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番外編『高砂楓の休日(2)』

「待ちやがれ――‼」


 泥棒の男を追いかけて、俺はただひたすらに走る。

 曲がり角、何も知らない人が歩いてきて――ぶつかる直前で体を捻り何とか回避。

 

「――――」


 男がちらりと、追いかけてくる俺の姿を見た。

 

「わりぃ、どいてくれ!」


 日曜日。大通りには人が多い。先を走る泥棒を避けて距離を取ってくれる人もいるが、そうじゃない人もいて――。


「ッ――」


「おい危ないだろ!」


 怒号が背中に刺さる。幸い人にぶつかることはないが、ぶつかるかもしれないという不安を煽ったことは確かで、本当に申し訳ない。


 でも、それでも――あいつだけは逃がせない。

 どんな事情があったって、人のものを盗んでいいなんてことはないんだから。


 それを見逃していい理由が――俺にはないんだから。


 刹那――男がすれ違いざまに、近くのビルから出てきた、清掃道具を積んだワゴンを倒した。

 縮まりかけてきた俺との距離を引き離すための一手だろう。


「ごめん……!」

 

 俺は倒れたワゴンを飛び越え、そのまま走る。

 しかし、ワゴンに一瞬だけでも気を取られたことは否定できない。


 男の姿を見失った。

 が、俺は動揺することを堪え、すぐそばの路地へと入る。


 確か前に冬馬が言っていた。追い詰められた人は安心を求め、それが行動に出てしまうのだと。

 泥棒の場合、周囲の人間に見つかるとまずいので、人のいない道を無意識に選んでしまう。


 つまりこの場合は人のいない裏路地に――。


「――い、ない? いや、上か!」


 視線を上に向けると、非常用の梯子を登っている男が見えた。

 その後を追う。


 コンクリートでできたビルの屋上に出た直後、別の隣接した建物に飛び移る男の姿を捉えた。


「……なんて道を行きやがるんだよ……!」


 すかさず俺も助走をつけて屋上から屋上へジャンプする。

 足を挫かないために着地と同時に前転、すぐに体をバネのようにして駆け出す。


「ッ――は、ぁ――‼」


 ビル、アパート、いくつかの建物の屋上を通り過ぎ、段差を飛び越え、室外機を足場にもっと高い場所へ、それから屋根を滑り下りて、ジャンプ。

 また別の建物に飛び移る。


 過酷な鬼ごっこ。しかし向こうも限界が来たのだろう。

 追われる側というのは、追う側よりもプレッシャーがかかるものだから。


「――――」


 高い建物から低い建物へと、段々になるように移り続け、最終的に男はどこかの工場の非常階段に飛び乗り、扉を蹴破って中に入った。


 俺もそれに続く。

 中は薄暗い。機材や作業用のテーブルには青いビニールシートがかけられている。


 廃工場、というよりは潰れたばかりの工場、か。

 階段を伝って下に行くと、観念したように男が俺を待ち構えていた。


「……君はなに? あの女の知り合い?」


 中肉中背、年齢は三十代半ば。身長は俺と同じくらい。

 疲れ切った声で、男は問いかけた。


「いや――ただの通りすがりだ」


「……青臭い偽善者だね。悪いけど俺は金が要る。これ以上君についてこられると困るよ」


 男は盗んだバッグを近くに放り、ポケットから"それ"を取り出した。

 四月下旬。友人からのメッセージを受けて、空き教室に飛び込んだときのことを思い出す。


 常盤大河(ときわたいが)――あいつも、この男と同じようにカッターを取り出したんだっけな。


「これが最後のチャンスだ。今なら俺は君を見逃せる。そして君も俺を見逃せる。そうすれば誰も痛い目を見ない。平和的解決を望むならそうしてくれ」


 選択肢が提示される。


 見逃すか、見逃さないか。


 命を賭けるか、賭けないか。



 ――答えなんか最初から決まってる。



「わりぃけど。見殺すくらいなら人殺しでありたいってのが――俺の信条なんだ」


 そっと息を吐き出し、腰を低く、いつでも動ける体勢になって――。


「それにてめぇはもう充分なほど、そのバッグの持ち主を傷つけてるだろ!」


 全力で俺は駆け出した。

 床は埃やら砂利が散乱していたが、踏み込みが甘くなるほどではない。


 十数メートルの距離を即座に詰めて、男にタックル――と同時にその体を腕でホールドし、遠心力を利用して投げ飛ばす。


「――――ッ」


 地面を転がる男と、追撃する俺。

 狙いは男の右手。カッターだ。それを蹴飛ばし、まずは武器を遠くへやり、立ち上がりざまに反撃に出る男をあしらう。


 俺の足元を崩すように、刈るようにして、足払いを繰り出す男。

 それをとっさに蹴り返すことで相殺、低い位置からくる拳を身を引くことで躱す。


「ッ――!」


 からのカウンターで、顔面を狙って拳を放つ。

 大振り。さすがに向こうも反応し、潜るように避けてカウンターにカウンターをしてくる。


「ぐっ………!」


 腹に一撃入れられて俯いた俺の背中に、男はすぐさま手をつき、体重をかけながら飛び越えるように背後へ移動。そのまま体を抱えられ、俺は地面に放り投げられた。


「……ッ……‼」


 掴みが甘かったおかげで何とか受け身を取ってすぐに立ち上がれた。が、すかさず男はジャブをかましてくる。

 何発か受け、何発かを躱しながら俺は壁際に追いやられて。

 さらなる追撃――男は即座に俺の脇の下から腕を通して肩を掴み、流れるように壁に叩きつけようとする。


「……ッ‼」


 瞬時に足を構えて壁を蹴り、何とか叩きつけられるのを回避。

 しかし勢いのまま逆方向に投げ飛ばされた。


「うぉ……⁉」


 その先にあるのはビニールシートが被せられた長い机。

 机上を滑るように転がり、地面に落ちる。同じように机の上を滑る勢いで追ってくる男。


 着地と共に馬乗りになって、俺の顔めがけて拳を振り下ろす。


「ぐッ……」


「殺しはしないさ!」


 再び一発殴られ、二発目が右手でガード。

 三発目が繰り出される前に、男の股間に蹴りを入れて、拘束から抜け出す。


「ぁア……⁉」


「ッ――‼」


 激痛に怯む男を見て、今がチャンスだと俺が駆け出そうとしたが――瞬間、男が俯いたまま突っ込んできて、俺は受け止めきれず再び壁際に追いやられる。


「ッ……ァ⁉」


 背中を強打し、男の肩が腹に食い込む。

 全身を電流が駆け巡り、怯んだところを男に頭を掴まれ、顔面を壁に叩きつけられそうになって――。


 直前で両腕を顔と壁の間に挟んでガード、振り向くように強引に手を払いのけ、男が一歩引いた瞬間、その胴体に足を構えて蹴り飛ばす。


 再び、互いの間に距離ができる。

 男は近くに転がっていた鉄パイプを掴み――俺を睨んだ。


 一方で俺は、着ていたTシャツを脱いで、紐のように細くねじり両端を持つ。


「――――」


 それから大きく息を吸って――吐いて――吸って――地面を強く蹴り飛ばす。

 

「は、ッ――!」


 男は嘲笑うように、向かい来る俺の頭を狙って鉄パイプを振るう。野球のバッティングのように。

 俺は、それを姿勢を低くすることで躱し、男の背後に回った。


 当然、男はさきほどよりも低い位置を狙って、振り向きざまに鉄パイプで薙ぎ払おうとして。

 それに合わせて、俺は紐のようにしたTシャツを構え、先端のほうを受け止めた。


 ――それで終わりではない。


 刀と刀が繰り広げる剣戟――その鍔迫り合いの中で、重なりあった刃を滑らせて距離を詰める技とも呼べない手段があるように。


「うらぁぁッッ‼‼」


 鉄パイプを受け止めた布を滑らせて接近し、そのまま渾身の頭突きをお見舞いしてやる。


「ッッ、あぁぁ⁉」


 さらに怯んだところを見逃さず鉄パイプを引っこ抜くように奪い、投げ。


「歯ァ食いしばれ――‼」


 構え直した拳を思いっきり――叩き込んだ。


「――――ガ……ッッ、畜、生…………」


 地面に倒れた男が吐き捨てた言葉。

 俺はTシャツを着直して、こう答えた。


「喧嘩したら、勝っても負けてもそんなもんだ」


「……時間が、ない」


 殴られて、倒れたままの泥棒男がそんなことを言った。


「俺の負けだ。そのバッグは返す。これ以上君に付き合っている時間はない。だからそれで勘弁してくれ」


 汚れた全身をぱんぱんと叩きながら、男が立ち上がる。

 なんだ、バッグ返す代わりに見逃せと言われているようだが、どうしたものか。


 確か一般市民が臨時的に犯人を逮捕できる――いわゆる『私人逮捕』というのは現行犯が原則だ。

 こういう場合、盗んだものを返されたらどうなるんだ?


 警察が来るまでコイツを取り押さえるってのも多分不可能だ。

 ……けどここで見逃せば、また別の人が被害に遭うかもしれない。


 ってことはだ。


「なあアンタ、どうして金が必要なんだ? 時間を気にしてるみたいだけど、何かに追われてるのか?」


「なぜそんなことを聞く」


「よく分からねぇけど、アンタは人のものを盗むくらいには追い詰められてる。ここでアンタを見逃せば、アンタは結局、別の人のものを盗むだろう。そんなの埒が明かない。だからもし、俺が何か手を貸すことで、誰にも迷惑をかけない方法が見つかるってんなら――俺は協力したい」


「……」


 男は大きく息を吐いた。呆れるように。


「君は、俺を助けようというのかい? 信じがたいな。誰のためにそんなことをする」


「――俺のためだ」


 真正面からそう言ってやると、男は肩をすくめて、やれやれとでも言うように両手を挙げた。

 

「少年、俺だってできる限り、誰にも迷惑をかけずに生きるつもりだったんだ。……もう行くよ。警察が俺を捕まえてくれるというならそれでもいい。ただ一つだけ忠告を残す。――『イノセント・エゴ』には気を付けろ。アレに関われば、君の未来は閉ざされる」


「――――」



 結局、俺はバッグを置いていった泥棒男を追いかけなかった。



 『イノセント・エゴ』――それはこの水波市にも拠点を置く宗教団体の名前。


 詳しい思想や、入会することで得られるスピリチュアルパワーなどは知らないが、その評判はまあそれなりにはいいはずだ。


 もっともそれは表向きの話。

 ネットではもっぱら話題に事欠かない。もちろん悪い意味で。


 とある事件の犯人は元『イノセント・エゴ』信者だとか、マスコミや警察はそのことを隠蔽しているとか、巨大企業の内側あるいは政府の中枢にまで入り込んだ信者がいるとか。


 とにかくできることならば名前を出すことすら避けたい団体だ。


 もしかしたら、あの泥棒男は『イノセント・エゴ』の信者で、教団から逃げてきたのかもしれない。

 生きるためにお金が必要で、窃盗に走って――。


 そんな馬鹿げた妄想が現実にありえるかもしれないと思えるほど、宗教団体『イノセント・エゴ』はこの世の中で異彩を放っている。


「『イノセント・エゴ』には近づくな、か。……その忠告、もっと早くに聞きたかったな」


 潰れた工場を出た俺は、近くを走り去るハイエースのエンジン音を聞きながら、バッグを届けるために交番へと歩き出した。

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