37話『青春とは恋模様だけではないはずだ』
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林間合宿初日。
名も知らぬ山のふもとに着いた桔梗高校の一年生は、正確にはその半分は、山中にある合宿所を目指して、山道をひたすらに登っていた。
傾斜は緩やかではあるが、上り坂をひたすら歩くというのは今の俺にとってまさに地獄を行進しているような気分になる。
一クラス三十人。それが二つ分なので六十人。そして引率の教師が四人。
各クラスの担任と養護教諭、そして生活指導の教師が一人といった構成だ。
俺は所属する一年三組の担任は現国教師の宮野というのだが、見た目通り人畜無害な彼に対して語ることは多くない。
「――やあ、冬馬くん。ずいぶんと汗を流しているようだけど、もうギブアップ目前かい?」
爽やかに話しかけてきたのは一年四組の男子生徒、雅。
本来であれば四組の生徒は三組の後ろに並んで歩いているのだが、彼は一足先に三組側へと潜入していた。
列の中間。
ちょうどスタミナを消耗し、前の人との距離が開き始める瀬戸際。
内緒話をするのに絶好のタイミングで、雅は動いたのだ。
「……元々体力には自信がなくてね。それで、好きな相手の特徴は?」
正直もう心臓もバクバクで息もかなりあがっているのだが、それを気取らせないように俺は返事をする。
「ふふ、話が早くて助かるよ」
やはり雅の相談事というのは、恋愛絡みのことで間違いなかったようだ。
場の主導権を握りつつ、俺は雅から言葉を引き出した。
――やはりどうにも『別れさせ屋』の件でも原因となったあの行動が、今回も尾を引いているらしい。
学生にとっての青春とは何かと考えたとき、多くの人が恋愛、いわゆる惚れた腫れたの状態を一番イメージするのではないだろうか。
部活で流す汗も、学問に真面目に取り組む熱意もあれど、やはり学生時代の恋愛というものは一層特別なもののように思う。
彼も――雅もそうだった。
クラスで目立つ子がいて、その子に告白して付き合えるようになったら、眩しいほどに輝かしい青春というものを謳歌できるのではないか。
そんな思いから、憧れから、雅は俺を頼った。
曰く、告白を絶対に成功させてくれる冬馬白雪という偶像を、頼ったのだ。
「――いいかい。大切なのはあとのことを考えないことだ。例えば、ものすごく高いところに登ったとき、下を見たら嫌でも足を滑らせて落ちてしまったらなんて考えると足がすくむだろう? それと同じさ。だから充分リラックスして告白すれば、君の気持ちがストレートに伝わる」
「……気の持ちようということかな? しかしそれで本当に成功するのだろうか?」
「人の心を動かすのは結局、人の心だよ。大丈夫、ちょっと手を貸して」
半信半疑な表情を浮かべた雅の手を俺は握る。
「俺の目を見て――いいかい? 告白したら君は新たな自分を掴むことができる。これまでのくすんでいた自分じゃなく、まっさらで爽やかな顔をした自分が鏡に映る。いいね?」
「あ、ああ。……やれることはやろう。勝負はキャンプファイヤーのときだ。祈っていてくれよ」
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長い道のりの果てに俺は合宿所へと辿りついた。
呼吸が整わない。口の中が渇いている。関節が痛い。思考が乱れる。
それでも何とか教師陣からのありがたいお話も終えて、クラスメイトたちと共に合宿所内に案内される。
入ってすぐ正面に階段があり男子は一階。女子は二階の部屋が割り振られるようだ。
普段は部活動の練習などに使われる合宿所らしく、相応の武骨さはあるものの一部の内装は思ったよりも洒落ていて、旅館のように見える部分もある。
特にレクリエーションルーム前の通路を曲がった先にあるお風呂は昼間だと、見渡せる山々の景色がいいとかで評判らしい。
風呂……ずいぶん汗も掻いたことだし、気力を回復させるためにも早く入りたいな。
「……おい、大丈夫かよ」
そんなことを考えていると、隣から楓に声をかけられた。
「このあと向井って女子とも会うんだろ? そのあとには田辺……俺が連れてきておいてなんだけど、やっぱり断ったほうがいい。そんな体調で三人の告白を成功させるなんて無茶だ」
楓の声がどこか遠く感じる。実際は隣にいて、通路を歩いているというのに。
それでも俺の返事は変わらない。
「……いや大丈夫だ。やるべきことはすでに見えてるよ。それに俺には――この件を引き受けなくちゃならない理由がある」
これは身から出た錆だ。ならば自分で拭うのが責務というもの。
だから――。
楓は僅かに逡巡し、しばらくしてから口を開いた。
「――難しいことは分からねぇ。でもお前には譲れないものがあるんだよな。なら俺に止める権利はない。でもお前が助けを求めるなら、俺は全力でやれることをやる。それは覚えておいてくれ」
「……ああ」
それから一部屋で二十人は並んで眠れそうな大部屋に入り、畳の感触に思わず足がもつれそうになりながら、荷物を放る。
これから十分ほど自由時間。間取りを確認したところ、大浴場の隣にある待合所ならば、話し合いにちょうどいいだろう。
花灯を経由し、向井を呼び出した俺は早速、相談を受けることにした。
「やあ、どうも」
「……ども。えっと……その、お話のことなんだけど……」
「手っ取り早くいこう。好きな人の特徴とその人を好きになった理由、聞かせてもらえる?」
「あ……はい!」
休憩時間は十分しかない。
告白を成功させたい――つまりは好きな人がいるという前提を理解しているのだ。
要点のみを聞き出せば、話は早く済む。
そして向井からおよそ三分ほどかけて聞いた話をまとめるとこうだった。
好きになった男子はクラスでは地味ながらも、人当たりがよく勤勉で運動もできるやつらしい。
向井は――恋焦がれる青春に憧れがあり、それなりに仲がいい彼に告白することで、充実した高校生活を送りたいとのこと。
言ってしまえば雅と同じような理由だった。
だからこそ、俺も同じような言葉を与える。
「いいかい、彼に告白する前に深呼吸をするんだ。君の体の中には赤色の煙が溜まっている。それをゆっくり吐き出すんだ。換気みたいなものさ。呼吸をするたびに赤い煙が体の外に出て、気持ちがリラックスして、清々しい気持ちになる」
「……清々しい気持ち?」
「その通り。その状態で告白すれば、今まで何かが足りないと感じていた日常が変わる。モノクロの日常に色が足されるイメージだよ」
「……うん。分かった、ありがとう! 告白はキャンプファイヤーのときにするから、祈ってて!」
「ああ。きっとうまくいくよ」
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それから二時間後。昼食はカレーだった。
ご飯は水が足りなくて少し硬く、カレーは若干焦げ、具材も生煮えだったが、幸か不幸か味が分からなかったおかげで食べることはできた。
だが……正直に言えば、体調は芳しくない。
寒気は止まらないし、冷や汗も掻く。額を拭えばべっとりとした脂汗――。
「はぁ……はぁ……っ」
さきほど洗面所の鏡で顔を見たが、頬が赤くなっていた。咳や鼻水はないが、体感で体温は三十七度ちょい。
平熱からして微熱から本格的な熱の中間くらい。
オリエンテーリングが始まり、楓や花灯に心配されながらも、俺は山中のとある場所で田辺を待っていた。
周囲には誰もいない。
立っているのもやっとで、さきほどから木に背中を預けている。
……もう少しだけ、気をしっかり持て。
やるべきことは、いわゆる作戦は、すでにできあがっている。
それを成功させるには、雅と向井にそうしたように、田辺とも対面で話す必要がある。
「――待たせてごめん」
「……」
来たか。
さあ、背筋を伸ばせ。平然とした態度を崩すな。でなければ、精神的優位を保てない。
爪が食い込むほどに拳を握り、俺は余裕そうな表情を浮かべた。
「話は手短にしよう。君が好きな子と、好きになった理由を聞かせてくれるかな」
「分かった――」
そうして彼は――田辺は語った。
もう予測はできていたかもしれないけれど、動機に関しては雅や向井とほぼ同じだった。
青春への憧れ。そのためにクラスでちょっと気になった子に告白する。
入学して一ヵ月。告白という行為によってもしかしたら崩れてしまうかもしれない人間関係が、それなりにできあがってきた頃合い。
タイミングとしては……いいとは言えない。
それでも青春を――異性との恋慕を望む動機。
「――――っ」
眩暈がして倒れそうになる。
「ちょ、ちょっと大丈夫、冬馬くん?」
俺はとっさに駆け寄ろうとした田辺を制するように、手を出した。
「……今、君はどうして俺に駆け寄ろうとした?」
「そりゃあ具合が悪そうだったし……」
「その通り。大抵の人は目の前で倒れそうな人がいれば、注意を払うし、助けようとする。助けないのはよっぽどの悪人だけだ。でも君は悪人じゃない。他人を思いやる気持ちを強く持つんだ。――俺の目を見て」
何とか一歩踏み出し、左手で田辺の肩を掴み、右手で目と目を合わせるジェスチャーをする。
視線が交錯する。
この状態で伝える言葉は、受ける言葉は、強い印象として残る。
「告白すると、君はこれまでの自分とは違う自分になれる。自分を誰かと比べることはない。好き嫌いで物事を判断するよりもずっと視野が広がって、今よりずっと呼吸が楽になる。いいね?」
「……あ、ああ。なんかいけそうな気がしてきたよ」
「それはよかった。ちなみに告白はいつ?」
「キャンプファイヤーのとき。いいシチュエーションかなって」
「ああ、俺もそう思う。きっとほかのみんなも。それじゃあいい結果になることを祈っているよ」
「うん、ありがとう!」
やっとの思いで田辺を見送り、俺は――倒れた。
糸が切れた操り人形のように、頭を支えきれずに膝から崩れて四つん這いになる。
それから視界に映る色が消え、すぐに立ち上がらないといけないという思いとは裏腹に目が回る。
風に揺れる草木の音が遠い。声を出す力も入らない。
ああ――自分がちゃんと呼吸できているのかすら分からない。
何も考えられない。
もうすぐ意識が途切れる。
そうして最後に色のない世界で見えたのは――。
「――馬鹿野郎。倒れるまで無茶すんなよ」
どうしようもないほどにお人好しな少年の姿だった。