最終話『桜花を摘み取るなつのあめ』
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冬の雪に始まり、春の桜に魅せられ、夏の雨に溶けたこの物語は――そして秋の黎明に辿り着いた。
十月。葉は鮮やかな紅に染まり、気温は夏の暑さを思い出させないほど涼しく、そして冷たい。
ただ今日という日を彩る色が一つ欠けただけ。そう形容するにはあまりにも名残惜しい寂寞。
目蓋を閉じればいつだって胸の内側にある夏は、しかしレンズに光を通すだけで幻と消えてしまう。
そう――東雲白雪の隣に、美原夏野の姿は無い。
「…………」
転入日、初日。これから新しく通う学校の寮で目を覚ました俺は、ベッドサイドに座り、用意した紅茶を少しずつ飲んでいた。
普段の俺にアーリーモーニングティーという、起き抜けに紅茶を嗜む優雅な習慣はない。
けれど今日は、そうしたい気分だった。
香り高い柑橘類、温かい飲み物は気持ちを落ち着かせ、緊張をほぐしてくれる効果がある。
そう、白状すると俺は、およそ二時間後に控えた始業に対して少し構えてしまっているのだ。
これも心境の変化だろうか。
四月頃の俺は、高校に通うということにさえ無頓着だった。
それがどうだ。今の俺は緊張しながらも同じくらい、新たな生活の始まりに胸をときめかせている。
それこそ、紅茶を飲まなければ落ち着かないほどに。
新しい土地。新しい学校。新しい部屋。新しい人間関係。
ここで生活する準備は昨日のうちにすべて済ませておいた。荷物の搬入や教材のチェック、寮の部屋が近い同級生への挨拶もしたし、感触も悪くなかった。
この時期の転入ということで良くも悪くも目立つだろうが、上手くやっていける自信はある。
あの頃の俺が知ったらさぞ驚くに違いない。それほどまでに、俺はまるで子供のようにワクワクしている。
……うん。ワクワク、しているんだよな。
別に自分に言い聞かせているわけではない。
復讐を終え、不眠症が改善し、夏野のおかげで生きることにも前向きになれた。
その夏野とは遠く離れてしまったけれど、でも未来への期待があるのは本当なんだ。
だから――と、紅茶を飲もうとした次の瞬間、スマホが短く音を鳴らした。
どうやらメッセージが来たらしい。
相手は……まさか俺が早くも感傷的になっているという予感でも覚えたのだろうか、夏野だ。
『起きてる?』
とりあえず、起きてるよと送って返信を待つ。が、五分ほど経ってもスマホが鳴ることはなかった。
朝の支度でもしているのだろうか?
寮と学校が近いので通学時間は俺のほうが圧倒的に短い。これはそれに伴った時間のズレ、だとすると――ああ、これが別々の学校に通うっていうことなんだな。
「…………」
窓外の景色を眺めながら物思いに耽っていると、付近に土手が見えた。
土手なんてどこも似たようなものだから、俺の記憶の扉が勝手に開き、風見織姫と初めて出会ったときのことを連想する。
桜の散った四月。入学式に向かう途中で俺は坂を転がり、そして織姫に声をかけられた。あれも今の俺を構成する、大切な思い出の一つだ。忘れろと言われたことまでも鮮明に覚えている。
彼女は今、何をしているのだろうか。
さくらを逮捕したあと、俺は花灯に事件解決の報告をしたのだが、その際に生徒会長を引退したという話は聞いた。一流大学への推薦が決まったとも。
それ以上は花灯への謝罪や別れの言葉などが続いて聞けなかったが、何にせよ頑張っていることは確かだろう。
織姫だけじゃない。花灯は神崎凪沙と友好な関係を築き、新しい生徒会の一員として日々忙しくしているそうだし、同じクラスの南雲遠夜と星川鏡花のカップルは、何度か喧嘩をしながらもその度により仲良くなっていると聞いた。
数学教師の斎賀砂羽は結婚式を挙げ、常盤大河の元カノだった女生徒は無事復学。
不定期に送られてくるメッセージによると、楓や七海、そして汐音もなんだかんだ静かに暮らしているらしい。
そういえば宮下近衛からも連絡があったな。
さくらが起こした事件の処理が鈍重ながらも順調に進んでいることと、今回の一件の成果が認められて昇進が決定したという吉報だった。
まあ本人曰く、成果以上に問題行動の多さが大きく影響していて、管理職にすることで現場から離れさせようという魂胆が働いたに違いない、とのことだが。
ああ、それともう一つ。
神無月秋夜の起こした事件で家族を失った十歳の女の子――菊代結が親戚に引き取られ、驚くことに現在この町で暮らしているそうなのだ。
さらに彼女は俺と会いたがっているらしく、今少しずつ顔合わせの予定を立てている。
家族を突然失ったあの子の境遇は、以前の俺に重なる部分があるからな。
俺自身、何か力になれることがあったら何でもするつもりだ。
そんなわけで、決してすべてが丸く収まったというわけではないけれど、皆は最善を目指しながら未来へと――、
「ん、電話……夏野? ……もしもし?」
『おはよう、白雪。学校に行くまで時間ある? 少し話したいなって』
不思議だ。その声を聞くだけで心が落ち着く。
まるで気持ちのいい木漏れ日に当たっているような感覚。
「うん、大丈夫だよ」
紅茶の残りを飲み干して、俺は静かに立ち上がった。
荷物の用意はできている。
あとは歯を磨いて、夏野と話しながら新しい制服に袖を通そう。
『今日転入日よね。緊張してる?』
「してる。でも、多分何とかなるよ。紅茶も飲んだし」
『それって願掛けみたいなもの? 私も飲もうかな……あ、でもお湯湧かせない……』
「今度おすすめを紹介するよ。紅茶も……ポッドもにぇ」
『歯磨きしてるの?』
「んー」
『もう……。約束だからね。今度会ったときに絶対教えてもらうから』
今度――そうだ。まだまだ頼りないけれど、俺も進んでいるんだ。変化を続けて、未来へと。
そしてそれは夏野も同じ。
今は一時的に違う道を歩んではいるものの、その気持ちは変わらない。
だったら、寂しいからって女々しくなってる場合じゃない。
「夏野は今、何してるの?」
『ヘアアイロン。今日は少し髪に気合い入れようかなと思って』
「へぇ、似合ってるよ」
『もう、テキトーに褒めないで。心配しなくてもあとで見せるから。それよりもそっちは勉強とか平気?』
「桔梗高校より少し偏差値は高いけど置いていかれることはないよ。強いて言うなら体育のほうが問題だ」
『あははっ、白雪、体力ないもんね』
「努力はするよ」
前まではちょいちょいサボっていたこともあったが、この学校ではきちんと参加するつもりだ。
何せ今の俺には、女の子一人を抱えられるくらいには体を鍛えたいという目標があるのだから。
決意を胸に、俺は新たな制服に体を馴染ませる。
「よし。そろそろ行くよ」
『……うん』
自分からこの通話を切ることは、とても名残惜しい。
早くも頭の片隅では、次に夏野の声を聞けるのはいつだろうかなんて考えてしまっている。
でもだからこそ、心配をかけないようにしないと。
『ねえ――やっぱり、もう少しだけ繋いでいてもいい?』
「え……?」
間の抜けた声が出てしまった。
まさか夏野がこんなことを言うなんて、初めてのことなので少し意外だ。
もしかして夏野も何か不安や悩みを抱えている――と考えてしまうのは早計だろうが、しかし見過ごすわけにもいかない。
「ああ、なら学校に着くまでね」
今の俺は以前ほど夏野の心を読み取れない。それは決して夏野の別の側面が影響しているというわけではなく、ただ単に俺が夏野を好きすぎるせいで冷静さを失い、客観的な視点が持てなくなったからだ。
それはそれでなんだか恥ずかしいが、とにかく夏野の悩みを知るためには言葉にしてもらわないと。
今日は初日ということで始業より少し早めに学校へ来るよう指示されているが、なに、転入初日からラブコールしながら登校していると思われようが構わない。
この僅かな時間で夏野の悩みを聞き出してみせる。
部屋を出ると、スピーカーの向こう側からも同じく扉を開閉する音が響いた。
夏野も家を出たのか。いつもよりずいぶん早い時間だ。
「今日は何か用事でも?」
『んー、まあね』
階段を下りて一階のエントランスへ向かう。玄関で靴を履き替えて、外へ。
ここから校舎まで本当に少しの距離。一歩進むだけで大きく、夏野との通話は終わりへと向かう。
慎重に、焦るな。
「買いたい物でもあるの?」
『いえ、今日は早めに学校に来いって言われたのよ』
「先生に?」
『ええ』
何の用件だろうか。夏野が問題を起こしたとは考えにくい。となると事件後のカウンセリング?
いや、夏野に精神的な後遺症はなさそうだった。
「もしかして名取?」
『そんなわけないじゃない。ええっと……名前なんだったかしらね』
「…………っ」
まずい。次に考えられる可能性を考えているうちに、あっけなく校門前に着いてしまった。
時間切れ。予定の時間は差し迫っている。
しかしここで通話を切るなんてことができようか。
こうなったらストレートに話を聞くしかない。
覚悟を決めた刹那――まるで見計らったように夏野が言った。
『きっと、何かの手続きか説明でもあるんだと思うわ』
「……手続き? 説明? 何の?」
『言ってなかったかしら。先日我が美原家は引っ越すことを決めてね。私もそれで桔梗高校から転校することになったの。そして今日が転入日』
「えええええええぇぇぇ――ッッ⁉ なんで黙ってたのさ! っていうか夏野今どこに――」
「――――君の後ろ」
そのとき。振り返った俺は、目撃した。
涼風に靡く綺麗な茶髪。揺るぎない強さを宿したぱっちりとした目。ブレザーのボタンは外れていて、ネクタイも緩め、スカートは短く、全体的に着崩された制服。
思わず笑みがこぼれてしまうほどに、彼女らしいその姿。
美原夏野が――居る。
夢じゃない。
現実として確かに、俺の目の前に居るんだ。
「あ……あ…………」
「ふふ。口、ぱくぱくしてるわよ? どうかしら、今朝セットした髪は。似合ってる?」
「に、い、ど、え、あ、えぇ……⁉」
「どんなリアクションよ。まあそこまで驚いてもらえたなら、秘密にしてた甲斐があったわね。ドッキリを受ける側は初めて? 結構楽しいでしょ」
立ち尽くすしかない。
美原家が引っ越し、夏野が転校、夏野が俺の目の前に、今日が転入日……俺と同じ……ということは……?
「……なんでここに……?」
「それを尋ねるの? 追いかけてきた以外ないじゃない」
「ひ、筆記試験は?」
「……それ、遠回しに私のことをバカって言ってる? まあ確かに、少し前の私だったら厳しかったかもしれないけれど。でも、ほら――ここに居るわ」
夏野はそう言って胸を張ってみせた。
確かに夏野が着ているのはここの制服だ。
どんなに信じられなくても……いや、夏野の言っていることを疑っているわけではなく、そもそも俺の思考はそれより前の段階で止まってしまっているのだが、しかし受け入れるしかない。受け入れたい。
夏野はここに居る。それがたった一つの真実だ。
つまり俺が事件の事後処理やら引っ越しの準備をしていた裏で、夏野もまた同じように転入試験を受けていて、いや、その前に家族を説得して、そして見事合格してみせた。
「まあタネを明かすと、私があの別荘に閉じ込められてたときね、ずっとあの子が勉強を教えてくれてたの。正直なんでこんなことしてるんだろうって思ってたけど、でも――君から転校の話を聞かされたときに理解したわ」
「……そうか、俺が桔梗高校に居られないことは予測できた。名取を使って俺の転校先の候補を絞ることも……」
「そのうえで、あの子は私に選択肢をくれた。白雪を追いかけるという道を」
さくらは最後まで、いや、事件が終わってからも俺を……。
無論、そこには夏野自身の努力もあっただろう。
けれど同時に、これはさくらからの置き土産というわけか。
バカだな……そこまで優しいから、君は罪悪感に潰されてしまったんだ。
本当にどこまでも、君は憎らしい。
「白雪」
ぽん、と両肩に手を置かれた。俺は目線を合わせるように少し背を屈める。
「私は君を幸せにするって決めた。だから少しも待たないわ。君がどこか遠くへ行ってしまうとしても――私が追いかけるから」
「夏野……」
「さあ、行きましょう、白雪。二人で」
「――ああ」
冬馬白雪の復讐は終わりを迎えた。そして今日から、東雲白雪としての青春が始まる。
傷だらけの日々を癒して埋めるような、尊い存在との眩しくも儚い大切な時間。
花は散る。けれど季節を跨げば、水をやれば、愛でれば、また植えれば――再び咲き誇る。
何度だって、きっと。
そうして俺と夏野は、新たな未来へ続く門をくぐるのだ。
「そういえば今朝、珍しく占いを見たのよね。初日から失敗しないようにって」
「今回は友達できるといいね」
「今回はって何よ、桔梗高にだっていたわ! 友達! ……もう、せっかく私が白雪の分までチェックしたっていうのに。教えてあげないからね」
「いいよ。君の表情から当ててみせる」
「ぜーったい分からないわ。はてさて今日の白雪の運勢は幸か不幸か、いったいどちらでしょうねー?」
知っているだろうか。人間の心理というのは面白いもので、例えば、起きたときに。
『今日は気分がいい。素晴らしい一日になる』と思ったパターンと。
『今日は憂鬱だ。きっと嫌な日になる』と思ったパターンで。
なんとその日の勉強や仕事の作業効率が変わるらしいのだ。
ならば今日という一日を俺はどう思うだろう。どんな色を付けるだろう。
答えはもう決まっている。
――どちらでも構わない。
それが今の俺の本心だ。
今日は良い日かもしれないし、悪い日かもしれない。
ただどちらにしても、俺の隣には夏野がいる。
この先何が起きようと、二人ならきっと、それを幸せに変えていけるはずだ。
俺は夏野のそばに居る。
夏野は俺のそばに居る。
優しく手を繋いで。
不足しがちな部分を補い合って。
恋という名の一瞬を、愛という名の命を大切に、二人で生きていくのだ。
光に包まれるような――その青い春を。




