40話『約束通り、辿り着いたよ。これが真実だ』
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「それじゃあ語らせてもらうよ。さくら――君が連続殺人鬼ホワイトキラーとなったその動機を」
「まあ気楽にいこう。紅茶のおかわりは?」
「いただこう」
不敵な笑みを浮かべて席を立ったさくらは、俺が渡したティーカップを持って背を向けた。
一歩進むごとに揺れる白銀の長髪。それにあの日降り注いだ雪を投影して、火蓋は切られる。
否――この幕は、俺が切って落とす。
「十七夜月さくらは幼少期、自分のことを神に等しい存在だと思っていた――これが、君という存在を紐解くための最初のピースだ。生まれ持った特異な容姿。天から授かりし才能。それらは運動、芸術、どのような場面でも発揮され、周囲からは天才、神童だと崇められていた。そして君自身も、自分の能力に自覚的だった」
「……」
それまで聞き手として静かに、そして絵になる所作でお茶を淹れていたさくらは、ポットを置いて軽く両手を挙げた。
今彼女がどんな表情をしているのか、想像は容易い。恥ずかしい思い出を自嘲するように、苦笑いを浮かべていることだろう。
「だが君はやがて思春期に入り、漠然と"ある疑問"を覚え始めていた。きっかけの一つは小学五年生のときのピアノのコンクール。同じくコンクールに参加していた風見織姫は、君の才能に壁を感じてピアノの引退を決意した。きっと母親から随分と叱られたことだろう。もしそれが控室やロビーなどでおこなわれたのなら、君はその光景を目撃したはずだ」
「ああ、今でも覚えているよ」
「そこで思った。なぜ自分はこうも万能なのか。果たしてそれは良いことなのか。自分がいたから彼女の未来は一つ潰えてしまった。それはとても残酷なことだろう。なのにどうして両親は自分を一度も叱らず、"特別"だと称賛し続ける? "特別"は決して良いことばかりではないのに。"特別"だから友達や仲間といった対等な存在がいないというのに。――自意識が発達して客観性を獲得し、善悪の区別がつくようになった君は公平性を重んじるようになった。聡い子の特徴だ。そうして君は少しずつ、周囲からの過剰な"特別扱い"に懐疑的になっていく」
誰もが自分を肯定してくれる。もしもそんな世界があるとしたら、それはなんて理想郷だろうか。
しかし、肯定と理解は別物だ。
もし自分を肯定してくれる人が別の何かを拒絶していたとき、考えざるを得ない。なぜ自分は許され、別の何かは許されなかったのか。本当に正しいのはどちらだろうか。
人間は複雑だ。発した言葉と本心が一致しないことだってある。
さくらはそれを知ってしまったからこそ、気付いてしまったこそ――もう何も知らずに、ただ褒められるだけの理想郷には戻れなかった。
「いつからか、どこからか。君は両親から褒められても素直に喜べなくなった。むしろいつものように出る称賛の言葉が、機械的、事務的で自分を理解していないとさえ感じていた」
肯定はされても理解されることはなく、楽園から――追放されてしまったのだ。
「その矢先のことだ。出会ったばかりの俺が、君の本心に気付いた」
――『……お姉ちゃんも無理、してる……?』。
――『……前に、褒められてたとき、嬉しそうじゃ、なかったから』。
「そう……君だけが、"私"を見てくれた」
「それこそが、君が俺に執着する理由の根底」
「執着という言い方は気に入らないな。恋に落ちた、という表現が好ましい」
「……そうだね。撤回しよう」
ありがとう、とさくらは再びティーカップを俺の目の前に置いた。
「中学生になった君は、自らの特異性がどこまで通用するかを試し始めた。教師に我が儘を言ったり、校則を敢えて破るようにしたり、そうやって大人や同級生の反応を見ていた。自分を見てほしい。構ってほしいと甘える子供のように。けれど誰一人として君の望む反応は示さず、結局それが俺への恋心を強くさせた。だから君は俺との距離を縮めようとする伏宮風花に、有り体に言えば嫉妬したんだ。――ところで君は以前、こういう発言をしたね。"こうなる未来は視えていたよ"と」
「オカルティックだと否定するかい?」
「いいや。案外、未来は誰にだって読めるものだ。例えば俺がこのティーカップを落としたら中身はこぼれてしまう。けど床にはカーペットが敷かれているからカップが割れることはない、とかね。でも君の場合、同じ要領でもその人並外れた思考力と洞察力で、予知に近い予測能力を発揮できるんだろう? スーパーコンピューターによる演算みたいなものだ。まあ、つまり何が言いたいかというと――あのときの伏宮風花への助言は、本来ならすべてが丸く収まる結末に繋がるはずだった。しかし君には、蝶の羽ばたきが竜巻を引き起こすような誤算があったんだ」
束の間、さくらの表情が少し固くなった。的外れなことを言ったからではない。それは事実で、真実で、つまり彼女の心の剥き出しになっている部分――トラウマ、もしくはコンプレックス、あるいは個性と呼べるものに触れたということ。
「それは――さくら、君に人を操る力があったことだ。相手の思考を捻じ曲げ、命令を実行させる力。空想じみた話だが有るものを無いとは言えない。しかし同時に、無いものを有るともいえない。だからそれは魔法や超能力ではない。そこには何かしらの科学的な理由があるはずだ。声の音程や波長が他人の脳に働きかける作用を持っているとか、君の容姿やあるいは何かフェロモンのようなものがそうさせるのか、もしかしたら君のDNAには人間社会の頂点に立つような特殊な因子があるのかもしれない」
「よく考えるね。で、どの仮説が本命かな?」
「全部だ。そしてそれらが、君の受けた"特別扱い"に繋がっていると考えている。……ずっと疑問に思っていたんだ。俺の記憶に残っている君は、物を買うときに一切金銭の取引をしていなかった。単にその場面を見落としただけとも考えられるが――君が頼めば、相手は喜んで商品を差し出したんじゃないのかな。それが常識や倫理に反することだろうと、君の言葉は相手の脳か心に深く刷り込まれてしまう。異常なことだけど、しかし"十七夜月さくら"にはできてしまうことだった」
高貴な存在に感じるカリスマ。愛らしい姿に覚える庇護欲。ほかにも憧憬、恋情など、他人との線引きに使われる感情は大きいものから小さいものまで世界に溢れている。
言ってみればさくらの"特別"は、自身に対するそういった感情を極限まで高めてしまうものではないだろうか。
すべてのパーツに合致するパズルのピースのような、そんな存在。
ゆえに誰かも愛され、無償の愛に己を見失ってしまう。
誰も彼女を理解していないからこそ、誰もが彼女の言葉に従うしかない。
「――だから伏宮風花は君の言葉に逆らえず、両親の前で手首を切ってしまったんだよ」
と、こんな言い方をしてしまうと、伏宮はさくらのうっかりで死んでしまったように聞こえるが、しかしそんな間抜けな話が果たしてあるのだろうか?
少なくとも俺の知るさくらはそんなミスはできない。そんなことができたのなら、こんな状況はできあがってない。
「でもこの話には、もう少し掘り下げる余地がある」
突きつけるのは残酷な推理――緊張で乾いた口を紅茶で潤して、静かに息を吐いた。
大丈夫。覚悟はできている。
これが、すべてを紐解くということなのだから。
「さくら、君は賢い。……本当は勘付いていたんじゃないのか。自分に相手をコントロールしてしまう力があると。君が視た未来の一つには、伏宮の自殺が成功してしまう光景があったんじゃないのか。なのに――それを承知で君は、能力の実験のつもりで伏宮を操り、その様子を探った。だから彼女が手首を切る現場に居合わせたんだ」
さくらが自らの髪を撫でようとして、手を止めた。それが自分を慰める行為だと自覚したからだろう。
なんとも自虐的で、自罰的だ。
俺は語り続ける。
「結果、伏宮は助からなかった。応急処置が間に合わないほど傷が深かったのかもしれない。でも俺の推理は違う。君は――敢えて伏宮を見殺しにしたんだよ。そうすれば自分を取り巻く環境が、特別扱いが変化すると考えた。お前は悪いことをしたんだって、きちんと糾弾されると思ったんだ。そうして十七夜月さくらは自分の手で、自らの才能で、他人の命を奪った。だというのに伏宮の両親は、君にお礼を言った。君は……人の命を奪ったという事実に耐えられず、拠り所を求めてまた過ちを犯した」
「……ああ」
「時間が経って落ち着きを取り戻した君は、自らの行動を余計に悔やんだ。当然だ。思春期の君の心中には自分が何者かなのかという疑問がありながらも、"特別"によって形成された自己が確かにあったから。けれどその"特別"は超えてはいけない一線を超えた。失意の君が行きついた先は、極度の自己嫌悪。アイデンティティの喪失。やがて君は俺から離れて"普通"に馴染もうと努力を始める。それが中学一年の後半のことだ」
しかしそれも思い通りにはならない。伏宮の死の真相がうやむやになったように、さくらが"普通"になることは許されなかった。どんなに望む未来へ至る筋道を予測しても、己の存在がそれを許してくれない。
それはまさしく、全能のパラドックスだ。
救いのない矛盾を抱えながら、加えて俺のさくらに対する依存は増すばかりで、この頃は彼女にとってまさしく覚めない悪夢のような時間だっただろう。
「数か月後に迎えた二回目のクリスマス。俺は君を肯定する言葉をかけた」
「そうだね。捉えようによっては、とても前向きな言葉だった」
「だが自己否定を繰り返していた当時の君にとっては、良心を後ろから刺されるものでしかなかった。そしてあの夜。君は偏った教養で暴走する俺を見て、初めて恐怖を覚えた。そしてこう思った。十七夜月白雪にとっての神は十七夜月さくらだ。君をこうしてしまったのは自分なんだ。だから自分が正しい道へ導いてやらなければと――思って……しまったんだ」
「別に君が責任を感じる必要なんてないさ。すべて事実で、仕方がなかったことだ」
「……でも、ッ……」
仕方がない――それはとても突き放すような、諦めた言葉だ。ある種、思考停止のようにも聞こえる好かない言葉。
なのに、否定できない。
この出来事でさくらは恐怖を学び、それをもたらした俺により唯一性を見出したことだろう。だから俺はこの一連の事件の探偵役に選ばれた。
もしそれが違ったら――あの夜の俺の行動がもっと違うものであれば、この現実は変わっていたかもしれない。多くの人が巻き込まれずに済んだかもしれない。
けれどさくらを肯定することしか知らない俺では、どう抗っても別の行動、結末には辿り着かないだろう。
分岐点はもっと前にあって、もしかしたらそれは生まれたときから決まっていたことで。
遺伝か、環境か――選択肢なんてあってないようなものだ。
きっとさくらもそれを考え、悩み、諦め続けたうえで口にした……なら俺にできるのはやはり、彼女を紐解くことだけだ。
それだけ、なんだ。
「……話を続けるよ」
なんとか冷静さを取り戻し、ティーカップの熱を頼りに推理の披露を再開する。
「それからの君は、俺との距離を一定に保ちながら日々を過ごした。俺の自我や自立心を発達させ、君に依存し続けることを避けるためだ。そんな生活が一年続いた。皮肉な話だよ。わざわざ語ることのないあの一年が、振り返ってみれば一番平和で幸せだった」
「幸せなんて自覚できることのほうが稀さ」
「だけど目を離すとすぐどこかへ行ってしまう。……君の思惑通り俺はその一年で成長した。法に照らし合わせた世間の倫理観と価値観をすり合わせ、加減というものを知った。けれど一方で、さくらに対する依存心は消えはしなかった。俺はさくらが好きだったんだ。それが許されざることだとしても」
世間の常識と個人の感情。その狭間で鎖に縛られていたあの頃。
重量を増していく心を抱えながら、結局俺はさくらに"特別"を求めていた。
「君はそれを見抜いていた。それを承知で、あの間違いだらけの日々を再現するように俺と接した。でもその目的は正反対。君は俺の気持ちに応えようとしたのではなく、逆に俺から拒絶してほしかったんだろう? そうしなければ俺はいつまでも一人立ちできないから。そこで疑問が浮かぶ。――なぜ君はそうまでして俺の自立を望む? 答えは簡単だ。それは当時の君が、今の生活がいつまでも続かないことを予見していたからだよ」
「……」
「理由は二つ。一つは義父さんの病気だ。君はかなり早い段階から、義父さんの余命が残り僅かなことを読み取っていた。そしてその事実を義母さんが受け止められない可能性も。実際、義母さんは酒に頼ることが増え、精神的に衰弱もした。君は危惧しただろう。俺も同じように家族を失う痛みに耐えられないのではないかと。また、十七夜月家に来る以前の俺に戻ってしまうのではないかと。それは何としても回避したかった。なぜなら君は、たとえ義父さんと義母さんがあのまま生きていたとしても、俺の前からいなくなるつもりだったから。これが二つ目の理由――」
「……、うん」
優しい声だった。瞳に映るさくらの表情は嬉しく微笑んでいるようにも見えるし、反対に悲しく憂いているようにも見える。
聴いているのは子守唄か、それとも鎮魂歌か。
はっきりしているのは、俺がここまで語った推論に間違いはないということだ。
だから彼女はこれほどまで穏やかに、自己が紐解かれることを、解体されることを受け入れている。
手を伸ばす。
「冬馬白雪には生きる理由が必要だった。家族を失っても生きることのできる強さが。だから君は用意した。癒えない悲しみを、消えない炎へと変える事件を」
さらに手を伸ばす。
「そして願った。その業火がやがて宿敵を焼き尽くすことを。つまり君がホワイトキラーとなったのは俺を生かすためであり、そして――」
より深く奥へと、手を伸ばす。
進み続けた先にあるのは、十七夜月さくらの秘めたる想い。
八月三十一日。さくらが俺に告げた、ホワイトキラーを――自分に裁きを下せと紡いだ言葉は、決して冗談ではない。何も誤魔化していない彼女の心の底からの本音。
十七夜月――十五夜から二日後の夜の月へ祈りを捧げると願いが叶うということから、そういう読み方をするのだと教えられた。これを持っていればどんな願いも叶ってくれそうじゃないかと、未来を与えられた。
俺はもうその名を持っていない。なら彼女は。
十七夜月さくらが己の苗字に込めた願いとは。
冬馬白雪はその答えを言葉にする。
勇気を、後悔を、快楽を、絶望を、嫉妬を、憎悪を、希望を、幸福を、悲哀を、恐怖を、責任を、慈愛を、欲望を――十七夜月さくらという人間がくれたすべての感情を込めて、雛が卵の殻を突き破るように内から外へと突きつけるのだ。
この物語の始まった理由、それは。
「――この世に生まれた罪を、裁くためだ」
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「何の……真似ですか?」
建物を包む暖色の灯り。その外側で私は連続殺人鬼ホワイトキラーの協力者であり、その他多くの事件に関与した疑いのある警察官、桐野江涼子へ向けて問う。
声色には明確に敵意を込めたつもりだ。なぜなら彼女は、忠告を破った。
大人しくしろと。逮捕する側が望まない行動――逃亡や心中、そのような下手なことをしないのならば手荒なことはしないと、確かに言ったのに。
冬馬白雪を見送った数十秒後、左手首にのみ手錠をかけた彼女はどうしてか、空いたもう片方の輪を同じ左手首にかけた。
「……おいで、最後だから」
まったく。あの手錠は観念した彼女なりの自首の形だと思っていたが、どうも一筋縄ではいかないらしい。
私が拳を握ると、桐野江涼子はその口角を少しだけ上げた。眼は決して笑ってはいないが、穏やかに微笑んでいるようにも見える表情。
随分と悲壮感を漂わせた――自分に酔っている人の顔だ。
「あなたが私を止めないなら、逃げてしまうかも」
ああ、そうか。そういうことか。
どうやら彼女は上司として、部下の実力を見たいらしい。
わざわざ理由を与えてまですることだろうか。本当に、私はあなたのことが理解できない。
「桐野江涼子、あなたを拘束します――ッ!」
静かに拳を握り、ゆっくりと歩き出す。視界はよくない。地面は土。踏み込みは充分できる固さ。身長は向こうのほうが少し上。技量も。だけど――絶対に組み伏せてみせる。
お互いの距離が五メートルを切った刹那、先に仕掛けてきたのは桐野江涼子だ。
彼女は一歩踏み込み、私の胸倉へ手を伸ばす。
私は瞬時にそれを片手で弾きもう片方の手でカウンターを狙ったが、僅かに早く膝関節を蹴られた。支えを失った体は一瞬にして地面に崩れ、片膝を付いたところで顔面を狙った蹴りが来る。
「――ッ⁉」
とっさに両手で防御。しかし殺しきれない威力の分だけ、私の体は後方に吹き飛ばされた。
一秒後。崩された体勢を正す暇もなく、強く踏み込んで加速した彼女の追撃。狙いは倒れた私の腹部。来るのは再び足技。それを何とか受け止め、私は無理やり体勢を起こしながら、同時に片手を彼女の腰に回す。そしてそのまま押し込み、位置を入れ替えるように地面に叩きつける――!
「――――」
瞬間、彼女は投げ技が決まる直前、体をしなやかに使って強引に、けれども鮮やかに私の拘束を振り払った。無駄なく受け身がおこなわれ、すでに体勢は次の行動に移ろいでいる。
だがそれは――私も同じだ。
先ほどの意趣返しにと私は彼女の胸倉に手を伸ばした。彼女はそれを掴み、捻りながら関節を縛る体勢に入ろうとするが、しかしそれはおとりだ。
反対方向から叩き込む私の肘鉄に彼女は意識を割く、防御には成功するものの掴んでいた私の手を離してしまう。
コンマ数秒の隙――私はその場で回し蹴りを繰り出す。狙いは彼女の頭部。当然彼女は身を屈めてそれを避けるが、私の本命は蹴りの勢いを利用した二撃目だ。
姿勢を低くした彼女を、さらに下から追い詰める右アッパー。無論、相手は桐野江涼子だ。私の上司であり、私よりも長く現場に居て、そして訓練でも実践でも格闘戦の経験がある人間だ。
単純な攻撃なら避けられる。実際、今まさに彼女は地面を強く蹴って力技で拳の進行ルートから外れた。ええ、そうだ。私はそれを読んでいた。だから仕込んだ。
「は――」
眼前に迫った拳を視界に入れてそこで初めて、彼女は私の右手に警棒が握られていることに気付く。
時すでに遅し。
リーチも速度も予測できる行動だった。本来なら避けられるはずの攻撃だった。しかしそれは――警察官が携帯する、場合によっては拳銃よりも効果を発揮できる"力"によって必中の一撃と化した。
「ッ……――――‼」
逆手に持った警棒の芯を彼女の腹部に叩き込み、即座に順手に持ち替え、今度は足を狙う。そうして体勢を崩したところで警棒を彼女の右脇の下に差し込み、そのまま回り込んで動けなくしたところで残った片足を挫く。
こうして桐野江涼子は身動きの取れないまま地面に張り付いて――刹那、彼女はうつ伏せのまま右足で私の胴体を、左肘で右腕を狙い、拘束を逃れた。
ああ――と、思わず感心してしまった。
この状況からまだ逆転を狙うことができるのか。
今、彼女は自由になった体を全力で立ち上がらせようとしている。それだけの隙はある。私はすぐには反撃できない。
見える。自分の負ける未来が。何度拘束してもこの人はそれを難なく振りほどき、いつかは私が先に息切れを起こしてしまう。
だからその前に――――あまりにも洗練された鐘の音が、すべてを終わらせた。
警察官が携帯しているのは警棒だけじゃない。
人類が開発した指先一つで人を殺せる道具――あまりにも軽すぎるがゆえに理性が重さを錯覚させるそれは、撃鉄を起こしただけで"威力"を発生させる。
「……強くなったじゃない」
静かな夜でなければ聞こえないほどか細い声。彼女は後頭部に突きつけられた拳銃を直接見てはいないものの、しかし満足したように戦意を喪失した。
その姿を見て、私は怒りを覚える。
「大概にしてくださいよ。何一人で勝手に満足してるんですか。一体どうしてこんな事件を、どうして殺人なんてしてしまったんだ……。ねえ、桐野江先輩――ッ‼」
水面が揺れて鏡のように映し出された月はその存在を明滅させる。
まさしく鏡花水月だ。
私はかつてあなたのことを尊敬していたというのに。この人の部下でよかったと思っていたのに。しかし男社会の中で懸命に犯罪者と戦い、向き合い続ける桐野江涼子の姿は――儚い幻だった。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、先輩は語る。
「あの人は……犯罪を防いで世間に殺されたわ」
現実は花や月のように美しくないとでも言うように。
自分の夫が犯人を射殺して自殺に追い込まれた事実を。
「どうして? 正しいことをしたはずなのに上層部やそれに扇動されたマスコミによって迫害を受けた。組織だけじゃない。当事者でもない市民が、個人が、切り抜かれた情報だけを見て、捻じ曲げられた事実を見て、心無い言葉を浴びせた。それこそ人の命を奪ってしまうほどに。……おかしいじゃない、そんなこと。悪いことをしても罪に問われない人だっているのに」
否定はしない。証拠を隠蔽して警察から逃れる者。他人に罪を肩代わりさせる者。権力を持ち警察に圧力をかける者。法を犯しても法に裁かれない存在は、ゼロではない。
私はあまり考えないようにしているけれど。目の前のことに注力しているつもりだけれど。
それが幼い頃に想像した理想の警察官に背くようなことだという自覚があるにも関わらず、仕方ないと諦めてしまっている部分は、確かにあるのだ。
「あの子もそうだった。どんなに悪いことをしても誰にも叱ってもらえなくて、理不尽に赦され続けた。もし――そんなあの子が逮捕されて法の枠に収まろうとしたとき、世間も少しくらい考えてくれるかしら。善と悪、罪と罰、司法と私刑の在り方……とか」
束の間、脳裏によぎったのは高砂楓による神無月秋夜殺害事件のことだ。
――似ている。彼も今、人を助けるために人を殺し、世間からバッシングを受けている。
本当は警察が守ってあげるべきなのに住所や顔写真はネット上に出回り、彼の未来にはどうしたって消えない烙印がついて回るだろう。
だけど例のネット配信――ボーンと名乗る男と冬馬君の論争があってからは、その勢いは少しばかり落ちたように思う。
いや、勢い自体は変わっていないのかもしれない。ただ高砂楓を擁護、あるいは静観する層が一定数現れただけで、全体的な数そのものは増加しているだけで――それでも私の主観にはこう映るのだ。
あの少年は決して、桐野江浅見の二の舞にはならない。
きっと今回の一件には、桐野江浅見の自殺をリアルタイムで傍観していた人間だっていたはずだ。
中には彼の自殺を悔やんだ人がいるかもしれない。勝手に正義を語る人間がいるのだ。その逆がいたって不思議じゃない。
そういった人たちが少しずつ民意を変え、本当に少し、目に見えないほど些細かもしれないけれど――世間の価値観を変えていく。
まさかそれが、桐野江涼子の目的だとでも……?
そんなの、思わず息が漏れた。鼻を鳴らした。
「あなたは大馬鹿者です。そんな大層なこと、もっと別のやり方があったでしょうに……」
「分かってるわ」
「はあ?」
「馬鹿らしいことだって分かってる。だから本当は、あの日からずっと……浅見さんが死んでからずっと……私は自分に相応しい死に場所を、求めていたのかもしれない」
「確かにそれは、あなたにとっては重要なことかもしれない。でもそのために何人死んだんですか。どれだけの人間を巻き込んで不幸にしたんですか。自分に酔いすぎですよ……そんな理由で人を殺して……!」
「だって仕方ないじゃない――」
まるで子供が言い訳をするように、桐野江涼子は呟いた。
泣いているような表情で。でも決して涙は流れてなくて。
「なんで私だけがこんな目に、って思っちゃったんだから」
そんな彼女の姿はどこまでも――憐れだった。
❀
中身を飲み終えたカップを置いて、俺はなおも語り続けた。
淡々と――"十七夜月さくら"を。
「ずっと誰かに裁いてほしかった。
過ちを犯し続けた自分を。
生きているだけで世界を歪める自分を。
生半可な罪では他人は自分を赦し続けるだろう。
いいや。
赦す赦さない以前に疑うことも、思考することさえしないだろう。
だから必要だった。
世間を騒がすほどの事件と、確実に自分を否定してくれる存在が。
他人を操ってしまう自分の影響を受けない存在が。
それが――俺だった。
君の能力はおそらく声や外見、仕草を通して相手の心に入り込み操るものだが、そこには例外が存在する。
それは君が影響を与える"心"が不完全な人間だ。
不完全の程度は分からないが、少なくとも俺はそれに当てはまった。
だからこそ君の本心に気付くことができた。
涼子さんもそうだったんだろう?
夫の自殺に心を壊してしまったから……。
だから君は涼子さんを協力者に選び、事件を起こす準備を整えた。
彼女を通じて警察内部、特に鑑識の人間を支配下に置き。
宗教団体『イノセント・エゴ』を手駒として乗っ取り。
後のために織姫や花灯に暗示をかけた。
そして来る十二月二十五日――ホワイトクリスマス。
あの日の真相はこうだ。
君は前もって用意した薬で義父さんを安楽死させた。
義母さんは反対しなかった。
義父さんが苦しんで死ぬことを望んではいなかったし、許されるなら一緒に逝きたいとすら思っていたから。
だから義母さんも静かに眠らせた。
その後、君は用意した身代わりを数に加えて、遺体を三人分にした。
数合わせの遺体の入手経路は『イノセント・エゴ』だ。
事件の五か月前、二年前の七月に起きた大地震。
そこで背丈の似た遺体を入手し冷凍保存していた。
警察に内通者がいる以上、DNAの情報はいくらでも改ざんできた。
しかし一方で銀髪碧眼を持つ遺体が見つからなかったため、内通者以外に直接見られては困る頭部のみは、切断して持ち去る計画だった。
君一人だけ頭部が存在しないのは不自然だから、義父さんと義母さんのもだ。
さらにそこから、四肢を切断して飾りを施した。
バラバラ殺人は分かりやすく猟奇的だからね。
世間の注目を引きたかった君は、不都合を最大限利用したんだよ。
遺体の解体は君一人では時間がかかりすぎるけれど、涼子さんと協力すれば不可能じゃない。
そうして十七夜月事件は完成した。
予定通り。
計画通り。
いつか破綻する未来が待ち構えた家族を劇的に破壊し、俺の生きる理由に変えた。
事件後、君は生ける屍となり暗躍した。
神無月に事件を起こさせ、そこに深く関わりのある楓と汐音を利用し、俺に問い続けた。
誰かを守るための人殺しは許されるのか。
善悪の境目はどこにある。
絶対的な正解なんてないかもしれない。
けれどすべては十七夜月さくらを否定させるために。
冬馬白雪の答えを出させるために。
それを見定めるために、君は俺を試した。
誹謗中傷を扇動していた男、ボーンとの問答だよ。
あの最中に出した俺の答えは望み通りのものだった。
だからあの日、夏野を誘拐して教会に呼び出したんだ。
俺が写真を持っていたことも背中を押した要因の一つだね。
そこでようやく、すべてが終わるはずだった。
なのに俺はまともな推理を持たず、君の真意に気付かなかった。
だけど。
それでも。
今度は約束通り、辿り着いたよ。
――――――――――――――――これが真実だ」
語り終わった。俺とさくらの世界を示した終末時計は、また少し針を進めたことだろう。
ぱち、と甲高い音が響いた。
一秒もせずもう一度、続いて緩やかに何度か――さくらが俺に拍手を送っている。
「素晴らしいよ。私は今、心の底から幸せを感じている。本当にありがとう、白雪」
感嘆の声。相変わらず憂いを帯びているが、彼女は柔らかく微笑んでいる。
やめてくれ――そう思った。しかしまだ、その先の感情を吐き出していいときじゃない。
さくらの視えないところで拳を強く握り、心のざわめきは復讐の炎でかき消した。
一度目蓋を閉じて、開く。
眼差しは強く、宝石のような青い瞳へと。
「まだ――終わってない」
推理の披露は終わった。けれど俺にはまだ、やり残したことがある。
ご丁寧にも脳内でリフレインする、二年前のあの言葉。
『もし私が穢されるなら、その相手は君がいい』。
その言葉の意味を、今は正しく理解できる。
そうだ。まだ、彼女から、目も当てられないほどの眩しさを奪う儀式が残されているのだ。
「刑事訴訟法二一三条。犯人が現行犯であるなどの条件を満たしている場合、逮捕状がなくても、警察官でなくても犯人逮捕が可能となる。一般人による逮捕は、『私人逮捕』とも呼ばれているね。これこそが、君の最後の我が儘であり、俺がホワイトキラーに贈る復讐……」
宮下近衛から預かったそれを取り出し、覚悟を胸に立ち上がった。
「さくら――俺が君に、手錠をかける」