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49話『誰だって無垢な子供に戻りたいときがある』

 時刻は午後九時を回ったところ。

 少し遅い時間になってしまったが、俺は織姫(おりひめ)に温め直した食事を届けるため、客室に来ていた。


「体調はどう?」


「………………可もなく不可もなく」


 と、枕に顔を埋めた織姫が、小さな声で返事をした。


「……明日起きたら……全部なかったことになってないかなぁ……ぁぁぁぁぁ……恥ずかしぃ……」


 さきほどからこの調子だ。いつもの凛とした口調もどこへやら、俺と顔を合わせようとせず、織姫はただただ項垂れている。


 長湯したことでのぼせてしまい、俺に裸を見られ、そして果てには重いとまで言われたことが相当なトラウマとなったのだろう。


「……その、ごめんね」


 言い訳の余地なく、大半の原因が俺にあるのだ。本当に申し訳ないと思っている。


 なんで俺は織姫の心身を回復させようと意気込んでいたのに、むしろその心を傷つけているのだろう。


 言われるまでもなく、俺は自分の体が男としていかに頼りないかを知っている。

 体重なんか女子と同じくらいだし、筋肉もないし、骨も簡単に折れそうだし。


 そうだな。反省して、女の子をお姫様抱っこできるくらいの男にはならないとな……。

 人間、成長を止めたら死んでるのと変わらない、というやつだ。


 そんな決意をしたところで、しかしかといって状況が好転したわけでもない。

 俺の心境とは別に、織姫の心に刺さった棘を抜いてやらなければ。


 問題はどうアプローチするか……だな。


 織姫が気にしているのは、まず自分の不甲斐なさ。次に裸を見られたこと。最後に重いと女子にとっての禁句を言われたこと。

 多分体重に関しては織姫自身、以前から思うところがあったのだろう。だから余計にダメージを受けたわけで(誤解のないよう補足すると、織姫の体重は平均的だ)。


 ってことは織姫の自己肯定感を上げれば、大方の問題はクリアできるはずだ。

 

 そのための方法を俺は知っている。

 誰かに教えてもらったわけではないけれど、俺自身が身をもって体験したんだ。


 十七夜月(かのう)さくらによる冬馬白雪(とうましらゆき)の更生計画――思い出の中に置き去りにされた、あの時間を思い出せ。


「織姫先輩、ちょっと俺のほうに寄って」


「…………むり」


「なら無理にでもだ」


 かつて、さくらが俺にしてくれたことを模倣するように。

 俺は織姫の髪をそっと撫でて、もう片方の手で肩を抱いた。


 あいにく体を支えているのはベッドだが、それでもお姫様抱っこのような、もしくは赤子を優しく抱く親のような体勢になる。


 顔を覆っていた枕が剥がされたことで、織姫の朱に染まった顔が俺の腕の中で露わになった。


「ぁ…………、……」


 切り揃えた前髪。切れ長の目。長い睫毛。小さな鼻。瑞々しい唇――織姫は口をぱくぱくして、声にならない訴えを起こしている。

 俺は精一杯優しく微笑んで、柔らかい声で言葉を紡ぐ。


「織姫先輩。恥ずかしいなら目を閉じて。慌てる自分を落ち着かせるように深く息を吸って――吐いて。さあ、思い出すんだ。これまでの人生で、一番幸せだと思えた時間はなんだい?」


「…………」


「ゆっくりと記憶の階段を下りていくんだ。一段下がるごとに幸せな記憶が蘇る。嫌なことは思い出さない。幸せなことだけが見えてくる――」


 織姫の眉間に入っていた力が、緩やかに抜けていく。

 そのまま深い眠りに落ちるんじゃないかと思うくらいに、腕にかかる重さが増した。


 リラックス状態に入った。

 今、織姫の目にはもっとも幸せを感じたときの光景が浮かんでいる。


「さあ――何が見えた?」


「……祖母が……、おばあちゃんが……笑っている。小さな私も一緒だ」


 織姫の目元から雫が零れ落ちた。

 今はもうこの世にいない、祖母の姿を思い出して。

 死という事実を内包した――けれども否定できないほどに幸せで心が温かくなるその光景。


「昔から、両親と一緒に居られる時間が少なかった。その寂しさを埋めるように、おばあちゃんが一緒に居てくれて……よく飴をくれて、ご飯を作ってくれて、遊びを教えてくれて、人として大切なことを学ばせてもらった。家族がそばに居てくれる温もりを……貰ったんだ……」


 ――家族。


 俺がその優しい熱をさくらから教えてもらったように、織姫は祖母から貰ったんだ。

 両親と距離があり、自分を見失いかけて、他者に導かれ――その果てに、失ったのだ。


 きっとまだ話したいことだって、あっただろうに。

 

 いつか、誰かが誰かに問うていた。

 この世に絶対はあるか、ないか。


 相手はないと答えた。努力次第で人間はなんだって変えられる、と。

 前向きな答えだ。俺も決して嫌いな考え方ではない。


 でも絶対はある。

 人間は、生命は――いつか絶対に終わりがくる。その事実は変えられない。変えてはならない。


 ただ残されたものは、受け入れるかそうでないかで。

 そしてどうしようもないほどに、俺も織姫もまだ、大切な人の死を受け入れられていない。


「――織姫先輩、そのままで聞いて」


「うん」


「貴女はきっと、明日も明後日も、行く当てがないと思う。だから可能な限りこの家に居てもいい。貴女に帰る家がないというのならここを自分の家だと思っていい。俺のことも家族だと思って」


「……」


「何の遠慮もする必要はない。どんな姿を見せたっていい。俺は貴女の弱い部分を見限らないし、落胆も何もしない。全部を受け入れるよ。――今まで辛かったね。織姫はよく頑張った。偉い」


 ぎゅっと、小さな肩を抱きしめた。

 一瞬、何か水風船のような感触がみぞおちに当たって何事かと焦ったが、思い返せば織姫は今下着をつけていないんだった。


 胸の感触――副産物的にこういう思いをしてしまうのは、どうにも罪悪感を覚えるのだが、しかし織姫はそんなこと気にせず、俺の胸にくっついて静かに泣いていた。


「うぅ……う…………ぁああ…………」


 せき止めていたつっかえが取れて止めどなく。

 まるで決壊したダムのように溜め込んでいた感情が溢れ出す。

 

 よしよし、と背中を撫でてあげると、織姫はさらに泣き声を大きくした。

 

「ああぁぁ………う、ぁ……っ‼ ……はぁ、はぁっ……ズピー――‼」


「……んぁ?」


 なんだか今、明らかに鼻をかんだ音が聞こえたんだけど……。


 何でも受け入れると言った手前、できればティッシュを使ってほしいとは言い出しづらかったので、とりあえず俺は動かないでいた。


 よく母性をくすぐられるという言い回しがあるが、こうも気持ちよく泣いてくれる織姫を抱きしめていると、なんだか子供を持った父親のような感じで不思議な気分だ。


 ……悪くない、かもしれない。こういうの。

 


 数分後。落ち着いた織姫は、まるで雨に打たれたあとのような俺のシャツを見て、恥ずかしそうに再び頬を赤く染めていた。

 

 さすがにこのままでいるわけにもいかないので、織姫が夕食を済ませている間に、入浴に向かう。

 

 そこでふと気が付いたのだが、脱衣所に織姫の私服や下着が置きっぱなしだった。

 洒落たデザインのシャツに黒いジーンズ。あと黒いブラとパンツ。


 もうすっかりお父さん気分だった俺は、黒いものから先に洗濯機に放り込んで入浴を済ませる。

 それから再び客室へ。


「入るよ、織姫」


 空になった器を回収。これから洗い物を済ませて、その間に明日の朝の献立を考えて――日が昇ったら洗濯物を干して、なんて今後のイメージを膨らませていると。


「……あの、冬馬君……」


 ベッドの上でしおらしくなっている織姫から声をかけられた。

 

「どうかした?」


「いや……その……、だな」


 髪を指先で弄りながら目を伏せて、照れるような仕草で、織姫はぼそっと言った。



「寂しいから一緒に寝よぉ……?」



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