4話『冬馬白雪の思う母親像』
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「――ここで何をしているのかしら、織姫」
夕暮れ時の静謐なる墓地で、高圧的なその声はよく響いた。
苛立ちを隠そうともせず、不満を相手にぶつけるための、威圧するための低い声だ。
「……お母さん」
一方で、不意を突かれ、事態を飲み込んでから弱々しく声を上げる織姫。
俺は彼女に次いで、声がした方向へ視線を投げた。
そこにいたのは、織姫をそのまま成長させたような女性。
にしても若い。一児の母というよりは年の離れた姉のようにも思える。元モデルというだけあってスタイルも抜群。
格好は黒いドレスにベージュのカーディガン、靴やネックレスには緑色が入っている。おそらくこれからパーティーか会食に参加することが窺える服装だ。
「今日は三明物産の社長家族と会食があるから早く帰宅しなさいと言ったわよね。それなのにまた、来るなと言った場所に来て、時間を無駄にしている。時間も守れなければ約束も守れないだなんて、母親として情けないわ」
「ここに来ないと……約束した覚えはないよ」
織姫は真正面から母親を見返さない。俯いて、切り揃えた前髪でその表情を隠している。
当然だ。威圧する声音、罪悪感を煽る言い方は傍から聞いていても気分が悪い。
「――で」
ぎろりと、織姫と同じ切れ長の目が俺を睨む。
「その男の子は誰かしら? まさか今日の会食と、あなたと社長息子のお見合いをすっぽかそうとしたのは、その子が原因?」
「なっ、それは彼に対して失礼だ! 確かにお見合いは乗り気ではないが、すっぽかそうともしていないよ!」
声を荒げる織姫。
自分が責められているときは弱っていたが、俺という他人に矛先が向いたことで勇気を振り絞ったその優しさは、やはり彼女の魅力と胸を張って言えるだろう。
だからこそ余計に。
「どうかしら。はじめまして、私は織姫の母です。――で、いくら払えば織姫を諦めてくれるのかしら? この子にはこの子の人生設計があるの。あなたではきっと実現できない理想がね」
織姫を縛ろうとするその存在が、歪に見える。
――俺は一歩踏み出す。
「……冬馬君」
丁寧に舗装された石畳の上を歩き、織姫を追い抜いて、彼女の母親の前に出る。
「娘さんとはただの先輩と後輩だよ、そんな邪推されるようなものじゃない。俺は冬馬白雪だ」
敵意は出さない。そんな感情はない。
俯瞰した視点を持って冷静に、小さく笑って手を差し出す。
握手をしよう。
言葉にせずそう意思表示する。
だが当然のように、織姫の母親はそれに応じない。それどころか俺に対して明らかに嫌悪感を抱いている。
理由は明白。
「あなた歳は? 目上の人には敬語を使うべきじゃない?」
「細かいね。でも無礼な態度を取ったほうが、相手の本音を引き出しやすいんだ」
「青いわね。思春期特有の生意気さ。いずれ後悔するわよ」
「かもね。だから相手にしないほうが良い。でも貴女は気になってしまう。なぜならとても神経質だから」
織姫の母親は腕を組んで、くだらないことを、とでも言いたげに目を逸らしてため息を吐く。
だがそれは図星だ。腕を組むのは身を守ろうとする無意識の行動。
目を逸らしたのはきっと思い当たる部分があって、俺を睨み返す自信が削がれたんだ。
「貴女は若干だけど左目が大きく右目が小さい。それは右目が常に緊張をしている、左脳を酷使しているということだ。夫のため、会社のため、娘のために毎日多くのことを考え、不安と戦っている」
黒いドレスとベージュのカーディガン、きっと気品さを見せるためのコーディネートだが、差し込んだ緑色は気分で決めたはずだ。
緑は人を落ち着かせる。言い方を変えれば、彼女自身が安らぎを欲しているということ。
「きっと自分でも気付かないうちにすごく疲れている。だから適度にガス抜きをするか、一度カウンセリングを受けたほうがいい。突然悪い宗教にハマるかもしれない」
「ふん、覚えたての知識を使うのはそんなに楽しい? 精神科医の真似事? やめなさいな。説得力なんて微塵も感じないわ」
それは強がりだ。彼女は怒りで誤魔化そうとしているが、内心焦っている。
だが説得力がないという点は認めざるを得ない。
そこが俺の弱点なのだ。もしさっきの言葉をもっと年上の、それこそ年配で物腰の柔らかい人が言えばきっと彼女は素直に聞き入れたはずだ。
「ああ。俺のことは信じなくていい。でも今のままだと誰もが不幸になる」
「――――」
陽が沈んでいく。
沈黙のまま五秒、十秒と時間が過ぎていき――そして織姫の母親は踵を返し。
「……下で待っているから、早く済ませなさい」
そう告げて、彼女はゆっくりとこの場を後にする。
一難は去った。もっともそれは俺にとっての、だ。
「ごめん、先輩。好き勝手に言っちゃった」
振り返って織姫の顔を見る。
母親が去ったことにより、その表情には安心が見えた。
だが俺みたいなやつを知り合いにしたことは後々指摘されることだろう。
そのとき、また織姫が自分らしさを殺してしまうと思うと、申し訳ない。
けれど綺麗な黒髪の彼女は、優しく微笑んでこう言ってくれた。
「いいや。少しすっきりしたよ。それに私は、君がもっと嫌なことを言うのかと思ったぞ。それが傍から見れば真っ当なアドバイスで驚いたくらいだ」
「……俺にどんなイメージを持ってるのさ」
苦笑しながら返すと、織姫も鼻を鳴らして笑う。
「ふっ、そうだな。母が言ったように、私に敬語を使わない無礼者、かな?」
「嫌ならもっと嫌そうな仕草を見せないと。先輩はそういうの気にしない人だ」
「私だって名前で呼んで欲しくない相手はいるさ。だが君は、打算で近づいてくる人間ではないからな。君は誰にでも平等で、だからこそどこかで線を引いているタイプだ」
「……その話はまた今度。もう暗くなってきた。先輩のお母さんはヒールを履いていたから足元が不安だ。早く行ってあげたほうがいい」
適当に話を誤魔化し、誘導する。
が、さすがに露骨すぎたので、織姫も俺がその話に触れて欲しくないことに気付いたのだろう。
織姫は苦笑しながら小さく頷いた。
「――ああ、最後に一つだけ。君はどうして母に慮るような言葉をかけてくれたんだ?」
僅かな逡巡。だが考えるまでもなく俺は理解していた。
自分の心、憧れ、理想、そして現実を。
「母親は子供を理解して、遠回りせず包み込んであげる。それが理想像だからね」
無論、それは俺の中でという話で、そうじゃない人を否定するわけではない。
これはただ、俺がそう思うだけなのだ。
「……君はマザコンなのかね?」
「質問に答えたのにその感想は酷いな」
不満そうに口にして、俺と織姫は再び笑った。
「それじゃあ、いい夜を」
「馬鹿者、私はこれからお見合いだ。既に気が重いよ」
「もしものときは、ものすごく馬鹿のフリをすれば相手がドン引きして手を出してこなくなるよ」
「やらんぞ、私はやらんぞ⁉」
とか言いつつこの後スマホでギャル語とか検索しそうな織姫だった。
それから適当に挨拶を交わして、思いのほか長引いた会話は終わり、彼女は颯爽とこの場を去った。
今朝、初めて出会ったときと同じように、凛々しく背筋を伸ばして。
少し生温い風と共に。
そして俺も――、今日は出直すことに決めた。
織姫がそうしていたように、やはり花でも持ってくるべきだったのだ。
だから今日はこのまま、辺りの店でも見ながら、のんびりと帰宅しよう。