38話『男女二人、お風呂を共に』
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ひどく渇いている感覚があった。口の中、喉――それとも心か。
いずれにしても俺の目蓋は開かれた。
自分で開けておいてなんだが、不意に、眼球に突き刺さるLEDの青白い光に少しばかり驚く。
「っ――」
気怠い体を起こす。
「ん、起きたね。調子はどうかな?」
優しい声をかけられた。声の主は担任教師の宮野。
ここはおそらく合宿所の中で教師用に割り振られた一室だろう。
壁にかけられた時計を見ると、時刻は午後九時。
畳に敷かれた布団の上に俺はいる。
――どうにもまだ、頭がぼうっとしている。
「……可もなく、不可もなく」
「そうか。倒れた原因は、名取先生が言うには睡眠不足やストレスからくる自律神経の乱れだろうとさ。思い当たるところは?」
「……ええまあ」
「夜更かししたい気持ちは分かるけど、それで友達を心配させるのはよくないよ。気を付けなさい」
宮野は、相変わらずの人畜無害そうな表情と声音で俺を優しく諭した。
「……はい」
自分でも珍しく、素直に頷く。
人間、弱っているときは素直になるものなのだ。
「さて、お説教はここまでにしておいて。何か食べられそうかな? 起きたときのために夕食を取り置きしておいてもらったんだ」
「……あー、えっと、その前に汗を流してきても?」
「ん、確かにそうだね。先生たちの入浴も終わって、もうしばらくしたら入れなくなるらしいから、今のうちに行っておいで。場所は分かるかな?」
「大丈夫です。間取りは来たときに覚えたので」
「さすがだね。以前から思っていたが、君は午前の授業を寝過ごす割に成績は優秀だ。記憶力がいいのかな」
「頭に宮殿があるんですよ。いわゆる記憶の宮殿ってやつが」
そう答えながら、俺は何とか立ち上がる。
気分はそれほどいいとは言えないが、これくらいなら許容範囲内だ。
のぼせないよう気を付けながら温かいお湯を浴びれば、もっと楽になるだろう。
「ああ――聞いたことがあるよ。記憶の宮殿、場所法と呼ばれる記憶術。実際にやっている人に会うのは始めてだけど、やっぱり効果あるんだ?」
「ええ。簡単に記憶できて――」
どんなに忘れたいと思うことも。
「簡単には忘れられないですよ」
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そうして浴場に向かった俺は。
「で――なんで女湯に入ってきちゃったんですか。ホント、不肖ですね。男の子は女湯に入っちゃダメだって習いませんでした? 倫理観どうなってるんですか」
と、クラスメイトの女子――琴平花灯から説教を食らっていた。
簡単に言えば今、俺と花灯はお互い、一糸まとわぬ姿で湯船に浸かっている。
背を向けて、充分に距離を取って、だ。
どうしてこんなことになったのかというと。
まず着替えを取りに行った俺はそのまま男湯に向かったのだが、生徒教師の入浴が終わり、そろそろ浴場が使えなくなるといった宮野の言葉通り、なんと男湯が立ち入り禁止になっていたのだ。
そこで俺は仕方なく女湯に入ることに決めた。
いやだって汗とか気持ち悪かったし……さすがにもう誰も入ってこないと思ったし……。
そういった経緯で俺は女湯へと潜入したのだが、なんとそこには花灯という先客がいた。
ばっちりと湯船に浸かっていらした。
「というか、花灯はどうしてこんな時間に? 生徒の入浴時間はもう一時間くらい前だったと思うけど」
「いわゆる二度風呂ですよ。一度お風呂に入ったあと、わたしはすぐに寝床に入ったんですけど、まだ起きていた子が持参したジュースを飲んでいまして。で、ほかの女子とのじゃれあいの末、見事にそのジュースをわたしにぶちまけてくれましてね」
どんな不幸だ。けどまあ今考えれば、花灯がまだ浴場にいたからこそ女湯は立ち入り禁止になっていなかったのかもしれない。
「おかげで今、こうして冬馬くんとお風呂に入るハメになってしまったわけですよ。あームカついてきた。これは何かしらの制裁を考える必要がありますね!」
「こうして湯船に浸かっておいて言うのもアレだけど、出ていけっていうなら出ていくよ?」
「いや言われなくても出ていってくださいよ。普通に挨拶して体洗い始めたときはぶっちゃけ大声を出すか悩みましたよ。正気の沙汰じゃねえ……。ここは女湯でわたしは女の子、君は男の子ですよ。アンダースタン?」
「ごめん。まだ少し頭がぼうっとしてるみたいだ」
「本当ですかね……。まあ冬馬くんは狡賢いので、後のことを考えれば変なことはできないと思いますが……」
「まあ何かするなら誰にもばれないようにするかな」
「危険な発言しないでくれます⁉ いえ……でも今回は特別です。もうそろそろお風呂に入れなくなっちゃうみたいですし、それにちょっと二人きりで話したいこともあったので、許しましょう」
「というと?」
「まず、例の告白の件ですけど――三人とも見事にフラれたみたいです」
少し舌足らずな可愛い声で、彼女はさらりと言った。
俺と花灯の距離は離れているが、声が反響するおかげでよく聞こえる。
「でも別に、告白失敗の責任を冬馬くんに押し付けるつもりはないみたいで、むしろありがとうって伝えてほしいって頼まれちゃいましたよ。すごく清々しい感じでした」
「だろうね」
「それでわたし、どうして冬馬くんが無茶をしてでもこの一件を引き受けたのか、多分気づいちゃったんですけど――冬馬くんはあの三人がフラれること、最初から分かっていたんじゃないですか?」
「……ああ。あの三人にはどこか垢抜けていない部分があった」
雅は荒れた肌と伸びた爪。
向井は枝毛の多い髪と猫背、眼鏡の跡。
田辺はシャツの皺、それと親指の爪に噛み跡。
「それに加えて腕を組むとか手のひらを隠すような防御姿勢もあったね」
全員、見た目は恋人がいてもおかしくないけれど、それでも節々にぎこちなさというか背伸びをしている感触があったのだ。
その理由として考えられるのは。
「三人はいわゆる高校デビューをしたんだよ。前まではもっと地味で、人見知りな性格だった。ま、新たな場所での新たな生活ってのは転機だからね。これまでの自分に対する劣等感を乗り越えようとしたのさ」
「それで彼氏彼女を?」
「そう。何となくよさそうな人を選んで、告白して、恋人関係になって周りに憧れられたい、羨ましがられたい。今回のはそんな自己満足からくる行動だったのさ。フラれて当然だ。だから俺は――フラれたあとのアドバイスをした」
相手と目を合わせて、深層意識に刷り込むように与えた言葉。
あれらはすべてフラれることを前提として、その後に抱く感情を誘導するためのものだった。
くすんだ自分ではなく、まっさらで爽やかな顔をした自分。
今まで何かが足りないと感じていた日常が変わる。モノクロの日常に色が足される。
好き嫌いで物事を判断するよりもずっと視野が広がって、今よりずっと呼吸が楽になる。
いずれも己が抱える劣等感を克服し、前向きになることで、フラれたという失敗をバネに次なる成長を促すことができる暗示のようなものだ。
「あの三人は失敗することで成長する。そうすれば憧れた青春なんてのはいつの間にか手に入れているさ。恋模様だけが青春とは限らない」
「……失敗で成長……ですか。だったら冬馬くんも、そうするべきです」
「……どういうこと?」
「今回冬馬くんが無茶をしたのは、あの三人から相談を受けてかつ告白を失敗させることに意味があったからですよね。『絶対に告白を成功させてくれる冬馬白雪』――広がり始めているその噂を、止めることができるから」
花灯のその推測は当たっていた。
告白の失敗――それによる噂の消失。それこそが俺の真の目的だったのだ。
だから俺は、相談を断らなかった。
「ああ、正解だよ」
「……あの」
俺が軽く答えると、僅かに花灯の声に熱がこもった。
「わたしこう見えても結構怒ってます」
それは声だけで読み取れた。そして俺には分かる。花灯は怒りと同時に、悲しみも抱えている。
「どうして話してくれなかったんですか? 高砂くんにも頼らなかったんですよね」
「発端は俺の行動だ。なら尻拭いをするのは俺一人じゃないと」
「理屈は分かります。でも――一人で抱え込まないでくださいよ。高砂くんはあの通りお人好しですし、わたしだって、同盟結んだじゃないですか。具体的に何ができたかなんて分かりませんけど、でも……」
「分かるよ。花灯は俺が倒れて沢山心配したんだね。ごめん、不安にさせて」
「っ……し、知った風なこと、言わないでください。不詳です。……でも、でもですよ。今回倒れたのって、名取先生が言うには、睡眠不足とかが原因だっていうじゃないですか。冬馬くんは午前の授業中よく寝てますよね。それって夜眠れないからですか? ……勘違いだったらごめんなさい」
僅かな遠慮がありつつも、それでも花灯は踏み込んだ。
「もしかして――不眠症、なんですか?」
不眠症――。
花灯は俺の過去を知っている。家族を殺され、その後一年、精神病院に入院していたことも。
だからこそ、その推測を組み立てることができたのだろう。
「――――」
俺は答えない。その沈黙こそが、答えだった。
刹那――背後で水音がした。
音だけで判断した感じだと、花灯が立ち上がったようだ。
「ねえ、冬馬くん」
一歩ずつ、ちゃぷちゃぷと音を立てながら、花灯が近づいてくる。
「わたしは、あなたがわたしを知ってくれて、結構救われてるんです。秘密を持っているもの同士、なんていうか久々に気の置けない関係ができた感じがして嬉しいんですよ。わたしがそうだったように、心の痛みは一人で抱えるには大きすぎることもあります。だから――」
背中に柔らかい感触があった。
柔らかい肌。小さな体。
花灯は俺との距離を詰めて、その背中を預けた。
二人の距離は――ゼロ。
「もう少し寄りかかってくれても……いいんですからね……?」
肌と肌が重なっている。
俺は琴平花灯という小さな少女の熱に溶けてしまいそうになって――言葉が出なかった。
それからしばらくして彼女は再び立ち上がり、俺の頭を濡れた手で撫で、その場をあとにした。
「――――」
こうしていると、あの夜のことを思い出す。
忘れたくても忘れられない。忘れたいと思ったことは一度もない。
今からおよそ二年前。
十七夜月さくら――彼女がまだこの世にいた頃の、あの夜のことを。




