自らの顔を変えていたとしたら。

 俺は先入観として"あの男の過去には顔を変えなければならない出来事があった"というイメージを持たざるを得ない。

 

 まったくの的外れで、見当違いかもしれないけれど。

 それでも曖昧な思考を巡らせるより、形にした考えを読み取った情報で矯正していくほうがスムーズに答えに辿り着けるから。



 ――目の前を、夏野が駆け抜けていく。



 遮られる視線。俺の目は自然と、走者を次々抜いて置き去りにしていく彼女の姿に吸い寄せられた。

 最初の競技である百メートル走。

 二年生の部で、夏野は堂々の一位を獲得した。


「美原先輩、足めっちゃ速いですね。なんか意外でした。元陸上部とかですかね」


「さあ」


 以前俺は夏野に対して、筋肉の付き方からしてスポーツはしていないと分析を下した。

 それは今でも覆らない。

 ならばこの結果は――その違和感は、夏野の心は。


「さて。そろそろ綱引きの準備です。行きましょう、冬馬くん」


「ああ」


 両手で頬を叩いて、気合いを入れ直す。


 全生徒参加の綱引き。それが終わればしばらく個人戦が続き、風見夫妻に接触できる時間が生まれる。

 号砲はすでに鳴り響いた。

 勝負のときは――近い。


 綱引きの待機列に向かう直前、俺は狙いを定めるようにもう一度、風見夫妻のほうに顔を向けた。


「……」


 夫妻は俺のほうなど見向きもしない。風見舞歌とは一応面識はあるものの、しかし俺の存在になど気付いてすらいないだろう。

 しかし――その隣にいる男は。不気味で仄暗い笑顔を見せるあの男は。


 ――俺を見澄まして、軽く挙げたその手を振っていた。

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