3話『風見織姫という先輩』
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「涼子さんのメールでは確かこの辺りに……」
入学式を終えた俺――冬馬白雪はまだ引っ越してきたばかりで把握できていないこの町を練り歩きながら、とある場所を目指していた。
時刻は夕方。午後六時のちょっと前。
澄み渡る青空はすっかり茜色に染まり、じきに空の主役は太陽から月になる。
急がなければ夜になってしまう。僅かにそんな焦りを覚えながら歩みを進めると。
――墓地が見えた。
「……あれか」
夕日に照らされているのは、傾斜に沿って建てられた無数の墓石。
照らされている部分と同じだけ引き延ばされた影が闇を生み、場所そのものの存在感を際立たせている。
そう、この墓地こそが目的地。残念ながら花も線香も持ち合わせていないが、それでも俺はやってきた。
理由を言語化することはとても難しい。
ただそれでも強いて言うなら、俺はこの場所に来なければならなかったのだ。
まるで遅刻の言い訳でも考えているような、そんなひとひらの罪悪感を抱きながら石造りの階段を登っていく。
だがそこで思いもよらぬことが起きた。
「――冬馬君か?」
後ろから、聞き覚えのある声が聞こえたのだ。
ゆっくりと振り返るとそこには記憶に新しい女の子の姿があった。
まだ制服姿で、けれど俺とは違ってちゃんと花と桶を持っている彼女は――風見織姫。
「これは驚いたな。織姫先輩、どうしてここに?」
織姫は長い髪を揺らしながら階段を登り、俺の隣にやってくる。
「お墓で何をしていると聞かれてもな。見ての通りだ。君は違うのか?」
まあ確かに、墓地に来る用事などお墓参りしかないだろう。
間抜けな質問だった。だから織姫の質問の答えには少しばかり頭を使いたい。
「いやぁどうかな……実は俺、昨日この町に引っ越してきたばかりで。それで町を探検していたらここに。そして罰当たりなことにこの墓地の上、開けたあの場所から夕焼けを見たらいい景色かなと思って」
「本当に罰当たりだな……」
呆れた視線を向けてくる織姫。本当は夕焼けの眺めなんてどうでもいいが、信じてもらえたなら文句はない。
それにしても。向かい合って気付いたが、今朝の彼女とはどうも様子が違う。
凛々しさや堂々とした振舞いが、少しばかり鳴りを潜めているのだ。
俺は織姫が持つ風見家の名前が彫られた桶を見て思う――察するに織姫はまだ『その人』の死を悲しんでいる。
つまり、亡くなったのはつい最近。
織姫は真っすぐで強い、そんな印象を受ける。
だがそういう人間に限って、ふと空いた穴に落ちてしまうものだ。
だから――。
「先輩は、お祖母さんのお墓参りだね」
そう、会話を続けた。
適当に挨拶をして、今日は帰るという選択肢もあったが、それでも俺は声をかけることを選んだ。
「……ふ、どうしてわかった?」
織姫は言い当てられたことを驚きつつも笑ってみせ、止めていた足を動かした。
そして俺は後を追う。
「今朝、手を握ったときに見たんだけど、貴女の手はいわば母親の手だ。家事炊事を日常的にしていて少し荒れている。いや正確にはそれを誤魔化すためにハンドクリームを塗っている」
「そんなところまで見られているとは。少し恥ずかしいな」
「自立している証拠さ。けど逆に言えばそれは両親との間に壁があるということ。でも貴女はまっすぐで強い。とても立派だ。ならその強さは誰から学んだものなのか。両親以外だとすれば多分祖父母だ。そして孫娘をちゃんと叱って、正しい道を示してくれそうなのは――お祖母さんの方だと俺は思った」
そして俺と織姫の足は止まる。目の前には風見家のお墓。
他家のお墓から少し距離を取り、その分だけ立派に建てられている。
この墓石の素材は御影石の中でも庵治石と呼ばれるもので、つまりは最高級に近いランクのものということ。
「立派なお墓だね」
外していたブレザーのボタンを留め直した俺は、手際よく墓石を掃除して花を飾る織姫を見つめていた。
何か手伝おうかとも思ったが、言い出す隙もないほど織姫は手馴れている。
きっと毎日とまではいかずともそれなりの頻度で訪れているのだろう。
「だが十年前に亡くなった祖父も、半年前に亡くなった祖母も望んでいなかった。これは見栄のようなものだ。君は私の両親の話を聞いたかね?」
「ええまあ、社長とモデルの娘だって」
「時折、羨ましがられることがあるんだ。お金持ちの子供で、何の不自由もない生活を送ってていいな、と。確かに金銭面で不自由を覚えたことはない。だが――」
――カチッ。
線香に火をつけるために彼女はライターに火をつけた。
ゆらゆらと揺れる小さな炎。それを線香花火でも見るように、寂しい目で見つめる織姫。
「父も母も会社を大きくするために、あらゆるところにコネを作ってはいい顔をしている。それは、成功こそしているが強引で嫌われるやり方で、風見鶏と揶揄されることもある」
「酷いジョークだ」
「だが事実さ。そして打算的に動けば、打算的に近づいてくるものもいる。金目当てで交際を申し込む輩がこの世に実在すると知ったのは、私が小学生のときだったよ」
警察官や軍人の子供が、親の影響でルールや正しさに縛られるように。
やがて会社を継ぐ、もしくは後継者に相応しい人を選ぶことを望まれて――彼女は風見織姫という完璧な存在を強いられてきたのだろう。
「それでも折れずにここまでこれたのは、祖母が私のことを理解して何度も励ましてくれたからだ」
織姫は線香をあげ、両手を合わせた。
十秒にも満たない黙祷。そこに込められた想いはおそらく不安だろう。
俺は織姫と交代して墓前にしゃがみ、合掌。
死者はどんな時であれ安らかで在るべきだ。
それから再び織姫が話し始める。
「ずっと祖母だけが心の支えだった。君は私のことを強いというが、それは見せかけだよ」
悲しそうに笑う織姫。夕焼けを背にするその姿が俺にはどこか、地獄に飲まれようとする無力な少女に見えた。
「だからマゾに目覚めたのか。自分を痛みから守るために」
「そうだ。だから私はマゾに――ってぇ、何を言っているんだね君はぁ⁉」
「いやだって、今朝下着を見られて嬉しそうにしてたし」
「し、してない、してないぞ! 私は決してパンツを見られて喜ぶ変態ドM女ではない!」
「誰もそこまで言ってないって」
知らん、知らんと下手に誤魔化して後ろ向いてしまう織姫。
口にすればきっと夕焼けのせいだと言い訳するのだろうが、顔が真っ赤になっているのが容易に想像できる。
そうだ。それでいい。きっとお祖母さんだって愛する孫娘が悲しむ姿など見たくないはずだ。
まあ……パンツを見られて云々を争う姿も見たくないと思うけどね。
「だけど、どうしてそんなに突っ込んだ話を俺に?」
「別に誰にでも話しているわけではないぞ。君は面白いし、鋭い洞察力を持っている。もし今後も私と関わることになれば、どうせ勝手に推察されると思った。だから話した。それだけだ」
そう語る織姫の声音はやはりこれまでの堂々としたものとは違い、少し自信のない、けれど柔らかで優しいものに聞こえた。
今朝の凛々しく強い姿も彼女の一部だろうけど、誰にでも優しく、そして柔らかい笑みの似合う今の姿こそがきっと風見織姫の素顔だ。
――なんて、決めつけるのは早計だろうか。
「そうだ。君は入る部活などは決めているか? もしよければ生徒会はどうだろうか。君の能力ならきっと活躍――」
「――ここで何をしているのかしら、織姫」
高圧的なその声が聞こえた瞬間、織姫はまるで後ろからナイフで刺されたように目を見張った。
それまで話していたことなど忘れ、優しい笑みも忘れ、ゆっくりと声のした方向へ振り返る。
蠱惑的な切れ長の目は伏せられ、そして、突如として現れた女に目を合わせずこう言うのだ。
「……お母さん」