幕間『青春を脅かす影は揺らめいて』
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風見織姫からもたらされた、生徒会への招待状。
それを比喩的な意味で破り捨てたその日の放課後。
俺は楓を連れて、先日夏野と行った喫茶店『バタフライウインド』に向かうこととなっていた。
というのも楓から、店を教えてくれと頼まれたのだ。
理由としては男同士の友情を育む放課後のスキンシップ――というのは建前で。
もし女の子とデートをすることになったとき、ちょっとニッチな店を知ってるカッコいい男子、を演出するために、そういった情報を集めているとのこと。
なので特に予定のなかった俺はそれを快諾したのだが。
「―――久々ね、白雪」
校門のところで――桐野江涼子と遭遇した。
「え、涼子さん? どうしてここに?」
「……誰? すごい美人だけど」
隣を歩いていた楓が声を潜めて聞いてくる。
「……俺の保護者」
桐野江涼子――身長は俺と同じ百七十センチ、髪型は黒髪を一束にまとめ、すらりとした体躯、化粧も薄く、飾り気のない黒いスーツを着たその姿は、仕事のできるオフィスレディという印象を抱かせる。
左手の薬指には結婚指輪が嵌められているが、夫とは既に別れており。
しかし旧姓が『十七夜月』と書いて『かのう』と読むなかなか珍しい苗字だったこともあって、読み易いという理由で、桐野江の名前をそのままにしているという裏話。
「驚いたわ。まさか君が友人と一緒に下校だなんて。なんだかんだいい青春を送ってるんじゃない」
かつかつと足音を立てて近づいてきた彼女は、楓に視線を送る。
「あ……えっと、高砂楓です」
「うん、見るからにいい子そうだし、白雪と仲良くできるのも納得。これからもよろしくね、楓くん」
「は、はい!」
気さくな笑顔を向けられて鼻の下が伸びてる楓だった。
涼子さんのイメージはどこか織姫と被るから、楓の好みは年上のお姉さんなのかもしれない。
「ああ楓、俺、ちょっと話すことあるから、先に行ってて。駅前で待ち合わせってことで」
「ん、了解。じゃな!」
「悪いわねー」
そうして爽やかに走り去る楓を見送り、二人きりなったところで、俺は改めて尋ねる。
「それで、どうしてわざわざ学校に? 何か進展があったんですか?」
「保護者として、純粋に様子を見に来た――じゃあダメ?」
「ダメじゃないけど。明らかに何か話すことがある感じだ」
「……鋭いわね。ホント、前までは素直で可愛らしい子だったのに。いつから捻くれ小僧になっちゃったのかなぁ?」
なんて涼子さんは口にするが、そんなことは分かりきっている。
だからそれ以上、軽口が広がることはない。
「正直、あなたが真っ当に学生生活を送っているところを見て、話すべきじゃない……とは思うんだけどね」
そう語る彼女の表情は、俺のことを本気で心配している保護者の顔。
けれど、それからこう続けた。
「でも、いずれ知ることだから真っ先に知らせに来たの」
刹那。声の調子も、雰囲気も、一変した。
それは保護者としてではなく、年上のお姉さんとしてでもなく――警察官として職務に準ずるときの彼女の在り方。
念のため周囲に誰もいないことを確認してから、涼子さんは話し始める。
「――田中直紀、知ってる? ここの二年生で男子生徒」
――何か、虚を突かれた感覚を覚えた。
「ちょっとした知人だけど、彼が?」
「今朝――捜索願が出されたわ」
「な……なん……だって……?」
不意に、全身に寒気が奔った。
だが、知っている。
俺は既に一つ、パズルのピースを持っているはずだ。
田中直紀と最後に接触したのは、七瀬との取引を行ったその日。
それから土日を挟んだ月曜日、夏野から聞いた話では、彼はインフルエンザにかかったらしく一週間ほど学校を休むと聞いた。
ならば――一週間経った今日は?
捜索願が出されたということは、そういうことだ。
「彼は父親と二人暮らしをしていた。父親の職種はウェブデザイナー。いわゆる在宅ワークね。仕事の納期が迫り、取引先が連絡を取ろうとするが音信不通。自宅に行ってみたら玄関の扉は開いており、息子共々消え去ったというわけよ」
田中直紀の失踪。俺は可能性の一つとして七瀬による報復というものが浮かんだが、それはあり得ないと冷静に考え直す。
いかに二年のカーストトップとはいえ七瀬に人を攫う力はないだろうし、そもそも父親を巻き込む必要はない。
だとすればこれは――学校の問題とは別の、何か。
「……人づてに聞いた話だけど、田中は先週、インフルエンザになったから一週間学校を休むと連絡していた。まずは連絡してきたのが誰か確かめて、それから父親の取引先に怪しいやつがいるか調べて――」
「――待って。落ち着いて。気持ちは分かるけれど、大丈夫よ、ウチの担当部署がきっちり調べてる。私が言いたいのは、このことは警察に任せて、あなたは普通の学生生活を送りなさいってことよ」
「……警察がちゃんと動くってことは事件性があるってことだ。身近なところで犯罪が起きれば、俺は動くしかない」
それに田中が失踪したとなれば夏野はどう思う?
ほかにも警察が介入すれば、七瀬との取引が公になる可能性だってある。
そして多少飛躍するがこの失踪の原因が、俺にあるとしたら――――。
「早まらないで。まだ事件と決まったわけじゃないし、それに注目を浴びれば、ウチの職員や探偵があなたを調べるわ。そうすればあなたはまた病院に戻ることになるかもしれない。そうなるのは避けたいでしょう?」
「……っ」
「難しいだろうけど私を信じて。ね? 今はのんびり、波風を立てずに学生として過ごすのが、あなたのやるべきことよ」
俺を諭すその声は、まるで母親のように優しく――温かい。
ああ、心臓の音がうるさい。
俺は雪だ。熱を与えられたら溶けてしまう。だから温もりなんて遠ざけるべきもので、恐れるべきもので。
無意識のうちに、俺は拳を握っていた。
それは何かを我慢するサイン。怒りや悲しみ。それを自覚して、俺は冷静になる。
涼子さんの言っていることは正しい。
目的を果たすためにも、面倒ごとは避けなければならない。
「ああ……分かったよ」
「うん。今度、あなたの新居に行くわ。どうせろくに片づけてないんでしょ。たまには保護者らしいこともしないとね」
「……ああ、うん。ごめん……もう行くよ」
「ええ。困ったときはいつでも私を頼りなさいよ。あなたはまだ子供なんだから」
確かに俺はまだ子供だ。
だけど、それにしても――あまりに多くのことを知ってしまった。
無知は罪であり、幸福でもある。
俺はもう、無邪気だったあの頃には戻れない。
だから――――。
いつか、必ず復讐を果たさなければならない。