36話『一泊二日、林間合宿』
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ゴールデンウィークもあっさりと過ぎ去った五月中旬。
悪いことが立て続けに起こることもあるように良いことが立て続けに起こることもある。
その日、私立桔梗高校の一年生は――正確にはその半分は――バスを使い学校が所有している合宿所に向かっていた。
――林間合宿。
おそらくは、入学してすぐに訪れたゴールデンウィークによって弛んでしまった気持ちを、引き締め直すために行われているのだろうが、日程を見た感じちょっとしたレジャー旅行のようにも思う。
山のふもとまでバスで行き、その後は山中の合宿所を目指して登山。
合宿所に到着したあとはいくつかの班に分かれて昼食を準備、その後、オリエンテーリングを行う。
日が沈んだあとは合宿所側が用意した夕食を食べ、キャンプファイヤー、入浴、そして就寝。
二日目の朝、ラジオ体操をして再び山を下る。といった工程。
はしゃぎすぎないためか、それとも人数の都合か、一組と二組、三組と四組で分かれそれぞれ別日に行われるこの合宿。
「……」
俺はバスの中で、多少の高揚感を抱いていた。
普段交流のない生徒がいるとはいえ、言っても一クラス分だ。
どちらかといえば見知ったやつらと旅行に行くという感覚のほうが大きい。
だからだろうか。
久々に何か、熱に浮かれたような気持ちだ。
具体的にどうとは言えないのだが、とにかく胸がざわつく。
「……なんかお前、顔色悪くね?」
「ん……」
今日ばかりは前の席ではなく、隣の席で友人の高砂楓から、そんな問いが投げかけられた。
「どうかな。自分の見ている景色が本当に正しいのかなんて誰にも分かりはしない。光の屈折やそれを認識する脳――それらが正常に作動しているのか、自分が自分で在る限り分からないものさ」
「いや明らかになんかおかしいだろ……お前。急に哲学的なこと語るなよ。もしかして熱でもあるのか?」
「……平熱なんてのは個人差があるから、熱があるかないかなんて、一概には言えないよ」
「うわ面倒くせぇ……一で言ったら十で返ってくるじゃねぇか。ま、平気ならいいけどさ、もしヤバかったら言えよ」
相変わらずお人好しで面倒見がいいやつだ。
言われてみれば、今日はなんだか少し頭がぼーっとしているような気もする。
バスの走行音。車内のあちこちから聞こえる雑談。
それを子守唄に――目蓋を閉じた。
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妙な静けさを覚えて、俺は目蓋を開けた。
窓から外を眺める。
バスはどうやら高速のパーキングエリアで止まっているようだ。
生徒の半数は外の空気を吸うために、もしくは用を足すために車外へ出たのだろう。
「――おや、起きたかい?」
ハスキーな男の声が、隣から聞こえた。楓のものではない。
横を向くと見知らぬジャージ姿の男子生徒が我が物顔で座っていた。
シャープな顔立ちで、輪郭がはっきりとしていて、体は細身に入るが安定感がある。
一方で肌が少し荒れていて、爪も伸び気味。そして微かに香る制汗剤の匂い。
――腕をがっちり組んで、隣に座っているが最大限間隔を取っている。
俺は彼に対しての第一印象として、どこか他人に対して距離のあるイケメン気取りだなと思った。
距離があるというか、壁があるというか、他人から守ろうとする自分があるというか。
「君は?」
「四組の雅だ。そういう君は冬馬くんで間違いないな? 実は折り入って君に話があるのだが……ああ、今じゃなくていい。ふもとに着いて合宿所に向かう途中、僕は一人で君の所へ向かう。そのときに話したい」
「……はあ」
「くれぐれもこのことは内密で頼む。それではこれで失礼するよ」
颯爽と雅と名乗った男子はバスを降りて行った。
なんだか無理して格好つけているように俺には見えたが、それにしても話か。なんだろう。
「……」
まだ頭がしっかり覚醒していないのか、どうにも思考がまとまらない。
うーむ。これはもうひと眠りしたほうが……。
「……あの冬馬くん」
目蓋を閉じようとした矢先、少し舌足らずな可愛らしい声に名前を呼ばれた。
声のしたほうへ目を向けると、そこにはとある同盟を結んだ女子、琴平花灯がいた。
しかも見知らぬ女生徒を後ろに従えているではないか。
左手を右腕に添えるようにしている女子――短いポニーテールに整った顔、素朴だがモテそうな印象だ。
だが枝毛が目立ち、姿勢が若干猫背気味。
鼻の上部に眼鏡跡が残っている。今はコンタクトのようだが、普段は眼鏡をかけているのだろう。
「……えーと、どうかした?」
「実はこちらの四組の人が冬馬くんに相談があるとかで、お連れした次第です」
おや、何だろう、この流れは。
「あ、あの初めまして。四組の向井です。実は冬馬くんに話があって、できればその聞かれたくないので合宿所に行く途中、会いに行ってもいいですか?」
さっきまったく同じような話を聞いたところなのだが、これが俗にいう『お前タイムリープしてね?』現象なのだろうか。
「一応聞いておくけど、それって四組の雅に関係ある話?」
「雅くん……? ううん、関係ないと思います」
なんだ、どういうことだ。
どうにも頭が働かない。とりあえず言えるのは、下手をすれば相談事のダブルブッキングをしてしまうということ。
それだけは避けたい。
「あ、と……合宿所に着いてからでもいいかな? ちょっと別の用事もあるんだ」
「あ、分かりました……! それじゃあよろしくお願いします!」
ペコリと頭を下げて、そそくさと向井はバスを降りた。
別の用事、と俺が口にしたとき、どうも彼女は何か腑に落ちたというか納得がいったような表情を見せたような気がしたが、一体何なのだろうか。
「……あの冬馬くん、顔真っ青ですけど大丈夫ですか?」
「え? そうかな。俺は元々肌が白いからこんなものだと思うけど」
「いやどうして鏡も見てないのに断言できるんですか……肌が白いというか血の気がない感じですよ。それで普通とか言われても全然信じられません。愚かです。不祥です」
いつも通り、不祥という口癖ノルマを達成する花灯。
言われてみれば確かに体調が悪いような気がしなくも……なくもない。
「そう言うなら……また少し寝て、休むことにするよ」
「はい。そうしたほうがいいですよ。せっかくの林間合宿なんですから。楽しくいきましょう」
花灯の言葉に何度か頷いて、俺は今度こそ目蓋を閉じる。否、閉じようとしたところで――。
「あー、冬馬、ちょっといいか?」
戻ってきた楓に声をかけられた。
しかも、しかもだ。その後ろにはまたもや見知らぬ男子が、おそらくは四組の生徒が――いた。
「実はこいつが相談事があるんだと」
楓の紹介で一歩前に出た男子。
短い黒髪で雅と同じく顔は整っている部類に入って、そして手のひらを隠すように、指を絡めている。
ジャージの下に見えるシャツには皺が目立ち、親指の爪に噛んだ跡が見えた。
「ども、田辺です」
ダブルブッキングどころかトリプルブッキング。
二度あることは三度ある。そんな言葉が脳裏をよぎった。
なんだかもう頭が混乱してきたのだが、しかし三度目の正直という言葉があるように、次の田辺の言葉によって俺の疑問の一つは解消されることとなる。
「えーっと、冬馬くんに相談すれば告白が必ず成功するって話を聞いたんだけど、合宿所に行く途中、ちょっと相談に乗ってもらってもいいかな?」
良いことが立て続けに起こることもあるように、また、悪いことが立て続けに起こることもある。
――話を聞いた。それはつまり、噂を聞いたということ。
またか、またなのか……。
どうやら再び俺は、噂に踊らされる側になったらしい。
「あ、あー……とりあえず話は分かった。でもちょっと都合が悪い。オリエンテーリングの途中でもいい?」
「……了解。できたら早めに話を聞いてくれると本当に助かるよ」
半ば俺は満身創痍に近い状態で、返事をすると、田辺は嬉しそうにバスを降りて行った。
もうすぐ休憩時間も終わりなのだろう。
下車していたクラスメイトも戻り、ほどなくしてバスは再び合宿所を目指して走り出す。
「――――」
楓と花灯は心配そうに俺を見ているが、実際のところ、珍しく危機感を覚えている。
十中八九、田辺同様に雅と向井も恋愛相談だろう。
それもおそらくは、同じクラス内でありながらもすべてが別個の話。
断ればよかったものを、半ば引き受けてしまった俺。
つまるところだ。
――俺はこの林間合宿で、三者三葉の恋模様を見届け、支援することになった。多分。