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51話『――じゃあ、全部投げ出して、私と逃げるかい?』

 土曜日の朝。時刻は午前九時になろうとしている。

 俺はリビングで一人、ソファーに座り、紅茶を飲んでいた。


 ソーサーにカップを置く。代わりに手に取ったのはスマホ。

 昨日の夜、ドタバタしていて気付かなかったけれど、メッセージが二件ほど来ていたのだ。


 で、日が昇ってからこっち、もう長いこと返事を考えているがいい言葉が見つからない。

 相手は夏野(なつの)花灯(はなび)


 夏野の要件は、明日――つまり休日である今日はずっと暇で、『バタフライウインド』にいるつもりだから気分が向いたら来てほしい、というお誘いだった。


 そして花灯はそれに付け加えるように、夏野が最近俺に避けられていると感じていて元気がないこと、俺の過去を話すのも選択肢の一つだということ、最後に俺を心配するようなメッセージ内容だった。


 夏野に過去を話す――それは以前にも考えたことであり、そして結局できなかったことだ。

 花灯は知っている。

 知っていて、俺とも夏野ともそれなりに仲が良いからこそ、気を遣わせていることも理解している。


 こんなどっちつかずの態度がいつまでも許されるわけじゃない。

 けど、答えを出すにはもう少しだけ……勇気が必要だ。


「……」


 悩んだ末、俺は二人に、今は忙しいからあとで必ず埋め合わせをすると返事を送った。

 言い訳がましく、織姫のことを考えながら。


「……はあ……」


 重い溜息を吐いた。無論、自分に対してだ。

 客観的に自分の行動や感情、そして周囲の人の心が分析できたって、何でも思い通りになるわけじゃない。


 むしろ知ってしまったからこそ、俺は今、迷い戸惑い躊躇っている。

 

 無知は罪とは言うけれど、逆にそれこそ幸福という人だっている。

 知っているからこそ下せる選択があって、知らないからこそしなくていい選択がある。


「……」


 ――もう後には戻れない。なかったことにはできない。

 ならば知ってしまった責任を、教えてしまった責任を、俺はどう果たすべきなのだろうか。


 以前の俺はもっと物事を簡単に考えられていた気がする。

 復讐こそ生きがいで、青春なんか二の次で――けど今は、違う気がする。


 そんなことを考えていると、リビングの扉が開いた。



「……おはよう。すまない、私としたことが少し寝すぎてしまったようだ」



 現れたのは織姫。長い黒髪を三つ編み一束にして、服装も寝間着から以前にも見たパンツルックになっている。

 

「寝足りないよりはいいさ。朝食にサンドイッチを用意してある。今持ってくるよ」


「本当、何から何まで世話になってすまない」


「いいよ。だからそんなに謝らないで」


 俺はリビングを出てキッチンへ向かう。

 用意した朝食はサンドイッチ三種類。ハムとチーズ、卵、そしてフルーツサンドだ。生のフルーツは体の調子を整えてくれるし、幸福感も与えてくれる。


 我ながらいいチョイス。

 ついでに紅茶も用意して、リビングに戻り、テーブルに皿とカップを並べた。


「さあ、どうぞお嬢様」


「やめてくれ。……ありがたく、いただきます」


 それからしばらく、何をするでもない時間が流れて。

 

「冬馬君は普段から料理をするのか? 見たところ、一人暮らしをしているように思うのだが」


「まあ簡単なものなら作るよ。夜は外食が多いけど」


「……なるほど。なあ、冬馬君。もしよければ昼食は私が作ってもいいだろうか? これでも料理の腕には多少の自信がある。何か、返させてほしいんだ」


 そんな会話があり、時刻はあっという間にお昼。

 昼食は話の通り織姫が担当し、少ない食材の中で和風の冷製パスタを作ってくれた。


 食事はリビングではなく食堂で。

 この洋館は広いだけあって、料理店のようなちゃんとしたキッチンと食事を行うためのフロアがあるのだが、普段は俺もたまにくる涼子さんもリビングでラフに食べてしまう。

 

 なのでこうしてきちんとマナーのある食事を行うことはほぼ初めてのことだったのだが、織姫との雑談に花が咲いたおかげか退屈や息苦しさは感じなかった。


 織姫と話したことは本当に他愛もないもので、俺が午前の授業をよく寝て過ごすこと、もうすぐ来る体育祭のこと、生徒会メンバーのことなどを話題に上げた。

 

 それから小綺麗で広い洗面所に行って二人並んで歯を磨き、止まっていた洗濯機から洗濯物を取り出して庭に干し、普段サボりがちな掃除をした。


 織姫は汚れた窓を綺麗にしてくれて、俺は庭の落ち葉をかき集めた。

 昼下がりのティータイムには普段コンセントを刺してもいないテレビをつけて、夏野に選んでもらった短編のアニメ映画を見た。


 未だ織姫の抱える事情の詳細を聞き出せてはいないが、俺と彼女の心の距離は間違いなく縮んでいる。

 昨日は話したいときに話せばいいと言ったが、しかしこの問題は時間をかければかけるほど、重く大きくなっていく。


 今夜あたり、それとなく尋ねてみるか。

 そんな行き当たりばったりな考えを巡らせる俺に、ふと、織姫が声をかけてきた。


「なあ冬馬君、夕食はどうしようか? 再び私が作るのも全然やぶさかではないというか、むしろ任せてほしい気持ちがあるのだが。いかんせん……食材がない」


「あー……確かにそろそろ買い出ししないとって思ってたんだ。んー、じゃあ、適当に買いに行こうか」


「あ、だが私は今……持ち合わせが……」


「調理は織姫が担当してくれるんだから、気にすることはないよ。ほら、行こう」


 時刻は午後四時半。俺と織姫は少し遠いが品揃えのいいスーパーに向かうことにした。

 南坂、長い傾斜を二人並んでゆっくりと歩く。


 空はまだ明るい。気温も少しずつ高くなっていて、湿気のある風が吹き抜ける。


「……もうすぐ夏だね」


 風に揺れる前髪、そういえば前に髪を切ったのはいつだっただろうか。少し、伸びてきた。


「夏と言えば昔、私がどうしても海に行きたいと言って祖母を困らせたことがあったんだ。冒険気分で勝手に家を出て、でも結局お金がなくて電車に乗れず、海に行くことはできなかった。……ああ、そうだ」


 織姫はおもむろに、ポケットの中から濃紺のお守りを取り出した。

 

「これはそのときに貰ったんだ。私がもう少し大人になって、ふと海に行きたいと思ったときはこれを持ってなさいって」


「安全祈願とも厄除けとも書いてないみたいけど、何のお守りなんだろう」


「さあ。持っているのが当たり前になるくらいには持ち歩いているが、体調も崩すし厄もそれなりだよ」


 そう言って織姫は軽く笑った。

 海に行きたいときに持ってなさいか――普通に考えれば織姫の安全を願うものなのだろうけど、でもそれってまた一人で勝手に家を出ることを想定しているというか、肯定しているみたいだ。


 もし織姫の祖母がそれを是としていたなら。一人で家を出て冒険することを、貴重な経験のように思っていたのだとしたら。


「……それ、中にお金が入ってたりして」


「はは、まさか。……まさか、な」


 そうして話しているうちに、スーパーへと到着した。

 普段混み合う時間よりは少し早いが、それでも休日なだけあって人は多い。

 

 もしかしたら誰か知り合いがいるかもしれない。

 万が一にも俺と織姫が一緒にいるところを桔梗高校の生徒にでも見られたら、またおかしな噂が立つかも。


 懸念というほどでもないが、けれどもしそうなれば、織姫の負担はより増してしまうだろう。

 なので俺は。


「織姫はメインをお願い。俺は調味料とか、適当に使えそうなものを見てくるよ」


「ん、了解した」


 そう言って買い物を分担することにした数分後――予感は的中した。



「冬馬くん?」



 舌足らずな声が後ろから聞こえた。

 振り返るとお洒落した小学生――ではなくクラスメイトの琴平花灯(ことひらはなび)がいた。

 

「……やあ、あー、偶然だね」


 今朝、忙しいから会えないという旨の返事をした手前、なんだか妙に気まずい。

 一方で花灯は心配そうに、俺の顔を覗き込んできた。


「大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけど。もしかしてまた寝てないんですか?」


「あ、ああ心配しないで。今日は家の掃除とかして疲れたから、きっとよく眠れる」


 そう言いながら、俺は一歩後ろに下がった。

 危うく棚にぶつかりかけたけれど、でもなんだか、真っすぐに俺を見てくれる花灯の目を直視できなかったんだ。


「それ、答えになってませんよ。……お医者さんに行ったほうがいいです」


「……そうだね、考えておく。ところで花灯はどうしてここに?」


「美原先輩とタコパをしようという話になりまして。材料の買い出しです。会場は美原先輩の家なんですけど、来ますか?」


「いや……せっかくだけど……」



「――――あ、いた、冬馬君。君は肉と魚、どっちがいいかな。……ん、そちらは?」



 花灯からの誘いを、またも断ろうとした俺に、声がかかった。

 

「風見……織姫……?」


 俺が返事をするより先に、花灯がその名前を口にした。


「ああ、いかにも。君は冬馬君のクラスメイトかな。初めまして、よろしく」


 織姫はそう言って花灯に右手を差し出す。

 次の瞬間――ぱちんと、何かがはじけたような音が響いた。


「む……?」


 織姫が首を傾げた。当然だ。だって初対面であるはずの花灯が、友好的な織姫の手を弾いて拒絶したのだから。

 それは俺から見ても驚きだった。

 今の花灯には明らかな怒りがある。歯を食いしばり、親の仇でも見るような目で――――親の、仇?


「冬馬くん。一応聞いておきます。最近、美原先輩と疎遠になったのってその女が恋人になったからですか?」


「違う。そうじゃない」


「……なら林間合宿のときみたいに、人助けですか? また……一人で……」


「それは……」


 続く言葉がでない。頭が真っ白になって、何を言うべきかまとまらない。

 そんな俺を見て、戸惑う織姫を見て、花灯は大きくため息を吐いた。


「まあいいです。どうせ私、その女のこと嫌いなので。悪いですけど何も手伝いませんよ。だから早くここを離れてください。……じゃないと美原先輩が……」



「――ウチが、どうかした?」



 横から、久しく聞いていない声が聞こえた。

 美原夏野――彼女がここにいることは予想できた。花灯は夏野と食材の買い出しに来たのだから。


「……いやぁ、ほんと、参っちゃうなー、ははは」


 夏野は花灯の後ろを通り、俺を見ながら、織姫を見ながらゆっくりと歩みを進める。

 

「友達でもいいって言ったのはウチで、隠しごととか気にしないって言ったのもウチで、白雪くんはウチとの距離を、ウチとは別の意味でずっと気にしていてくれたよね」


 夏野の幸せな日々を振り返るような優しく声が、俺の耳に届く。


 俺たち三人を背にして足を止めた彼女は、屋上で初めて出会ったときのように、長い茶髪にその輪郭をぼやけさせた。

 小さな肩は震えていて、綺麗な手はぎゅっと握られていて。


「多分そこには白雪くんなりの気遣いとか、気持ちとかあって。だから――でも、ごめん。前言撤回して、一個だけわがまま言っていい?」


「待ってくれ夏野。君は誤解をして――」



「……付き合ってるなら……そう言ってよぉ……っ……」



 振り返った夏野の頬には、涙が滲んでいた。

 優しい声音は悲しみに塗れ、懇願するように濡れている。


「そうじゃないんだ夏野。君が泣く必要なんてない。一度落ち着こう」


「なら、どうして……教えて……?」


「それは……」


 ――言えない。

 俺の過去も、織姫の事情も。夏野を巻き込みたくない。


 逡巡、それが沈黙へ繋がり。

 何も言えないまま刻一刻と時間は流れて。


「……っ」


 夏野が踵を返して、その場を走り去った。

 

「ッ――夏野!」


 俺はどうすればいいのかも分からないまま、夏野を追って外に出る。


 でも間に合わなかった。

 いや、もしかしたら俺が無意識のうちに、見ないふりをしてしまっただけかもしれない。

 本当はまだ全力で走ればその手が届いたかもしれない。


 けど結論として、俺は夏野を見失った。


「……何をやってるんだ……俺は……!」


 夏野を巻き込みたくないと遠ざけて、結局彼女を一番傷つけてるのは俺じゃないか。

 

 でも、だけど、怖い――分からない。俺は自分で自分の心が分からない。

 今まで俯瞰して見ていたはずの光景が、真っ暗になり、気が付けば地に堕ちていた。


「俺は……どうすればいいんだ……」


 復讐相手の殺人鬼はまだ見つけられず、どっちつかずな態度で人を傷つけ。

 そんな中途半端な俺は――過去に縛られた俺は、正解も間違いも見えない。


 ――こんな感情は初めてだった。


 楽になりたい。嫌なことは全部忘れてしまいたい。


「……いっそ……全部、投げ出したら……」


 うまくいかないから、納得できないから。

 消えてしまうものから目を背けて、リセットするように――。



「――じゃあ、全部投げ出して、私と逃げるかい?」



 追い付いた織姫が、俺の横で悲しそうに微笑む。

 右手に持っている濃紺のお守り――解かれた紐の隙間からは一万円札が顔をのぞかせていた。

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