35話『To be or not to be…continued→my shroud』
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――伏宮風花の死がもたらした変化は、一体どれほどのものだろうか?
俺とさくらの極めて背徳的な行為はそれからもおこなわれた。
身も心も未熟なうちから、生物にとって原点の使命を知ってしまったのだ。自制心などといったものはあっけなく破壊され、欠落し、日々は愛欲に塗れる。
一人でも大丈夫だから――と、かつて証明するつもりだったさくらへの想いはどこへやら。
芽生えたばかりの自立心は『十七夜月さくら』という海の底に沈み、俺は輪をかけて彼女に依存した。
加えて彼女もまた、俺を求め続けた。
銜えて、離さなかったのだ。
そのうちに伏宮の葬式がおこなわれた。娘の自殺を未だに受け入れきれていない伏宮の両親は弔いを内々で済ませ、警察を頼り真相の究明に努めた。
考えられるのはいじめ。けれど遺体には、死因となった手首の傷を除いて外傷は存在しない。そこで考えられるのは、何か衝動的に自死を実行するような精神的苦痛を受けた可能性。
学校側も調査に協力し、教師も生徒も関係なく、アンケートや個別の面談などがおこなわれた。が、しかしその調査対象に俺とさくらは含まれなかった。
というのもさくらはあの雷雨の日、伏宮風花が手首を切る現場に居合わせ、必死に応急処置をおこなっていたらしい。
俺は伏宮の両親がさくらに対して感謝を述べていたのを横で聞いただけで、詳しい状況は知らない。知りたいとも思わない。
結局のところ、さくらが手を施しても彼女は助からなかったのだから。
その事実だけで充分だ。
とにかくそれこそが、あの日さくらがセーラー服を血塗れにして帰って来た理由であり、さくらとおまけに俺が調査対象から外れる理由であり――伏宮の死の真相が闇に葬られる理由であった。
そして。それからひと月もすると、この一件は収穫無しで一旦の終息を迎えた。
誰が伏宮を自殺に追い込んだのか。生徒にも教師にも、子供にも大人にも平等に植え付けた疑心暗鬼を残しながら、伏宮風花の存在しない、伏宮風花が存在した頃の日常が戻る。
表立って弔うべきか。それとも普段通りの変わらぬ日常を送るべきか。
間近に迫った一学期の終わり、蒼く輝かしい夏休みを前にそれぞれの正解がときたま小競り合いを起こす同級生たち。
それらを尻目に俺とさくらは二人だけの世界で、多分、きっと、青春を謳歌していた。
熟れて、爛れた、どうしようもない青春を――。
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季節は夏を超えて秋、そして冬へと移ろいだ。さくらの誕生日を一か月後に控えた十一月の後半。
人間は環境に適応し、成長することのできる生物だ。
俺とさくらの緩慢に海底へ沈んでいくような日々は、自然と水面に浮かぶようになった。
つまりは慣れてしまったのだ。
玩具と同じ。買ったばかりの頃は夢中になって遊ぶけれど、次第に慣れて、飽きて、日常の一つに溶け込み、やがては玩具箱の中に入れられる。
俺が求めればさくらは応えてくれるが、さくらが俺を求めることはなくなり――何か大きなきっかけがあったわけではないけれど、俺と彼女の関係は以前のように戻った。
いいや、むしろさくらは以前よりも俺と距離を置くようになったと思う。
学校に一人で行くようになった。家に一人で帰るようになった。食事は一緒だが、風呂も就寝も一人になった。
それが世間一般の普通で、当たり前といえばそうなのかもしれないが、しかしさくらの様子は当時の俺から見てもどこか妙だった。
学生生活においても、きちんと授業に出席するようになり、時々言葉巧みに操りパシリのように使っていたが同性の友人を作り、テストの点数をわざとゾロ目にするなどといった遊戯をしなくなり、制服も元のセーラー服を着るようになったという変化も。
その変化はとても緩やかで、客観的に見ていても一つ一つは些細なものだったが、しかし今の俺から見ればそれは、彼女が"普通"になろうと努力した結果なのではないかと思う。
そこで疑問が一つ。どうして彼女は、自らの持つ"特別"をわざわざ否定するような行動を取っていたのだろうか。
その答えには間違いなく、伏宮風花の死が関係している。
その証拠に、さくらの誕生日を一か月後に控え、来月はどうお祝いしようなんて話が出始めた十一月の後半。
――伏宮風花の誕生日でもあったこの日の夜に、俺は目撃したのだ。
「綺麗な月だ。……言うだけ無意味なことだとは理解している。だが、しかし……私があの時、あのようなことを言わなければ、彼女は今頃、幸せな気持ちでこの月を見ていたのだろうか」
部屋の明かりはなく、窓から差し込む月光のみが彼女を照らしていた。
グラスを片手に、儚げにワインを嗜むさくら。
俺にはその姿が、さながら禁断の果実を口にしたイヴのように見えた。
同時に十七夜月さくらが、伏宮風花の死を悼んでいるようにも。
禁断の果実――それは即ち善悪の知識を内包した知恵の実であり、それを食べたアダムとイヴは裸の姿を恥じるようになったとされる。
ならばさくらは?
果実を口にし、善悪の知識を得て、彼女はその果てに何を手に入れたのだろうか。
俺は思う。
きっとさくらは後悔していた。
伏宮風花を己の言葉で殺してしまったことに、酷く、罪悪感を覚えていたのだ。
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十二月二十五日――十七夜月さくらの誕生日。
彼女のことを復習するうえで、かつ俺のことを語るうえでやはりこの日は、切っても切り離せない。
俺が十七夜月家に引き取られ、家族となって一年が経った。
俺はこの一年で空っぽの心を家族の温もりで埋め、かつて失った人間らしさを取り戻した。それが勢い余って道を外れることもあったが、総合的に見ても人生で最も幸せな一年だったことに変わりはないだろう。
そしてまた――この日から新たな一年が始まる。
西暦での新年はもう少しだけ先だが、俺は俺なりにクリスマスかつさくらの誕生日であるこの日を祝いたいと思った。
そこで思いついたのがプレゼント。この家に来てからそれとなく与えられてきた小遣いを使い用意したそれは、貰ってばかりの俺からのささやかな恩返しというわけだ。
義父さんには作業時に体を冷やさないようにと電気ブランケットを、義母さんには趣味でよく聴くというクラシックのCDを、そしてさくらには海外から取り寄せた茶葉を、それぞれ贈った。
「ありがとう、白雪。とても嬉しいわ。涙が出ちゃいそう」
「そんな……大げさだよ」
「そんなことはないさ。僕らの用意したものが見劣りしてしまわないか心配だね」
そういって義父さんは綺麗にラッピングされたプレゼントを取り出し、俺とさくらに差し出した。
「あ……ありがとう……」
少しばかりのぎこちなさを伴いながらも、俺は今の両親に感謝を告げる。
中身は何だろう。大きさからして本だろうか。だとしたらとても嬉しい。自室の本棚はまだ中身が少ないんだ。
いつかさくらや義父さんのものみたいに、沢山の本を並ばせてやりたいというのが俺の密かな野望だった。
「さくら――」
俺が喜びに想像を膨らませていると、ふと義母さんがさくらの名を呼んだ。
見れば彼女は、口の端が緩んでいる俺とは対照的にどこかアンニュイな表情を浮かべている。
「もしかしてどこか体調でも悪いのかしら?」
「え、……ああ。……そうだな。そうかも、しれない」
言いながらさくらは短くため息を吐いた。
「悪いけれど今日はもう休むよ。気にせず楽しんでくれ。プレゼント……ありがとう」
両親と俺からのプレゼントを手に、さくらは一人でリビングを出た。
その後ろ姿はいつもの彼女らしくなかったが、しかしここ最近の彼女ではあった。
その後、俺と義父さんと義母さんでおこなわれたパーティーはそれなりに盛り上がったが、主役不在ということでほどほどのところで切り上げられた。
先に歯磨きをして、風呂に入り、自分の部屋に戻る。
勉強机の上でプレゼントを開けてみると、中には予想通り数冊の本が入っていた。
前から欲しいと思っていたものもあれば、新たに興味を引くものもあり、嬉しくなった俺は再び笑みを漏らす。
そしてもう一つ。一番手前に置かれた本にはとある鍵が添えられていた。それは義父さんが仕事の締め切り前に時折使うという別荘の鍵だ。
好きに使っていい――と、おそらくはそういうことだろう。
「……ふふ」
今度は声まで漏れてしまった。抑えきれないのだから仕方ない。
不慣れな笑い声が不快なものでないといいのだが、とおかしな心配をした直後――隣の部屋から何かを落としたような音が聞こえた。
「……さくら……?」
さくらの部屋は物が少ないので、床を叩いた物の想像は容易い。本だ。しかもそれは一度だけじゃない。今も一度。そしてまたもう一度。音が続いている。
偶然手を滑らせて本を落としたかと思ったが、ここまでくると意図的にやっているとしか考えられない。
――何かが変だ。
胸騒ぎがした俺はすぐに廊下へ出て、さくらの部屋の扉を軽くノックする。
「さくら? どうかした?」
次の瞬間、より一層大きな物音が聞こえた。
脳裏には雷雨の日のさくらの姿がよぎる。憔悴しきった冷たい彼女。生と死の境にいるような彼女。
俺はごくりと唾を飲み込み、ドアノブを握って慎重に扉を開いた。
「……入るよ」
部屋の明かりはついていない。室内を照らすのはいつかの夜と同じ、窓から差し込む青白い月光のみ。
淡い景色の中心に、さくらが立ち尽くしていた。
その足元には、本棚から引きずり出された本が何冊も乱暴に散らばっている。
「どう、したの?」
小さな声で問いかけた。
するとさくらは病人のようにやつれた表情で俺を見て、か細い声を発する。
「何でもない。一人にしてくれ」
突き放すような言葉。俺はとっさに返す言葉を探し、ふと勉強机の上に開封された二つのプレゼントと、その隣に並べられたボトルとワイングラスを見つけた。
「また、飲んでるの?」
「君には関係ない」
「体に悪いし、よくないよ。だから俺、珍しい紅茶の茶葉を……」
「いいから出ていけよ、白雪」
さくらが口にした俺の名前には、苛立ちが感じられた。
初めてのことだった。その声音も、態度も。彼女が露わにした負の感情――その矛先が向いたことで少なからずのショックを受けた俺は、とにかく慌てて言葉を探す。
「あ……ご、ごめん。俺、プレゼントとか初めてで……気に入らなかったなら、また別のものでも……」
「――やめろ」
軽いパニック状態で綴られた言葉をさくらは一言で制した。
静かながらも強く、厳かに――けれど次には、誰に向けたものか分からない消え入りそうな声が続く。
「どうして……そんな考え方をするんだ……」
「え……?」
さくらは散らばった本を気にする素振りもなく移動し、ベッドの上に片膝を立てて座った。
「なあ……私は、君の父親と一体何が違う? 優しくし、傷を癒し、依存させて、私という存在を絶対的な価値基準とさせる――こんなの、ただの洗脳じゃないか」
「えっ……は?」
さくらが俺を虐待したあの人と同じ――?
意味が分からなかった。理解ができなかった。だが彼女は冗談を言っているような様子じゃない。だからこそ余計に混乱してしまう。
結果俺は今のさくらにどんな言葉をかければいいか見失い、ただ思ったことをとにかく口にする。
「さ、さくらは、俺を殴ったりしない。蹴ったりも、変な命令も……だからそんなこと……!」
「……ああ、手段の違いはあるさ。だが本質は変わらないよ。私は悦楽で、君の父親は痛苦で……どちらも君という真水を侵す毒でしかないんだ……。ふふ、認めるしかあるまい……私はきっと、間違えてしまったんだ……」
その言葉を聞いたとき、ぐちゃぐちゃになった思考のすべてがクリアになった。
「やめてよ。そんな言い方」
まるで、この家で過ごした一年が失敗だったと言っているようなその言葉。
俺は想起する。母親から告げられた"本当は君のことなんて生みたくなかった"という本音を。実の子供を君だなんて、まるで他人のように語り掛けるあの人の無痛の叫びを。
今確かに存在している自分が否定され、意義を見失い、世界そのものから見放されたような感覚。心が、締め付けられるように痛く苦しかった。
だから必死に訴える。
「俺がさくらと過ごした時間は何も間違ってなんかない! 絶対に、失敗でも、無駄でも――」
「ッ……君に何が分かる⁉」
俺の声を遮って、さくらが壁に拳を叩きつけた。
「私たちが……私が行ったのは人道に反する卑劣で残虐な行為だ! なのに私はのうのうと生きて、誕生日を祝福され、あんなにも素晴らしいプレゼントを受け取っている! こんな……こんな、話があってたまるか……」
「それは……だって、さくらが特別だから――」
「――黙れェ! 私をそんな風に扱うなァ……‼」
「さ、さくらが自分を神様みたいに思っていいって言ったんじゃないか! 何がダメなのさ! 俺は今のままのさくらでいい! そのままのさくらでいいのに! 最近のさくらはどこか変だよ!」
否定と拒絶を激情に変えて、俺は言った。
懺悔と自罰を激情に変えて、さくらは立ち上がる。
「黙れと言ってるだろうが……ッ‼」
向かい立つ蒼銀。振り上げられる細い腕。不意を突いて、反撃どころか防御する隙もなく――頬を殴られる。
「ぅ…………ッッ⁉」
彼女の小さな体のどこにこんな力があるのだろうか。俺は二、三歩退き、床に広がった本の一冊を踏みつけてバランスを崩す。
背中から勢いよく倒れた俺は、仄暗い闇の中で冷淡な眼光を尖らせるさくらを見上げた。
「……、ぇ……?」
痛い。殴られた頬よりも、床にぶつけた背中よりも――家族に殴られたという事実が、何よりも強く全身に突き刺さる。まるで降り注ぐ無数の槍に貫かれたように、じわじわと全身の血の気が引いていく。
その痛みには、覚えがあった。
「……あ、……ああ、……ああぁぁぁぁぁ――――‼」
口から零れ落ちる、制御できない叫び。
それを聞いたさくらは一瞬俺を心配するような表情を見せたが、すぐに元の表情を取り戻した。
声はまだ、震えていたけれど。
「……、ふ、ふん。そうか、虐待されていたときのトラウマが蘇ったか。ほらどうだ、同じだろう? 私は君の父親と何も変わらない! 私は神様でも何でもないんだよ!」
さくらが俺の胸倉を掴み、もう片方の手を振り上げる。
歯を食いしばり、爪が食い込むほど強く拳を握り、苦悶に満ちたその表情は、まるで辛いのは自分のほうだと言わんばかりだ。
実際に彼女は苦しんでいる。衝動に任せて俺を殴り、意図せずして過去のトラウマを蘇らせてしまったのだ。そんなこと、望んでいなかったにも関わらず。
だけど、それでも――さくらは暴走する感情を止められない。止める方法を知らないのか、あるいはプライドがそれを許さないのか。
「そうさ……、わ、私はただの、……ッ、外道、で……うぅッ……!」
気持ちを一度落ち着けて、ごめんなさいと頭を下げる余裕などありはしない。
さくらはその拳を、繋がれた重い鎖を引き千切るように振り下ろそうとして――。
「やめて、やめてよ、さくら……‼」
そこで、俺が反撃に出た。自らの意志で立ち上がりさくらの両肩を掴む。
もう身長や体格は俺のほうが上回っているのだ。不意を突かれなければ力で負けることはない。
「っ……く……!」
俺が一歩踏み出せばさくらが一歩下がり、それを繰り返してベッドに押し倒す。
肩を掴んだまま、さくらを覆うような体勢だ。
「はぁ……はぁ……はぁ…………ッ」
自分の呼吸の音が聞こえる。一定なのかそうでないのかも分からない間隔で浅い呼吸が繰り返され、酸素を得た脳が取るべき行動を導き出した。
想像なんてできない。とっさの判断に繋がるのはどうしたって思考ではなく経験。
体が、あるいは体で――覚えていること。
さくらを組み伏せ、さくらを慰め、さくらに求められる行為。
俺の体にはそれが刻み込まれていた。それしか知らなかった。
だから、ゆえに、つまり、結局のところ――その瑞々しい薄い桃色の唇に、ゆっくりと顔を近づける。
「……っ」
これから起こることのすべてを悟ったさくらは、初めて俺に怯えるような表情を見せた。
「ああ、君は莫迦だ……正しい教養を持たない愚か者だよ……」
「――――」
「だがそれは私もだ。本当、あまりにも莫迦らしい……。なあ、神はどうしてこんな不完全な存在を生み出したのだろうなあ。だが……けれど……そうだ、君にとっての神は私だったな……」
何かを悟ったように呟かれる声を、かき消すように俺は訴える。
「さくらが何を言っているのか、俺には分からない……!」
けれど。
淡い月明かりだけが世界を静かに照らす今日、激情に身を任せる俺に。
雷が花火のように閃光を散らしていたあの日、激情に身を任せた彼女は。
人差し指を添えてそっと、蓋をした。
俺とさくらの唇が重なることはなかった。甘く蕩ける熱の交換は行われなかったのだ。
「……離してくれ、白雪。それ以上は『私』になってしまうよ。君が将来、家族に暴力を振るい、他人を蹂躙するような人間になるのはいやだ」
唇の代わりにと潤んだ瞳で熱い眼差しを向けてから、さくらはゆっくりと目を瞑った。
その姿を見た俺は僅かに理性を取り戻し、少しずつ両手に込めた力を抜いて、そのまま小さくごめんと言い残して部屋を出た。
去り際、ベッドの上で人形のように固まったさくらは力無く囁いた。
「メリークリスマス――――最高のプレゼントをありがとう」
十二月二十五日。十七夜月家での生活の二年目が始まった日。
これは俺とさくらが初めて喧嘩をした日の、記憶だ。
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その翌日、さくらは何事もなかったように朝の挨拶をしてくれた。
それに倣い俺も普段通りの挨拶を返した。
再開された俺たちの時間はつつがなく送られる。
共に学び、共に遊び、共に生きる――これまでと同じような日々。
だけど俺の中には、きっとさくらの中にも、これまでとは決定的に何かが異なる感覚があったはずだ。
二人の間に引かれた白線は色濃く、高く聳え立つ壁のようだった。
じきに俺たちは二年生へと進級した。
十七夜月家で過ごした三年間の中で最も平和だったその一年は、あっという間に過ぎてゆく。