29話『常盤大河との華麗なる駆け引き』
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目の前に――常盤大河がいる。
伸びっぱなしのように見えて、意外と整えられている長い黒髪。服装はワイシャツに藍色のジレベスト、黒のスキニーといった具合で、どこか達観しているような冷めた目、独特の雰囲気を纏っている。
そして彼の隣にいる女子。
服装はワンピースにカーディガンを着ていて清楚な感じ。よく似合っていて可愛い。
けれど俺には分かる。視線が泳ぎ、額には汗、心拍数が高いのか浅い呼吸を繰り返しているその姿。
察するに彼女の心は恐怖に染まりきってる。
原因は隣にいる常盤。つまり彼女は常盤の元カノだ。
「いい店を知ってるねぇ。お洒落でゆったりとした空間だ。落ち着くよ。昼食を取りたいところだけど……まあ、話が終わってからにしよう」
そう言って常盤は向かいの椅子に座った。
その様子を見ながら、俺は紅茶を啜り、心を落ち着かせる。
もう片方の手でスマホの録音機能をオンにしながら。
「どうしてここにいるか、聞きたい? お前がせっかく僕に偽の情報を掴ませて、罠を張ったのに、なぜそれが通用しなかったのか……知りたいよねぇ?」
抑揚の少ない平坦な口調で、彼は得意げに語る。
「……なぜ分かった?」
俺が悔しさを混ぜてそう言ってやると、常盤はポケットから取り出したスマホを操作して、机の上に置いた。
そこに表示されているのは俺が昨夜、神崎、常盤の元カノと経由して、常盤に送ったメッセージ。
「この文章にはおかしな点がある。――『一年の冬馬だ。先輩のアカウントは彼女さんから教えてもらった』。『仕返しがしたい。協力してくれ』。『『別れさせ屋』がいつも使うデートコースを送る』。これらは明らかに不自然だァ」
「……」
「だってそうだろう? どうしてお前は僕の恋人と繋がりを持ち、僕に協力を要請し、あげく『別れさせ屋』の情報を持っている? ほら、君ちょっと答えてよ」
常盤は肘で、隣に座った女子を小突いた。
「ひっ……あ、その……えっと……わ、『別れさせ屋』とそこの子が知り合い……だから……」
「正解。それなら全部辻褄が合うよねぇ。でも……ズルはいけないなァ。君が今答えられたのは、正解を知っていたからだ。全部冬馬から聞いていたんだよねぇ?」
以前に対峙したときと同じだ。
常盤の纏う独特の雰囲気が、次第に透明な殺意へと変わっていく。
肌を刺すようなプレッシャーじゃない。心にするりと入り込み内側から腐食させるようなイメージ。
「ぁ……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「ダメじゃないか。僕を裏切ろうとした。しかも二回だよ、二回。そっちから寄ってきたのに、僕から逃げようとして、あげく罠にハメようとした。そんなことが許されるわけないよ」
「――もうよせ。彼女の怯え方は普通じゃない。何をした? このサイコ野郎」
常盤はその空虚な目で俺を見ながら、歪に笑う。
「煽るね。ならこう返そう。――お前は自分で思っているほど賢くないよ。僕は気付いているんだ。今、スマホか、ICレコーダーでこの会話を録音しているだろう?」
「ッ……」
「その反応は当たりだね。ふん、お前の考えはこうだ。まず手始めに罠であることが透けて見えるメッセージを送る。当然僕はそれを疑問に思い、コレから本当の計画の情報を引き出す。そうして高砂楓をおとりとした計画をフェイクだと見破らせて、ここへおびき出すのが目的だった」
そうだ。最初から、楓と花灯は常盤と接触する予定じゃなかった。
常盤は必ず罠を罠だと看破してくる。
ゆえに二人は安全だったんだ。
だからこそ、神崎は、花灯がおとり役になるという表向きの作戦を了承した。
「あとは簡単さァ。僕を油断させて脅すネタを聞き出せばいい。勝利を確信して語るに落ちる――それを狙ったんだろう。けれど残念。録音を止めて負けを認めてくれないかな」
「……いいや。そっちこそ、これ以上何もするな。大人しくしてろ。確かに君からはっきりとした言質は取れなかったが、それでも疑いをかけるには充分だ。この音声は学校に提出する」
「はぁ――だからもうお前の負けなんだ。分かれよ。僕がこの二重の罠を見破った時点で、何の用意もなくここに来ると思ってるの?」
「……それは嘘だ。ハッタリにすぎない」
それを聞いて、常盤は大きくため息を吐いた。
失望の眼差しが向けられる。
「本心を言えば冬馬、お前との知恵比べは少しだけ楽しかったよ。だから特別に僕をハメようとしたことは見逃そうと思う。『別れさせ屋』のほうもコレが帰ってきたから不問にする。――だから録音を消して僕の穏やかな日常を乱さないと誓うなら、これ以上は何もしないよ」
――常盤の目が言っている。
本心だ。ここで俺がスマホを渡して録音を消せば、常盤は『別れさせ屋』を狙うこともなくなる。
だがそれでは――常盤の隣に座る女はどうなる?
カーディガンの袖の間からは時折、赤い痣が見える。
彼女は心の底から常盤に恐怖し、拒絶しようとしている。
花灯がストックホルム症候群に近いものになったのとはレベルが違う。
これは明らかに警察が介入するべき問題だ。
ならばやはり――。
「ダメだ。それじゃあ彼女が救われない。君は人を傷つけることでしか愛せないのだから、誰とも関わるべきじゃない。彼女と別れろ」
「――あーあ、馬鹿だな。大人しく従っておけばいいのに」
常盤はスマホを手に取った。
「今、僕はメッセージを送った。相手は『別れさせ屋』被害者の男二人。それなりに喧嘩が強くて、単純で、操りやすい人たちさ。内容はこうだ。『高砂楓とその隣にいる女を襲え』――君が素直に従ってくれるならもっと穏便に済んだんだけどねぇ。さあ想像してみて? あの二人、これからどうなると思う?」
不気味な笑みを浮かべる常盤。
「高砂のほうはしばらく入院かなァ。女のほうはまあ野蛮な彼らのことだ。言うまでもない。大丈夫。そういうコトはあとでじっくりと、って指示してあるから。すぐに連絡が来て――次は冬馬、お前だ」
常盤大河。お前はやはり危険なやつだ。
もうどうしたって後戻りできない道を進んでしまっている。
だからこそ――こいつはここで潰さなければならない。
「――それはどうかな」
次の瞬間、スマホが鳴った。
常盤のものではない。その隣に座る女子のものでもない。
そう――俺のものだ。
俺は発信者の名前も見ずに通話を受け、そのままスピーカーモードに設定する。
常盤が何か言いたそうな顔をしたが、俺は不敵な笑みを浮かべ、人差し指を唇にそっと当てた。
『――白雪? お望み通り、お昼を買いにきたついでに片づけておいたわよ。男の子二人。とりあえず最寄りの交番に引き渡すから、それでいいわよね?』
桐野江涼子――旧姓、十七夜月涼子。俺の保護者であり警察官である女性。
あの人を巻き込むのは本当に心苦しかったが、今回だけはお昼を買いに来たついでという名目を用意し、協力してもらった。
「ああ、ありがとう涼子さん。ところで楓は近くにいる?」
『ええ、今変わるわ』
「な……なんだ? 誰だ……?」
劣勢だった演技はもうやめだ。
俺は戸惑う常盤を諭すように余裕を持った声音で告げる。
「静かにしてて」
『冬馬、作戦通りにいったぜ。全員怪我なし。涼子さんのおかげで俺の出る幕はなかった。あー神崎が琴平を守りに来たんだけど、そっちは大丈夫だよな?』
「ああ。もうすぐ終わらせるよ。それじゃあ涼子さんによろしく伝えておいて」
通話終了。
表情から察するに、向かいにいる常盤は今、疑問と困惑を大きく感じながら漠然と理解したようだ。
――自分が、負けたということを。
俺は席を立ち、悔しそうに口元を歪めている常盤を睨みつけながら、その隣に座った女子の手を引く。
「さあ来て。君がこれ以上、何かに怯える必要はない。――常盤大河、君の負けだ。これ以上何もせず、誰も傷つけずに生きるというなら、俺ももう何もしない。観念しろ」
「ふざけるな――‼ それは僕のものだァ‼」
――ドンッ‼‼ と、皮が擦り剝けて血が滲むほど強く、机を叩いた常盤。
暗い目。
人は欲しいものを目の前にしたとき、瞳孔が開く。
強い執着を持って、強すぎる感情が体に反映される。
今の常盤もそうだ。
一度は自分を好いてくれた女の子。それを奪われ、奪い返したと思ったところで、再び奪われる。
それが彼にとってどれくらいの屈辱なのか、見れば分かるが、理解したくもない。
俺は何事かと様子を見に来た店員に、すぐ終わります、とだけ伝えて常盤に向き直る。
「お店に迷惑かけないでよね。ここはお気に入りなんだ。そんな野蛮な君に、俺はこう言葉を返そう。――君は自分で思っているほど賢くないよ」
「……ッ、なん……だってェ……⁉」
「君が罠を見破り、カウンターしてくることは分かっていた。『別れさせ屋』の被害者を使うことも予想できた。君は友達がいないからね。だからカウンターにカウンターさせてもらったよ。でもこれで終わりだと侮るな」
徐々に常盤の怒りは沈静化していく。それと同時に放たれる殺意。
気を持ち直し、冷静に反撃の手を考えているのだろう。
だからそこにチェックメイトをかける。
「――こっちに来ていいですよ。八木原先生」