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33話『飢えて厭いた心は満開の桜に導かれて』

 玄関での挨拶後、俺は桜の花びらをかたどったドアプレートが掛かっている部屋――十七夜月(かのう)さくらの私室に案内された。


 内装は木組みの勉強机と椅子がワンセット、その隣には小窓を挟んでベッドが置かれ、向かいには洋書を含めた無数の本が並ぶ棚、反対の隅にはクローゼットと姿見がある。


 家具は以上で、床暖房が効いているのかカーペットもない。

 一応、姿見の横にはペンギンのぬいぐるみが入れられたバスケットがあったが、十二歳の少女らしさが残っていたのはそれのみで、あとはまるで画家のアトリエのように素朴な部屋だった。


 そしてこの内装は、三年後のクリスマスまでまったく変化がなかったと記憶している。


「両親は今出かけていてね。悪いが夕方まで私と二人きりだ。さ、好きな場所に座ってくれ」


 座れと言われたからには、座らなければ怒られるだろう。

 父の『教育』によって『命令を果たせぬ者に生きる価値無し』の精神が身に付いていた俺は、とにかく言われたことに従う。


「……」


 部屋を見回す。

 椅子の上は殴られるか蹴り落とされることのほうが多く、ベッドも使うことを使うことを禁じられていたので、行く先は自然とアパートで暮らしていたときと同じように部屋の隅になった。


「確かに好きな場所とは言ったが……そこか。確かに今のは私の言い方が悪かった。君、ちょっとこっちへ来い。ここに座ってくれ」


 手招きされてそのままベッドに座る。

 さくらからは困惑が感じられた。きっと俺はまた愚かにも何かを間違えてしまったのだろうと思い、何も言わずに頬を差し出す。


「それは、何をしているんだ?」


 目を瞑って歯を食いしばり、いかにも今から殴られますと言わんばかりの俺を見て、さくらはそう言った。


「……?」


「いや、首を傾げられてもな。なるほど。どうやら私は少し楽観が過ぎたみたいだ。――よし、方針を決めた」


 隣に座ったさくらはその白く小さな手を俺の頬に当て、じっと真剣な眼差しを向けた。

 長い前髪の向こう側に見える水晶のような青い瞳と、それを彩る白銀のまつげ。

 絵本の中から飛び出した妖精か、はたまた神が遣わした天使か。


 しかし彼女はそのどちらもない存在を名乗り、宣言する。


「白雪、私はな――天才なんだ。あらゆる分野にて成功を収め、万が一にも何かを間違えるといったことはない、神様のように思ってくれて構わん。神は家族である君を絶対に見捨てない。君を傷つけるものから全力で守り、君が受けた傷はどんなことをしても必ず癒すと約束しよう。私が君を導く。その代わりに君は私の言うことを聞け。分かったな?」


「…………」


 小さく頷いた。


「まずはそうだな。君が返事するときだが――良いなら『うん』、嫌なら『嫌だ』、どちらか分からないときは『分からない』と声に出すんだ。もしそれ以外の言葉が頭に浮かんだ場合は、それを正直に言いたまえ。いいな?」


「……うん」


「よし。一段落したところで、飲み物でも用意しようか。君はお茶は飲めるか?」


「……うん」


「そうか。苦みを抑えたハーブティーを淹れよう。心が落ち着くよ。しばし待っていてくれ」


 部屋を出たさくらは数分もしないうちに、マグカップを二つ乗せたトレーを手に戻ってきた。

 再びさくらが隣に座り、俺はさりげなく促されてカップを手に取る。

 そして一口。


「どうだ。美味しいか?」


「……分からない」


「ふむ。まずは君にこれを美味しいと言わせることが、当面の目標だな」


 それからしばらくすると、さくらはいつの間にか持ってきていた新聞紙を姿見の前に敷き始めた。


「白雪。その椅子を持ってここに来てくれ」


「……うん」


 言われるままに椅子を新聞紙の上に乗せる。


「座りたまえ。これから君の髪を切る。伸びっぱなしの髪は外見の印象を悪くしてしまうから、これから新生活を始めるにあたって早急に改善が必要だ。何か希望の髪型はあるかな?」


「……分からない」


「ならまあ、無難にしておこう」


 いつだったか、さくらがこう言っていた。『私は他人に頭を触られることが嫌いだから、ある程度は自分で整えている』――と。


 道具を揃え、持ち前の才能で技術を会得し、それを実践する。


 そうして培われたさくらの散髪の腕は、俺が数年後にお世話になる病院の理容所のマスターよりずっと見事なものだった。


「ここに来る途中、飾り付けがされたリビングを見ただろう。今日はクリスマスだが、同時に君がこの家に来た記念日であり、そして私の誕生日でもある。残念ながらプレゼントは一纏めにされてしまうだろうが、来年以降もこの日が君にとって特別であると良いな」


 手際よく髪を切りながら時折、姿見越しに話しかけてくるさくら。


「……うん」


「そのような大切な日に私の両親はどこに行ったのか、と気になっているかもしれないが、父は病気でね。定期的に検診を受けなければならなくて、母もそれに付き添っている。どうか出迎えが寂しかったことは許してくれ」


「……うん」


「君の髪は太くて真っすぐだな。私の髪は細く柔らかいせいで、すぐに枝毛ができてしまうから羨ましいよ」


「……」


 髪を褒められたのは初めてのことだった。いや、人に褒められること自体初めてだったかもしれない。

 どう反応していいか分からず、無言で視線を泳がせる。


 ふと目に入ったのはさくらの白銀の髪。体を動かすたびに微かに揺れるその長髪は、いつの日か、俺を冷たくも静かに包み込んでくれた雪のようで――壊れたはずの心が奪われた。


 いいや、あのとき奪われた心を思い出したというべきだろうか。


「人間は誰かと話さないと前頭葉が委縮して思考力が低下し、やる気が出なくなったり余計に話せなくなったりするそうだ。会話はとても重要ということだな。さて白雪、今はどんな言葉が頭に浮かんでいる? 正直に話してみたまえ」


「……あ。……え、……か……髪、雪みたいで、綺麗だと、思う……」


「ありがとう、とても嬉しいよ。ちなみにだが、私のことは好きに呼んでくれて構わない。十七夜月という苗字は被ってしまうから、名前である"さくら"が入っていると分かりやすいな」


「……さくら、お姉ちゃん?」


「――ほう? 私と君は同い年なのだが……ふふん……これは中々どうして、悪くない響きだぞ。是非ともそう呼んでくれ」


「……うん」


 髪を切り終えると今度は、風呂場に行こうという話になった。

 確か両親の逮捕後、病院で数日間保護されていた際にも俺は風呂に入れてなかったので、さくらはそれを気にかけて散髪を提案したのかもしれない。


 事前に用意していた着替えを手に、さくらは俺を連れて風呂場に向かった。


「お湯が染みるところは?」


 服を脱ぐと、そう聞かれた。俺の体には無数の打撲痕があったのでそのせいだろう。


「……分からない」


「ふむ、今日のところは軽く頭を洗うだけにしよう。さ、入れ。我が家の風呂は広いからな。二人で入るくらいが丁度いいと思っていたんだ」


 互いに一糸まとわぬ姿で浴室に入る。

 散髪のときと同じく、俺は鏡の前に置かれた椅子に座り、さくらが後ろから軽くシャワーを浴びせる形だ。


「湯加減はどうかな。熱いか、それとも物足りないか?」


「……分からない」


「そうか。君のことはおおよそ判ってきたよ。味覚と痛覚、それと羞恥心などを含めた根本的な感情の欠落。特に、痛いときに痛いと言えないのは大問題だ。まずはクラシックを聴く習慣でも付けるかな。と、すまない――後ろから抱きつくのは嫌か。けれど刃物に抵抗はないときた。まったく、歪んだ支配の鎖だ」


「……」


「今日の夕食にはローストチキンやケーキが並ぶ。我が家はそれなりに裕福だから、どれも味が保証されているよ。どうだ、食べてみたいと思うかい?」


「……分からない」


「だろうな。おそらく今の君は何を食べても美味しいと感じない。舌が肥えるとかそういう段階ではなく、食事の仕方から思い出さなくてはね。まずは回復食から。栄養バランスをきっちり管理し、基盤を整えよう。"好物"というカテゴリーを作るのはそのあとだ。数年経って、もし君の背が私よりも低かったら格好がつかないからな」


 それから二、三言会話をしながら頭を洗ってもらい、浴室をあとにした。


 渡された服に着替える。

 糸がほつれてなければ病院服でもない、綺麗にアイロンがけされた普通の服を着たのは、とても久しぶりのことだった。


 夕方になるとさくらの両親が帰ってきた。


「初めまして、白雪くん。留守にしていて済まなかったね。僕は十七夜月牧葉(まきば)。さくらのお父さんだよ。そしてこちらが――」


「初めまして。私は初蘭(そら)といって、さくらの母です。あなたは今日から家族の一員なので、共に助け合い、支え合って生きていきましょう」


 義父(とう)さんは病気のせいかとても線の細い体だったが、しかしその優しい声には芯があり、不思議と近くにいるだけで安心できる人。

 義母(かあ)さんは口調こそ丁寧なものの、表情や声はとても柔らかく、まるで木漏れ日のように儚くも爽やかな温もりを持つ人だった。


 夕食の時間になると、食卓には四つのおじやと小さくカットされたローストチキンが数切れ、野菜に包まれて並んだ。

 聞いていた話とは少し違うクリスマスの食事。それはさくらが義母さんに俺のことを話した結果だった。


 味が分からない。まずは食事の仕方から――だったら自分たちだけ美味しいものを食べるのは良くない。

 そんな風に話が運び、十七夜月家の人たちは俺に献立を合わせてくれたのだ。


 家族で食卓を囲み、共に手を合わせて食事を始める。

 これもまた俺にとっては初めての経験だった。残念ながら、味については何も分からなかったけれど。


「うん、僕はこっちのほうが好みかな。たまの贅沢も確かにいいだろうけど、大人になると何でも普通が一番だよ。できれば量も同じにしてもらえると助かるんだけど……」


「いけません。お医者様からも、もう少し食べるようにって言われたでしょう? それとさくら、せっかくの誕生日なのだし、あなたの食事は別のものでも……」


「言い出しっぺは私だ。私一人豪勢にというのも気が引けるからいい」


「すまないね。今日は特別な日だから、二人にプレゼントを用意するつもりだったんだけど、それも少しバタバタしてしまって。埋め合わせは必ずするよ」


「そういえばさくら、成績のことでまた先生が褒めていたわ。海外だったら飛び級で大学に入れるほどの天才ですって」


「賛辞は受け取るが、少し大げさだよ」


「そんなことはないさ。さくらは既にお父さんやお母さんよりずっと頭がいい。スポーツも音楽も、辞めてしまったのが惜しいくらいだよ。もちろん、さくらの意志は尊重するけれど、自分の能力に誇りを持ってみてもいいと思うな」


「……ああ、そうかもしれないね。ありがとう」


「白雪。今日は私の部屋で寝るといい。一緒に寝よう」


「……うん」


 食事を終えて歯磨きを済ませると、言われるまま俺はさくらの隣で寝ることになった。

 ベッドに入り、肌に触れるのは他人の温もり。

 違う――家族の、温もりだ。


 冬の夜。これまでは震える体を抱きながら、起きているのか寝ているのかも分からない時間が朝まで続くだけだったが、


「――なんだ君、泣いているのか」


 今は違う。一緒にご飯を食べてくれる家族がいて、一緒に寝てくれる家族がいる。

 ふと今日一日を振り返ってみた瞬間、何故だか涙が溢れた。


「いいぞ。そのまま泣くといい。泣けるのは心が生きている証だ。……ほら、特別に私の胸を貸してやろう」


 さくらは嬉しそうに笑みを浮かべながら、俺を抱き寄せた。

 部屋の明かりが消える。このまま寝てしまえということだろう。

 

「…………」


 暗闇の中、涙を流しながら言葉を探した。

 何を言うべきかは分からないが、何かを言わないといけない気がした。

 だけどどれだけ時間が経っても言葉は浮かばず、声は出ず――結局俺はそのまま眠りに落ちてしまった。


 一週間が経って、年が明けた。


 新年二日目。例年通りなら様々なところへ挨拶回りに行くという十七夜月家は、しかし俺を引き取ったことや、桐野江浅見(きりのえあざみ)の自殺があったことで今年はそれをキャンセル。

 家から一歩も出ないような、のんびりとした時間を過ごしていた。


 そんな中で俺は、今年の四月からこの町の中学に通うこともあり、さくらから勉強を教わっていた。


 小学校に通っていたはずなのに、"学び"とは無縁の生活を送っていた俺だ。

 案の定、学力に関しては教科によってはゼロ点を取るレベルだったのだが、そこは天才家庭教師十七夜月さくらの腕の見せ所。


 天才の教えと、言われたことをスポンジのように吸収する俺。

 その相性の良さもあって、俺の学力は飛躍的な向上を遂げた。


「ふむ……応用も含めて全問正解だ。きちんと理解できているな。ふふ、教えれば教えるだけできるようになるというのは教える側として大変心地が良いぞ。ご褒美だ、頭を撫でてやろう」


 この頃から、さくらは以前よりもストレートに愛情を注ぐようになっていた。

 おそらくは俺の中の、感情の受け皿ができあがってきたと判断したからだろう。


 彼女はたまにスキンシップを図り、俺の反応を伺っては、嬉しそうに微笑んでくれた。


「少し休憩にしよう。丁度見計らったように、先ほど持ってきたハーブティーがある。飲んでみたまえ」


「……うん」


「さ、味はどうかな、白雪」


「……美味しいよ」


「そうか。それはよかった」


「……でも、少しだけ……飽きたかも」


「――ほう。それは上等だ。その喧嘩、買ってやろう……!」


 さくらに腕を引かれた次の瞬間――俺の体は流れるようにベッドに放り投げられた。

 更なる追撃。

 さくらは的確に俺の弱点を見抜き、くすぐりを仕掛けてくる。


「……っ、あ、あは、お姉ちゃん……やめ……はははっ……!」


「ふはは、もっと笑え白雪! そうやって感情を表に出すことは何ら不自然なことじゃない! むしろ無理をして嬉しいのにそれを隠したり、悲しいのにそうじゃないフリをするのは心にとって――毒だよ……!」


 いつの間にか、馬乗りになられていた。


「――――」


 互いの心臓の音が聞こえそうな距離。垂れた髪が頬を撫でて、視界を狭める。

 俺の目には月光を纏っているかのような冷淡で美しい瞳しか映らず、さくらもまた、その眼で俺を見つめている。

 

「……うん。……ん、……笑えてる……?」


「ああ、よくできているよ」


「……お姉ちゃんも無理、してる……?」


「ん、どうしてそう思った?」


「……前に、褒められてたとき、嬉しそうじゃ、なかったから」


 そのとき、不意にさくらの呼吸が止まった気がした。

 珍しく目を見開いて、自分が驚いていることにすら驚いているような表情をしていた。



「――――――君は目が良いな」



「……?」


「私が君を、愛してるということさ」


 そして季節は流れ――春。桜の季節がやってくる。


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