40話『私を追いかけてきて、いつか辿り着いてくれるか?』
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「相変わらず悪くない腕前だな、白雪。その調子で頼むよ」
「……ああ」
なんだかんだと、持参したスポンジにボディソープをしみこませ、十七夜月さくらの体を洗う俺。
一点の穢れもない真白の肌を傷つけないように、細い手足を折らないように、優しく撫でるようにして、頭のてっぺん……ではなく、うなじから足の爪先までをなぞり、それから適温のお湯で泡を流していく。
「それじゃあ、次は私の番だな」
「……うん」
実のところ、こうしてさくらと一緒にお風呂に入ることは、初めてではなかった。
というのも十七夜月家に引き取られたばかりの頃、俺はとにかく何もかもが欠落していて、傍から見れば少し叩くだけで粉々に砕けてしまうような危うさがあった、らしい。
だからだろうか、さくらはそんな俺を見かねて、様々なことを教えてくれた。
思い出させてくれたと言ってもいい。
感情表現から人間らしい生活の仕方に至るまで、とにかく彼女は愛を持って俺という人間を再構築してくれた。
その過程で、お互いに体を洗い合ったり同じ湯に浸かったりと、そういうことがあったのだ。
で、それを今でも時々、リハビリの経過観察のように続けている。
スポンジで背中をこすられている最中、ふと気になったことを俺は口にした。
「ねえ、前から気になっていたんだけど、どうしてさくらは俺に優しい……っていうか気にかけてくれるのさ。周りの人たちとは仲良くなろうとしないのに」
「それは君が家族だからだよ。家族ならば愛することは当然と言えるだろう? それに一つ訂正しておくと、仲良くなろうとしないのは私ではなく周囲のほうだ」
「でも義父さんや義母さんの愛してるとは、少し違う気がする。普通はこんなこと、しないと思う」
「さっきも言っただろう? 私は普通とかそういったものの外側にいる。無論君が、こういうことは嫌だと言うなら――私を否定するなら、もうしないと誓うよ」
「……それは、難しいよ。だってさくらは神様みたいなものだから。俺にいろんなことを教えてくれて、沢山のものをくれた。そんな風に言われたら、嫌なんて言えない。ただ本当に、どうしてかなって思っただけなんだ。どうして俺みたいなやつに優しくしてくれるのか……」
今となっては、十七夜月さくらのことを特別な人間ではなく、孤独な人間だと考えることができるものの、しかし彼女の本質は、本音は、本心は、いつまで経っても分からない。
銀髪碧眼。顔は過剰なまでに整っていて、憂いを帯びた微笑みは見たものの心を分け隔てなく奪っていく。
小柄だがスタイルはよく、女性としての魅力も中学生とは思えないほどにある。
才能にも恵まれ、天才的な頭脳を筆頭に、スポーツや芸術の分野でも彼女は結果を残していた。
スポーツはいつの間にかやらなくなったらしいが、その代わり中学に上がるまでは、ピアニストとしても活動していたはずだ。
誰からも愛され、望むものも望まぬものも、そのすべてを手に入れてきた少女。
一方で俺は誰からも愛されず、望もうが望むまいが、そのすべてを奪われ、捨ててきた。
なにがどうして、俺とさくらはこうも深い関係になったのだろうか。
せいぜい、女神であり聖母のような彼女の気まぐれで慈悲を与えられている、くらいしか考えつかない。
「――――」
刹那、さくらの手が止まった。
それからすぐに彼女はスポンジを手放して、するりと蛇のように腕を、やがては体全体を俺に絡ませる。
「……っ」
どくん、と心臓が高鳴った。
体の芯がどんどん熱くなっていき、血液が沸騰していくようだ。
俺とさくらの距離はゼロ。
柔らかい胸の感触が、涙が出るほどに優しい体温が、熱を帯びた吐息が俺を捕まえて離さない。
「――どうだ」
脳髄に響くような囁きが俺の体を震わせる。
「……どうって……?」
「君は今、何を感じ、何を思っている。さあ――遠慮せず言ってみろ」
「……温かくて柔らかくて……気持ちいい……。でも……こんなの……どうして……」
さくらはそっと、俺の耳に息を吹きかけた。
まるで今から言うことを絶対に聞き逃すなと、全神経を集中させろと言わんばかりに。
俺がそれに驚いて体を震わせれば、重なったさくらの体との摩擦が、さらに心を侵食していく。
そして彼女は告げた。
「――もし私が穢されるなら、その相手は君がいい」
甘くも艶やかな声に思考が、脳そのものが蕩けていく感覚。
「……っ……」
俺の全身はさくらから与えられる快感に過敏なほど反応してしまう。
この熱を遠ざけようとしても、さくらは滑らかな肌を使い、別の角度から俺に密着して逃がしてはくれない。
「君は嫌か?」
「……嫌、とかじゃなくて……家族とは、こういうことしない……さくらが俺に教えてくれたんじゃないか……常識とか人並みの生活とか……こんなのは普通じゃ……」
「なら嫌だと拒絶するんだ。君の本心を曝け出せ――白雪」
さくらは俺を試すような言葉をかける。
でも、無理だ。
何も考えられない。
だってさくらは普通じゃない。特別だ。いつも口癖のように言っているじゃないか。
私に常識やルールなどといった枠組みは通用しないと。
そして俺は、神様には逆らえない。
彼女が望むなら俺はそれを受け入れたい。
けれど同時に、俺のような壊れた存在がどこまでも特別な彼女を、その高潔さを失墜させていいわけがないと思ってしまう。
矛盾――俺に残っていた僅かな思考はそれによって放棄された。
「ぁ……はぁ……はぁ……俺には……、……分からないよ、さくら……っ」
きっと、このときの俺の精神状態は十七夜月家に引き取られるより以前に戻っていて。
さくらの青色の双眸に映る俺は、生きていることにさえ怯える哀れな存在に見えたのだろう。
絡みついていたさくらの体が離れていく。
「……すまない。私としたことが少し焦ってしまったようだ。まだ早かったな。落ち着いて、安心してくれ。君を傷つけるつもりはないんだ。……ああ、でも、これだけはどうしても訊かせてくれ」
「…………」
さくらは俺の手を引いてダンスでもするように体を操り、流れるように壁際まで追い込む。
壁に背を預けた俺と、正面から向かい合うさくら。
お互いに誤魔化しようがなく裸体ではあるものの、瞳に映るのは相手の瞳だけ。
あと少しで唇が重なってしまうのではないかという距離感で、さくらは真剣な表情を浮かべて言葉を紡いだ。
「もし、私がどこか遠くへ行ってしまうとしたら。君はついてきてくれるか? 追いかけてきてくれるか? いつか――辿り着いてくれるか?」
その問いの意味は分からなかった。けれど。
「……さくらは大切な家族だから……できれば……一緒に居たい……」
失って、手に入れて、もう一度失ってしまったら、俺は一体どうなってしまうのだろう。
置いていかれる、そう考えただけで涙が零れる。
だから、震えた声で懇願するように答えると――さくらは優しく微笑んでくれた。
「そうか。それはときめく言葉だ。なら私はいつまでも待っているよ、白雪」
いつもの憂いは感じない。未来に希望を、願いを抱いているような、そんな笑顔だった。
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――その数か月後。
十七夜月さくらの誕生日でもある十二月二十五日。ホワイトクリスマスだったその日。
彼女は両親と共に惨殺された。
俺は――また、置いていかれた。置いてけぼりにされて、イカれた。
いつの日か、さくらは自分の苗字でもある"十七夜月"についてこう話していた。
『かつて、十五夜から二日後の夜月に祈りを捧げると、願いが叶うという言い伝えがあったらしい。だから十七の夜に月で叶と読むそうだ。どうかな、白雪。君の新しい苗字はとてもロマンチックで、どのような願いだろうと――心の底から望めば一度くらいは叶ってくれそうじゃないか?』
結局のところ、そう語った彼女の願いは叶ったのか、そもそもどんな願いを抱いていたのか、すべてが分からず終いとなった。
彼女の本心も願いも、何もかもが未解読なまま――追いかけることも許されない別れを迎えたのだ。




