36話『人生のスタートライン』
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「誕生日おめでとう、さくら。これ、私からのプレゼントよ」
クリスマスらしくツリーを飾り、キャンドルなどで派手に装飾されたリビング。
ワイシャツにジーンズとシンプルな恰好をした涼子さんが、テーブル越しに茶色の紙袋を差し出した。
「……ありがとう。今日は会えて嬉しいよ」
「私もよ。ああ白雪くんにも、これ。メリークリスマス」
「ありがとうございます」
十七夜月家に引き取られてから迎える三回目のクリスマス。
穏やかに過ぎ去った一年を振り返りつつ、新たに始まる一年への想像を膨らませるこの日。俺は長らく顔を合わせることのなかった涼子さん――桐野江涼子と再会を果たした。
俺がこの家に引き取られるきっかけを作ってくれた彼女は、しかし夫の死を理由に仕事を休み、誰とも会わず、家に籠りきりになるような生活を送っていた。
彼女の負った傷は大きく、未だに癒えていないだろう。けれど時間と共に、その痛みに慣れることはできる。
慣れて、平気なフリをして、そうしてようやく今年――妹家族のクリスマスパーティーに出席することこととなったのだ。
「さて、そろそろ食べようか。豪勢に用意したからね。冷めてしまったら勿体ないよ」
「そうね」
義父さんの言葉に義母さんが頷き、いただきますと声を揃えて五人での食事が始まった。
一年に一度の特別な日。だからといって何か重要な会話があるわけでもない。
大人は大人で近況報告をしたり、仕事の話をしたり、昔ばなしをしたり。子供は子供で最近読んだ本のこと、学校のこと、町に新しくできる店のことなどを話した。
そうして食事は進み、デザートのケーキも食べ終えた頃。
空いた食器を片付ける義母さんを見て、涼子さんが言った。
「私も手伝うわよ」
「これくらい平気。それよりも姉さんは、ほら、白雪に話があるんでしょう?」
「俺に……?」
「ん、まあ、そう……ね。白雪くん、ちょっとだけ付き合ってくれる?」
「はい」
短く答えて、俺と涼子さんはリビングの中でも義母さんたちから少し離れた場所へ移動した。
先に俺がソファーに座り、涼子さんがその隣に腰かける。向かいにもソファーはあるのだが、わざわざ隣を選んだということは構えるような話じゃないという意思表示だろう。
「別に大した話じゃないのよ。ただこの家に来てどうだったのかしらねってずっと気になっていて。……でも久しぶりにこの家に来て、そして君の姿を見た途端に思ったわ。結局初蘭や牧葉さんに押し付ける形になってしまったけれど――あの日、君を見捨てなくて本当によかったって」
「……」
ふと涼子さんの顔を見上げた。
彼女の瞳は隣にいる俺ではなく、向こう側にいる十七夜月の家族を映している。
捉えようのない空虚さを宿して、まるで眩しいものを見つめる日陰者のようなその眼差し。
このときの彼女はやはり――羨んでいたのだろう。
自分は失ってしまった家族。妹にはある暖かな家庭。そして新たな家族を得た俺。
持つ者に触れるたび、持たざる者はその大きさを実感する。
この光景を覚えていたからこそ、教会でさくらと再会を果たしたあの日、俺は涼子さんの"動機"についての推理を披露した。
結果的に涼子さんが連続殺人鬼ホワイトキラーだという推理は外れたが、しかしその協力者となった動機はあながち間違いでもなかったのだと思う。
「……あの、俺も」
「え?」
「俺もずっと言いたいことがあったんです。桐野江さんが助けてくれなかったら、今みたいな生活はできなかったと思うので……だから、ありがとうございます」
俺が頭を下げると、涼子さんはその上に細い手を置いた。撫でるような優しい手つきだ。
「子供がそんなに畏まらないで。それと、桐野江さんじゃなくて涼子って名前でいい。さくらもそう呼ぶし、私も……君の家族みたいなものだし」
「……はい」
柔らかい声音に身を預けて小さく返事をした。そのときだった。
視界の端に白銀が映り込んだ。
「――涼子」
堂々と叔母を呼び捨てにするさくらに、俺も涼子さんも一瞬で意識を奪われる。
そうして視線を集めたさくらは短く、"私の部屋に来てくれ"――と、それだけ残してリビングをあとにした。
「何かしらね」
「さあ」
「まあいいわ。それじゃあね。何か用があったらいつでも呼んでちょうだい、白雪」
涼子さんはポケットから名刺を一枚取り出し、それを俺の膝に置いてリビングを去った。
一束にまとめた黒髪を揺らしながら歩くその後ろ姿は、どこかさくらに似ていた。
❀
春になり、俺たちは三年生へと進級した。
受験を意識する時期。差し迫る選択のときを、その先にある未来を見据え、生徒も教師も一日一日を積み上げていく――そんな時期だ。
かくいう俺もさくらが推薦で入学する予定の進学校を目指し、日々勉学に励んでいた。
悩むことはない。ほかに選択肢は思いつかない。ごくごく自然に俺はさくらと同じ道を歩もうとしている。
だって、とても今さらなことだが――俺はさくらのことが好きだ。
家族だけれど。何度も過ちを犯したけれど。後ろ指を指されるかもしれないけれど。
隣に並んで横顔を眺めたとき。その小さな背中を追いかけたとき。細い指が触れ合ったとき――想う。さくらのことを、想ってしまうんだ。
しかし同時に、この感情を抱くたび俺は、さくらの後悔が見えたあの夜が、強く静かに囁く。
――俺はこのまま、さくらと同じ道を歩んでいいのだろうか、と。
今こうして彼女と家族らしくいられるのは本当に奇跡のようなことで、だから俺がこのまま彼女に依存していたら、いずれすべてが狂って崩壊し、俺はまた冷たい孤独の底に逆戻りしてしまう……ような気がする。
何よりも、さくらを不幸にしてしまうという予感があるのだ。
いつからか、どこからか。一度だってそんな考えが頭をよぎってしまったならば、あとはもう、どうすることもできやしない。
身動きも取れないままに俺は、この心を重い鎖で縛り上げた――。
❀
あっという間に桜が散った四月の下旬。
自宅より町の図書館で勉強することが多くなってきたある日。さくらより二時間ほど遅れて帰宅すると、リビングに来客用のティーカップが置かれているのを見かけた。
義母さんは仕事。義父さんは再び検査入院。となるとつまり、客人を出迎えたのはさくらということになる。珍しいこともあるものだ。
「ただいま。誰か来てたの?」
なんとなく気になった俺は、キッチンで自分用の紅茶を淹れていたさくらに訊いた。
「おかえり。ああ、以前通っていたピアノ教室の知り合いでね。大企業のお嬢様でとても可愛いらしい女の子だよ」
「へー」
「なんだ。少しくらいは興味を持ってもいいんじゃないか」
「いや俺は――」
俺はさくらのことが好きだから、という文句が脳内に羅列されたので慌てて別の言葉を探す。
「あー……そうだ、ピアノ」
この家には防音室があり、そこには一台のグランドピアノが設置されている。
昔両親がさくらのためにと用意したものらしいのだが、彼女は俺がこの家に引き取られる直前のタイミングでピアノを引退。今では数か月に一度弾くかどうかといった稼働率だ。
「また弾いてくれたりしないかな?」
「どうかな。君がどうしてもと言うのならやぶさかでもないが」
「……え?」
意外な返答だった。てっきり断られるものかと思っていたから、思わず間抜けな声が出てしまう。
するとさくらは小首を傾げて言う。
「なんだ嫌か?」
「い、嫌じゃないよ……!」
「ふふ。ああ、分かったよ」
我が儘な子供に少しばかり呆れるような笑みをこぼしたさくらは、それから少し準備をして、およそ三十分ほどピアノの演奏を聴かせてくれた。
横髪を耳にかけて研ぎ澄まされた意識。重力を感じさせない軽やかな打鍵。奏でられる大胆な音と繊細な音のハーモニー。
音色だけでなくピアノを弾くさくらの美しい所作が、俺の心に優しく沁みて何となく自分が幸福であると感じた。
幸せ――か。
俺がこの家に来たばかりの頃は、普通に生活できるだけでよかったというのに。食事ができて、お風呂に入れて、温かいベッドで眠ることができる。それが何よりの幸福だったのに。
けれど今ではそれが当たり前になって、むしろそんな日々を物足りないとすら思う瞬間だってある。
人間とはかくも恐ろしいものだ。
あれだけ普通を求めていたというのに、今の俺は――特別を求めてしまっている。
特別を――。
ふと疑問に思う。
俺とさくらのあの日々は、一体何がきっかけで始まったのだろうか。
――君を愛しているということだ。
いつかの彼女は俺にそう言った。あのとき、彼女はどんな気持ちを抱いて、どういった感情の経路でその言葉を口にしたのだろうか。
この日に聴いたピアノの音色。
やがて狂うことになるB4は、まだ正しい音を刻んでいた。
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五月上旬。俺にとって一つ、あるいはさくらにとって一つ、大きな変化があった。
というのもこれまで維持されていた付かず離れずの距離感が乱れたというか、俺との間にあったはずの一線を、なんとさくら自身が超えようとするようになったのだ。
例えばさくらから一緒にお風呂に入ろうと提案してきたり、一緒のベッドで寝ようとか、キスをしようとか、学校で手を繋いでるところを見せつけてやろうとか。
まるで俺が封印した恋心を刺激するような、試しているような、そんな具合。
疑問だ。あれだけのことがあったというのに、一体彼女の心境にどんな変化が起こったのか。
彼女は学生生活においても、一時期は抑え気味だったその特異性を――どうしたって切っても切り離せなかった特異性を――受け入れて、ありのままの自分で居続けた。
どれだけ差別を受けようと。少し寂しそうに微笑むだけで、すべてを受け入れていたんだ。
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「白雪。僕は来年の今頃には、もうこの世にいないかもしれない」
その告白は今も俺の記憶に鮮烈に残っている。きっとこれからも残り続けるだろう。
「――――――――え」
六月中旬。修学旅行から帰って来た翌週の休日。受験勉強の息抜きにとリビングで読書をしていると、不意に向かいの席に座った義父さんが――目に見えて以前より痩せ細っていた義父さんが、そう告白した。
死ぬのは怖い。けれど死を受け入れる覚悟はできている。大丈夫、きっと未来は明るい。だから心配しないで。なんて言葉が聞こえてきそうなほど穏やかな表情で、優しい声だった。
義父さんが何かの病気を患っていることは前から知っていた。検査で入院することも多かった。だけどまさか、それほどまでに重い病気だったとは予想もしていなかった。
漠然と、いつか完治するんじゃないかと。
そうじゃなくたって、病院通いが続いてもまだまだ一緒に居られるものだと思い込んでいた。
俺は聞いた。
義母さんは知っているのかと。
答えは聞くまでもない。だって義母さんはいつも義父さんに付き添って病院へ行ってたんだ。知らないはずがない。理解していないはずがない。
ならばさくらは――?
鋭い観察眼を持つ彼女のことだ。きっと直接聞かされるまでもなく気付いていそうだと、思った。
つまり今の今まで何も知らなかったのは……俺だけだ。
言葉を失った。頭が真っ白になった。何かを言わなければという気持ちだけが空回って、途切れ途切れの声が口を突いて――そうして結局俺は、何も言えないまま義父さんに目を向ける。
血の気が引いていく。変に鳥肌が立って、些細な物音にすら不快感を覚える。
夢の、終わり。
突如空中に放り出されたような感覚だった。
――すまない。
義父さんは言う。初蘭やさくら、何より白雪に悲しい想いをさせてしまうことが、本当に心苦しい、と。
――けれどね。
父さんは言う。別れはいつか来るものだ。この世に絶対は無いと考えている人もいるけれど、死は必ず等しく訪れるものだ、と。
――だから。
十七夜月牧葉さんは言う。白雪、悲しみに押し潰されず強く生きてほしい。もし郷愁に駆られたら、僕の作品を読めばいい。それが僕の生きた証であり、同時に生きている証だ。誰かが覚えている限り存在は終わらないから、と。
その日――中断された読書が再開されることはなかった。
翌日。
義父さんの病気のことを知っても、世界は何事もなく回っていた。
そう。俺がどんな感情を抱いたところで、星が憐れんで涙を降らすなんてことはない。
空は晴天で、風はほんの少し冷たく気持ちのいいものだった。通学路を歩けば、友達と話す小学生が居て、会社へ向かうサラリーマンが居て、大通りを走る車にはそれぞれいろんな人が乗っている。
束の間、新しく広告の張り替えられた看板が目に入った。ある作家の出した本がベストセラーとなり映画化するらしい。
売れた本は何冊も重版され、沢山の人がそれを買い、読み終われば手元に置かれるか古本屋に売り払われ、また別の人の手に渡る。
映画も同じだ。上映が終われば買い切りのディスクになり、より沢山の人の目に触れる。
タイトルを認知され、作者の名前を認知され、メディアに取り上げられ、大衆の記憶に残る。
情報は生きた証となり、その人の死後も作品は残り続ける。生命の枷を超えてもなお、生き続けるのだ。
それこそが、義父さんのくれた言葉の意味――。
さあ、次の記憶だ。終わりのときは近い。
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七月――義母さんが仕事を辞めた。義父さんと一緒にいる時間を増やすためだ。
すべての仕事を綺麗に片づけての円満退職。
そうして始まった十七夜月家の新たな生活の形。
それはこれまでの日々を思えば、毎日がとてもゆったりとした老後のような生活だったと思う。
仕事に割り振られていた時間は新たな思い出作りと過去の振り返りに当てられ、そのほかもすべてが愛する人のために費やされた。
俺とさくらも同じように日々を過ごしながら、緩慢に、けれども着実に――十七夜月牧葉という存在の終わりを受け入れる心持ちに移り変わっていく。
「ねえ、牧葉さん」
「なんだい?」
「私、牧葉さんと結婚できて幸せよ」
義母さんは仕事を辞めてから少しお酒の量が増え、酔うと決まってそんな言葉を口にした。
「……僕もだよ」
義父さんも決まって、表情穏やかにそう返す。
どんな感情を抱いたとしても、置き去りにする家族を不安にさせないように、できるかぎり悲しませないように、そう振舞っていたのだと――今なら分かる。
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思い出を遺した――。
写真を。映像を。文章を。設計図を。品物を。会話を。
記憶に刻んで、そうして別れを必死に受け入れようとした。
夏休みには旅行をした。七夕には短冊を飾った。夏の終わりには花火を見た。秋に入るとお月見をした。ハロウィンには仮装をした。山が朱色に染まれば紅葉狩りをした。何でもない日でも理由をつけてお祝いをした。
そのうち少しずつ、義父さんが体調を崩すことが増えた。
じきに一度、容体が悪化し緊急処置をおこなった。
あれは忘れもしない。
集中治療室のベッドの上、麻酔で意識が朦朧としている最中に義父さんがか細く呟いた『帰りたい』という一言。
義母さんの名前を呼び、『ごめん』と言った二言目。
『死にたくない』と情けなく涙を流した三言目。
あれだけ自らの死を覚悟して穏やかに振舞っていた義父さんの、あまりにも脆い本心が垣間見えたその瞬間――義母さんの心は砕かれた。
過去と未来に想いを馳せ、鮮烈なる現在に涙を堪えきれないその姿を、俺は何もできずに横で見ていた。
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自宅での治療を希望し、義父さんが退院した。
それに寄りそう義母さんは精神的に酷く衰弱していた。
お酒の量が増え、毎日のように泣いて目を腫らし、食事の回数が減った。
心も体もやつれた。
それでも――それでも義母さんは共に居ることを選び、別れを受け入れることを選び、終着点を見届けることを選んだ。
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俺も同じだ。
毎日が雨に濡れたような気分で、ときには他人の幸福を喜べない瞬間もあったけれど、締め付けられる胸を抱えながら"大切な家族"の時間を選んだ。
そうして冬が本格化してきた十二月二十五日――雪が降りしきるホワイトクリスマス。
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十七夜月白雪が終わり、冬馬白雪が始まった。
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「――――は、ぁ……」
身震いと共にため息を吐き出す。
窓の外に目を向ければ、群青の果てに朝陽が瞬いていた。
あれから何時間経ったのだろうか。
正面のテーブルには折り畳みの鏡が広げられている。
今から数時間前、俺はこの鏡を使って自分自身に催眠術をかけた。
記憶の宮殿――場所法と呼ばれる記憶術を以てしても、一度忘却の海に沈んでしまった錨を引き上げるのは至難の技だ。
けれどまだ脳に刻まれているのなら、深層に手を伸ばして掴むことは不可能じゃない。
例えそれが不完全な破片、断片だったとしても、ある程度ピースが揃えば前後の記憶から推測で補うことは可能だ。
そうして俺は今――真実へと繋がる推理を手に入れた。
「――――」
スマホを見たところ、協力を頼んだ宮下近衛からの返事はまだ無い。彼女の立場や性格を鑑みて、"そのとき"までまだ少し猶予があるだろう。
その間に何をするべきだろうか。済ませておかなければならないことは、あっただろうか。
楓に勝てよと言われた。織姫に別れを告げた。花灯に掛けられた暗示はじきに解かれる。
あとは――。
――『半年前、お前の母親、つまりは俺の嫁が鬱になって医療刑務所に移された』。
正直なところ、その言葉は忘れるつもりだった。
だけど、今ならば。
「会いに行ってみるか――母親に」
凝り固まった体を伸ばしながら立ち上がる。
気分はあまりよくない。当然か。思い出したくなくて忘れていたことだって、あっただろうから。
それでも、少し体を動かすとお腹が鳴った。
苦笑が漏れる。ああ、そうさ。どんなときだって空腹は訪れる。
だって俺は今、生きているのだから。
だから――――。




