16話『カーストトップとの最接近』
悪辣なる噂編、開幕です。
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田中直紀の失踪――平穏なる日常に突如として差し込まれたその影は、さながら水面に石を投げこんだように波紋を起こした。
水曜日。昨日、涼子さんとは別の部署の人間が、事情聴取のために学校を訪れたこともあって、田中の失踪は生徒の知るところとなった。
しかし事はそれだけでは収まらず、悪意のある噂まで立っている。
無論、まだ校内だけの話ではあるが、それでも充分に大ごとと言えるだろう。
噂の中心には当然、一時期交際していたことになっている夏野の名前が挙がり、そしてもう一人。
田中をパシリとして使っていた七瀬の名前も出ていた。
「……平穏な学生生活……か」
昼休み。
一人で考えごとをするために、西校舎の非常階段を訪れた俺は、重い溜息と共に呟く。
無理だ。
平穏でいられるほど俺は無関係じゃない。
噂は今、夏野と七瀬を原因とした何らかの理由で田中が失踪したという方向になっている。
始めは二年一組が中心だったそれも、今では一年の教室にまで話は届き、おそらくは三年にも。そしてやがては教師にも。
案外生徒はみな、おしゃべりということだ。
それに加えてこの噂は――何者かによって意図的に広められている。
こう断言できるというのも、その何者かについて、俺は既に一応の目星をつけているからだ。
噂を広めているのは七瀬に関連した連中――しかしそこに七瀬本人の意思はない。
これは有り体に言えば下剋上。
七瀬をカーストトップの座から引きずり下ろすために、彼女の存在が疎ましかった別の派閥などが反旗を翻しているのだろう。――と、俺は考えている。
そして夏野は、不幸なことにそれに巻き込まれた。
田中との接点――それがちょうどよく利用されているのだ。
すべては七瀬を貶めるために。
「……」
どうしたものか。
正直に言えば、取引さえ明るみにならなければ七瀬がどうなろうとも構わない。が、タイミング的に七瀬が俺に不信感を抱いている可能性もあるし、それに。
例の一件において議論の余地なく被害者である夏野に、これ以上の注目が集まるのは避けたい。
とはいえ涼子さんの忠告もあるし目立つわけにはいかない。
何か行動を起こすとしても、穏便に、誰にも気づかれないようにが必須事項。
しかしそうなると誰か顔役が……。
――ガチャン。
思考を遮るように、真後ろの非常扉が開いた。
警備員の見回りかと構えたが、現れたのは女生徒。
しかも驚くべきことに。
「……こんな場所にいるなんて。ずいぶん寂しい高校生活ね」
「七瀬……、驚いたな。どうしてここに」
カーストトップに相応しき容姿を持つ少女。
かきあげた前髪が海外モデルのような印象を受ける七瀬七海が――そこにいた。
「どうしても聞きたいことがあったのよ。クラスにいったら、ほら、なんて言ったかしら。ものすごくお人好しそうな男の子が教えてくれたわ」
……間違いなく楓だ。
「それで、聞きたいことって?」
七瀬は腕を組んで非常階段の扉に背を預けたまま、俺に冷たい目を向けた。
「見当はついているでしょう? 例の、『田中直紀の失踪には、七瀬七海と美原夏野が関わっている』という噂。アレを広めたの、あなたでしょう。私のことが邪魔で仕方ない連中に情報を流して、女王の立場を失う無様なところを気持ちよく観察しているのね」
「いいや」
俺は即答する。
視線が交錯し、流れる沈黙。時間にして三十秒ほど経つと、七瀬の様子は一片。冷たい表情も少しばかり和らいだ。
「……。まあ、そうよね。メリットがないもの。噂のおかげでまた美原さんは嫌な思いをしているし」
「ならどうして聞くのさ」
「あなたの反応を見たの。分かるでしょう。アクティヴフェーズ、というものよ」
アクティヴフェーズ。
強引な論理による決めつけをぶつけることで、相手から答えを引き出す手法だ。
「勉強熱心だね」
「私はピンチをチャンスに、敗北を次への勝利に繋げる女なのよ。……それはさておき、悪かったわね。私の問題でまた美原さんに嫌な思いをさせてしまって。そうね、端的に言えば彼女は私が守っているから安心しなさい」
意外だった。プライドの高い七瀬がそんなことを言うなんて。
「……えっと、どういう心境の変化?」
「何も変わってないわよ。まさか私が今までの行いを悔い改めて改心したとでも思っているのかしら。私はただ、私を脅すネタを持っているあなたに媚びへつらうことでご機嫌を取っているに過ぎないわ」
なんかツンデレっぽいけど、視線に迷いはないし間違いなく本音だ。
デレてもいなければ改心もしていない。
見事なまでの打算的――織姫とは真逆のところにいる女だな、と逆に感心する。
まあだからこそ、相性が良いとはいかないまでも、接しやすいと思う部分はある。
「それともう一つ。田中の失踪だけれど、何か知っていることは?」
声音が先ほどよりも少し軽い。
おそらくは七瀬自身も田中の失踪に疑問を感じているのだろう。
で、ダメ元で質問してみたってところか。
「田中だけならまだしも、父親も一緒に失踪してる。だから君や夏野は関係ない、何か別の事件に巻き込まれた可能性がある」
「父親も? それは初耳ね。というか……聞いておいてなんだけれど、ずいぶんと詳しいのね」
俺は少し悩んでから、正直に話すことにした。
「警察関係者に知り合いがいる」
「……なるほど。あなたが動揺している理由がようやく分かったわ。私との取引を警察が嗅ぎつけないか心配なのね」
「俺が、動揺…………?」
続く言葉を失う。珍しく、思考が停止してしまった。
それは決して七瀬の言葉を認めたというわけではない。
確かにその懸念はあるが、むしろ本当に心配しているのは……。
「まあ、私は私の身を守るために動くだけよ。明日には反旗を翻した派閥の子も潰すから、それで噂も止まるでしょう。くれぐれも余計なことはしないように。それじゃあ、失礼するわね」
「ちょっと待った」
早足にこの場を去ろうとした七瀬に、俺は待ったの声をかけた。
意味があるのかないのかと言われたら、多分ない。
だが何となく、話をしたくなったのだ。
「あーその……最近どう? 調子は」
他愛のない――それこそ、学生が休み時間に話すようなことを。
「……」
七瀬は踵を返した足を止めて、再びこちらに向き直った。
てっきり、あなたと雑談をする必要を感じないわ。とか言って無下にされると思ったのだが。
意外にも話に乗ってくれた。
「そうね。私はあなたに脅されて仕方なく、誰を足蹴にすることもなく、週二日は水泳教室に通うようにしているわ。おかげでまあ、充実していると言っても過言ではないわね」
「脅されて仕方なくってのは語弊があるけど、でもほら、俺の言う通りだっただろ? 水泳か……ハードルは高いけど、確かに体は引き締まるし、ストレス解消もできる。いいチョイスだね」
「褒められることでもないわよ。そういうあなたこそ、美原さんとの交際は順調なのかしら?」
「……いや、夏野は友達だから。付き合ってはいない」
「は? それはつまり、別の女がいるということかしら? もしかしてアレかしら、噂に聞く生徒会長のほうが本命ということ?」
「なんでそうなるのさ。俺は誰とも付き合うつもりないんだ。だから二人とも友人関係」
と、俺が言い切ると、七瀬はゴミを見るような目を向けてきた。
「……あなた、将来ヒモになりそうね。今のうちに言っておくわ。キープ止まりの女が稼いだお金で食べるご飯は美味しいかしらぁ?」
「いや飛躍しすぎだから……」
将来のことなんて今は考えられないけど、少なくともそんなことは絶対にしない。
そんな他愛のない会話をすること数分。
予鈴が鳴ったのを合図に、俺と七瀬は話を切り上げることにした。
「……まったく、あなたとの会話で私の貴重な時間が失われてしまったわね。もう戻るわ。あなたは少し待ってから戻りなさい。お互い、一緒に居るところを見られたら困るでしょう?」
「ああ。――あ、最後に一つだけ。この噂は意図的に広められたものだ。この噂を誰から聞いたか、それを調べることをおすすめするよ」
「知っているわ。カバートアグレッション、でしょ。無知を装って人間関係をめちゃくちゃにするタイプ。舐めないでよね、もう黒幕が誰かも特定しているわ」
……強いな。そして怖いな、慢心しない七瀬七海。
「それじゃあね」
毅然とした雰囲気で、七瀬は校舎の中へ戻っていった。
一応、後で夏野にクラス内での七瀬の様子を教えてもらうが、あの調子なら別派閥を潰すこともやってのけるだろう。
安心と不安の間の複雑な気持ちを抱えたまま、俺も校舎内に戻る。
そして東校舎の一階へ向かう途中、二階――つまり二年の教室がある階の廊下から話し声が聞こえてきた。
俺はとっさに身を隠して、聞き耳を立てることに。
「――つーかヤバくない? 七瀬の取り巻きがいろんなヤツにウチらのこと聞いてたって!」
「大丈夫っしょ。七瀬アンチ多いし、噂流したのがバレてもなんもできないって」
「それな! 取り巻きもどんどん減ってるし、あーマジ爽快。一年のときからコツコツ女王やってきたのに一瞬で派閥崩壊しててマジウケるわ!」
「どうせ男にも股開いてんでしょ? つか田中ともヤってたんじゃね?」
「あー、知らんけど八木原とも付きあってんしょ? マジビッチじゃん! あと勝手に被害ウケてる美原な! あんなのと付き合ってたとか趣味悪すぎね」
「あーあ、終わってんわ、七瀬もついでに美原も。ま、あーしらが仲良くしてあげればいっか」
……。
…………。
………………。
「……こわ」
と、そんな個人の感想はさておき。
これは結構まずいかもしれないぞ。
今の話が本当なら、七瀬は負ける。
単純に七瀬に不利な情報が揃いすぎている。
それがどんなに尾ひれのついた話でも、声さえ大きければ、多少なりとも人は釣れる。
つまり数の差だ。
以前の田中が、周囲の人間を動かせなかったように。
巡り巡って七瀬が、今回は孤立することになる。
七瀬がこれまで表向きどのように振舞っていたかは知らない。
聖人君子かも暴君かも知らない。
けれどいずれにしても、人の秘密に他人は群がるものだ。
――好奇心。
それが田中の失踪という非日常を起爆剤として、悪いほうに転がっている。
七瀬が勝つにはせめて、好奇心だけの傍観者を切り捨て、黒幕である彼女たちと真っ向からぶつからなければならない。
それができなければ、七瀬は女王の座を奪われ、さらには夏野も――。
そして何よりも、行方不明者である田中をここまでいいように利用するなんて許せない。
目立つことはできない。なら、それに適した方法を考えるだけだ。
噂に便乗した扇動――いいだろう、それがどんなに脆いものか、証明してやる。