5話『養護教諭との交渉は鮮やかに』
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「……ふぁ~……」
「おいおい冬馬、寝不足か?」
あくびをした俺にすかさず声をかけてくるのは、同じクラスで前の席の友人――高砂楓。
ちなみに今は四限目の最中で、場所は一階の廊下。というのも身長、体重などを記録する身体測定を行っているのだ。
「まあね」
楓の疑問にそう答えると、やけに怪訝な視線を向けられた。
「お前今日、授業中ずっと寝てただろ。なのにまだ寝たりないのか?」
「……まあね」
そう答えて、再び壁に背中を預ける。
呼ばれるのは名簿順で、俺と高砂の順番はちょうど中間。
測定は始まったばかりだから、数分はこのままでも大丈夫だろう。
「おやすみ」
「お前の番が来ても起こさねーからな」
「先に呼ばれるのは楓だからどっちにしても無理だよ」
呆れる楓をよそに、俺は再び目蓋を閉じた。
測定の邪魔だからとブレザーを教室に置いてきたおかげで少し肌寒いが、ほかの生徒の話し声やグラウンドから聞こえてくる掛け声が、ほどよく騒がしくて眠気を誘う。
――そしてどれくらいの時間が経っただろうか。
背中を預けた固い壁が、まるでベッドのように柔らかく体を包み、どんどん埋もれていくイメージ。
先は暗い。だが不思議と不安はなかった。
まるで優しく包まれるようなその闇に溺れて――。
軽く頬を叩かれた。
「……?」
覚醒するのと同時に感覚が鋭敏になっていく。
右を向けば、保健室へと入っていく楓の後ろ姿が見えた。
起こさないと言いつつも、結局は助けてくれる。
ほんと、珍しいくらい親切なやつ。
「……ふぁーあ……」
気分はそう悪くない。時間にしてものの数分だっただろうが、それでも気分は晴れた。
さて、そろそろ俺の番だ。
寝る子は育つ。ぎりぎりだが間に合っていることを頼むよ、俺の体。
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「――身長、百六十九センチ、と。はい次は体重ね」
きっと鏡を見たら、この上なく不満げな表情をした自分が映っているに違いない。
保健室に入り、いよいよ始まった身体測定。
さらっと寝る子は育つ作戦の失敗を告げられ、何ごともなかったように体重を測られる。
「うーん、体重五十キロいかないかー。筋肉もないし、もう少し鍛えてもいいと思うな? 女の子にモテないぞ!」
余計なことをぶいぶい突っ込んでくるのは黒縁の眼鏡をかけた三十代の養護教諭。
まあ有り体に言えば保健室の先生だ。
名前は親切にも名札に書いてある。名取愛衣。外見のイメージとしてはお金持ちの家で立場の弱い家政婦として働いていそうな幸薄い感じがする。
だがそれは一見の先入観。
大人しそうに見えて意外にもずばずば切り込んでくるあたり、とても素晴らしい性格の持ち主のようだ。
カチンときた俺は、軽くトゲを仕込んだ声音で呟く。
「そっちこそ、若くてイケメンの王子様タイプばかり追いかけてるからいつまで経っても結婚できないんだ。貴女と本当に相性がいいのは年上で包容力のあるタイプだよ」
瞬間――ペン先を走らせていた養護教諭の手が止まった。
「なんでそれを……?」
「見れば分かる」
「はあ? て、っていうか余計なお世話ですぅー!」
「俺もそれが言いたかった」
余計なお世話返し。
「というかですね、君はあれよ。年上には敬語を使いなさい。社会に出て困るのは君ですよ」
「使えないのと使わないのは違うよ」
「……小学生みたいな言い訳するわね⁉ なにそのやればできるんですよアピール! は、小癪な小僧め! そういうのが許されるのは八頭身以上で、もんのすごい色気のある顔で、体はすらーっとしてるくせに意外と喧嘩とか強い年下イケメンくんだけなんだから!」
「……」
当然俺だってちゃんとした場や、尊敬している人と話すときは普通に敬語を使うし、仲良くなれそうな人は名前呼び、そうじゃない人は苗字呼びなどの線引きはしている。
だが昨日、織姫の母親に言ったように、失礼な態度を取ったほうが相手の本音を引き出しやすいのだ。
表面上互いに褒め合って腹の内を探り合うよりは、そっちのがよっぽど楽だろ。
「――ま、それはさておき、本題はここから。貴女と俺は今日が初対面。でも俺は貴女のことを言い当てた。これは力の証明だ。断言するよ、俺が協力すれば、貴女は狙いの男を絶対に落とすことができる」
「な、なんですって⁉」
意外といいリアクションしてくれるな。
割と好感触だ。これならこっちが主導権を持ったまま交渉を終わらせることができるだろう。
使えるかもしれないと持ってきた虫の玩具とかも必要なさそうだ。
「試しに一つアドバイスしてみると。好きな相手と並んで歩くときは、相手の利き手の側にいるといい。相手が右利きなら右側。左利きなら左側。人間は普段、利き手側を意識しているものなんだ。だからうまくいけば貴女の存在を常にアピールすることができる」
まあ表情を良く見せるために相手の右側に居座る手もあるが、この養護教諭の場合、それは相性が悪いだろう。
今まで失敗してきたのは、彼女自身の精神年齢が幼いからだ。
とっつきやすいと思う人もいるだろうけど、逆に頼りないと感じる人もいる。
年下を狙うなら絶対に主導権を握って先導し、包容力を見せたほうがいい。
あとはホテルに連れこんで既成事実を――と、流石にそれ以上考える必要はないな。
さて――反応は。
「……まず相手がいないんですけど……高校の時に告白後の初デートで秒で振られて以来一度たりとて相手がいないんですけど……」
なんか一人で勝手に落ち込んでた。思わず、誰か貰ってあげて、と言いたくなる。
というかフラれるのが早過ぎだ。何をしたんだよ。
「ああ。だからまずは出会い方もアドバイスするよ」
「本当⁉」
「……ええ、まあ。けどその代わり条件が一つ」
「乗った!」
聞く前に乗るな、というお約束の突っ込みはしないでおく。
あくまで冷静に話を続けるまでだ。
「身長の記入を百七十センチにしてくれるかな。ほら、そっちのほうがキリもいいし」
「了解!」
きらりん、と効果音が出そうなポーズと共に、書類を書き直す養護教諭。
正直今後も相手をしなければならないのは憂鬱だが、しかしまあ目的は果たした。
俺は他人には言わないが、身長百六十九センチという部分に少しだけコンプレックス――いやそうとも呼べない些細な……そう、ほんの些細な疑問を感じている。
例えば五センチとかならいざ知らず、身長の一センチなんか誤差だ誤差。
日によって変わるし、一日の中でも朝と夜で違うことだってある。
運動分野での身体測定だって二回測って優れた記録の方を採用するじゃないか。
それと同じだ。
それにこれは嘘じゃない。
日によっては本当に百七十センチ台になることもあるし、将来的に見れば余裕だ、余裕。
嘘は真実に変えられる。だから変える。
「はい、それじゃあ検査終了。今後ともこの喪女をよろしくお願いします。ほんとお願い」
「こちらこそ」
俺は適当に挨拶をして保健室を出た。
多少の憂いはあるが、絶対と豪語した以上は果たしてみせるさ。
……まずは相手を見つけるところからだけど。
いるかなぁ八頭身以上で色気があってすらっとしてるのに意外と喧嘩が強いイケメン。
さすがに生徒の中から見つけるわけにもいかないだろうし。そもそも校内にいたらもうアタックしているだろうし。というか教師と生徒で関係を持つのアウトだし。
何はともあれ、もうすぐ昼休み。
今日は朝作ったサンドイッチを持ってきているから、校舎内を探検しながら食べられる場所を探すとしよう。
ふふん、未知の場所を探検か。いいね、楽しそうだ。