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32話『天国への道は地獄で舗装されている』

 あれは、いつのことだっただろうか。


 雪が降っていた。部屋の中は明るく温かく、一方で外は暗く冷たい。その差異は窓に滲んだ壁を塗り重ねるほどだ。

 

 ――女に、背中から抱きしめられていた。

 温もりは感じない。女が元々、骨がそのまま生きて動いているような体だったこともそうだが、それ以上に。


「私ね、本当は君のこと産みたくなかったの」


 女は断固として愛を注ごうとしなかった。

 ゆえに熱など生まれるはずもない。


 大開口の窓が開かれる。空いた孔になだれ込むのは眼球が凍り付くほどの冷たい風。

 そして己の意志とは無関係に風に流されるままの白い結晶。


「大人になんてなりたくない。母親になんてなりたくない。だからそこから飛び降りて死んでくれないかなぁ。自分の足で、飛べるものだと勘違いして、堕ちて。ああ、堕ろしたかったな――」

 

 女は逃がさないようにと絡めていた腕をそっと離し、両手で背中を押した。

 その先はベランダ。浅く雪の積もった一寸先は闇の世界。

 

 境界線を踏み越えるとすぐに、後ろから窓を閉める音が聞こえた。


 ――もう、あの温かい部屋の中には戻れない。


 いいや、それは違うか。

 女は部屋の明かりを消して玄関から外に出た。これから男と暮らしている高級マンションのほうに戻るのだろう。


 つまるところ――これまで温かい部屋だと思っていた場所さえも、結局はこの世界と同じ。

 雪が積もるだけの静かで寂しい、孤独だけが在る場所だ。


 冬馬白雪(おれ)は十二歳まで、とあるアパートの一室で暮らしていた。


 リビングが一つ、寝室が一つ、風呂とトイレは別で家具はソファー、ベッド、椅子と机がワンセット。それだけ。

 たまに帰ってくる――否、時折訪れる両親だってそう長居しない、"何もない"が在る空間。


 そこで営まれていた俺の生活は、憎悪も慟哭も枯れ果て、落ちた葉っぱを踏み潰し粉々にするようなものだった。


「白雪。金、取って来たか?」


 学校から家に帰るなり、珍しくリビングで待ち構えていた男にそんなことを聞かれた。


「……、お父さん……、…………」


 恐怖を覚えながらそう呟くと、男はため息を吐きながら立ち上がり何食わぬ顔で俺を殴った。


「おいおい駄目じゃないか、何度言ったら覚えてくれるんだよ。なあ白雪、顔に出すな。なんだってそうだろう? 漫画でも映画でもテストの結果でも、先が分かってしまうことはとても退屈なことなんだ」


 以前は『お前は言いつけを守れない悪い子だから罰が必要だ』と前口上があった気がするが、今となっては体裁も何もないらしい。


 既にこれは父にとっても、俺にとっても、無論この光景を遠巻きに見ている母にとっても、極めて自然な普通の日常という認識になっていた。


「痛いか、白雪」


「い……痛いよ……お父さんっ……」


 俺が答えると、父はまるで獲物をしとめた獣のように勝ち誇った笑みを浮かべて、仰向けになった俺の腹に踵を押し付けた。


「いいか。幸せはいつか薄れて消えちまうものだが、痛みはいつまで経っても消えない。この痛みと共に脳に刻め。お前は俺の道具だ。俺の言いつけを必ず守る道具なんだよ。覚えたな?」


 父はさらに強く俺の体を踏みつける。


「ぐ……ぁ……あ……っ……!」


 まともに息ができなくなり反射的に身をよじらせるが、それでも激痛からは逃れられない。

 逆向きになった視界の中で俺は母に助けを求めた。声は出なかったが涙を湛えた瞳で精一杯の苦しみを訴えた。


「……」


 しかし母は迷惑そうに視線を逸らすだけで何もしてくれない。内心、このまま死んでほしいと思っているのだろう。

 母の本心はいつかあの雪の日に聞かされていたから、裏切られたような気はしなかった。


 意識は圧迫されたままの腹部に戻る。

 いつの間にか、俺の腹に押し当てられていたのは父の膝だった。

 窓から差し込む白日。逆光を受けて蛇のように迫って来たのは大きな手のひら。


「ッ……う、ぐ…………ッ、ッ……‼」


 首が絞められていた。

 すべての音が遠のいていく。眩暈がする。頭が熱い。息ができない。

 もう限界だ。俺はここで窒息死するんだ――そう思った思考すら霞んだ次の瞬間、父は少しだけ手の力を弱める。


「どうして今日、失敗した?」


「ま、前に……一度、失敗したから……みんな……ッ……ずっと、見てて……」


「そうだ。今回の失敗は前回のお前の失敗が招いたものだ。偶然不幸重なって駄目だった、なんてことはないんだよ。すべてはお前の努力不足――頭を使え、白雪。でなきゃ俺もあいつも、お前が生まれてきてよかったとは思わないからな?」


「……ッ、ご、ごめ、んなさい……ごめ……なさい…………!」


「だから頭を使えよ。俺はなあ、お前が小賢しくも少しはマシな言い訳をしてくれたら、俺を騙そうとしてくれたら、その心意気は評価するつもりなんだぜ?」


 再び俺の首が絞められる。


「ごめ、ごべッ……ん、……ざい……ッ、ごめん……な……ぐ、あ……‼」



 ――父は、力を持った人間だった。


 

 目立たぬよう細く引き締められた肉体もそうだが、その知能の高さからくる『他人を騙す才能』が父の一番の武器だ。


 児童の虐待など本来ならば簡単に露呈するはずだが、それが何年も見過ごされてきたのは間違いなくその武器があったからだろう。


 事実を巧妙に隠し、万が一にも疑いを持たれれば別の真実を作り、周囲から必要以上の関心を持たれぬように振舞い――それこそ能ある鷹は爪を隠すと言わんばかりに、父は路傍の石のように気にも留められない存在に擬態していた。


 ゆえに両親の生活が俺の暮らすボロアパートではなく、高級マンションの最上階で営まれていたことを知る人間は皆無だった。


 冬馬家は仲の良い両親と手のかかる子供を抱えたどこにでもいる普通の家族。という完璧な外面のもと、父は俺への『教育』をおこないながらも、自らの仕事を着実にこなしていた。


 それまでも、それからも。

 詐欺師として多くの金を奪い、他人を騙しては己の糧としていたのだ。


 それはまさしく才能。

 致命的に教養が足りず、倫理観に欠けた強大な力だ。


 そんなもの今の俺に言わせれば品性のない暴力でしかないが――当時の俺ではせいぜいが疑問を覚える程度で、反旗を翻すには至らなかった。


 むしろ父はそれすら見抜いて、余計に厳しくなった節もある。


 殴られるたび、蹴られるたび、家の外に追い出されるたび、狭い押し入れに閉じ込められるたび、食事を禁止されるたび、風呂に入ることを禁止されるたび、人が人であるために必要なものを取り上げられるたびに――やがて俺の心は置いていかれた。


 久しぶりに食べたご飯の味が分からなくなった。

 久しぶりに浴びたお湯の熱が分からなくなった。

 そのうちになにもかもが狂い始めた。


 唯一正常に働いていたのは痛覚だけ。

 よりにもよって一番消えてほしいものだけが俺の中に残った。


「次こそは、『お前は生きてていいんだ』って言わせてくれよ。なあ、白雪」


 そう言って父は、それに依存する母は、俺をこの冷たい牢獄に置いていく。

 これが冬馬家の日常。

 血の繋がった家族の、消したくても消せない記憶の一端――。


 帰るべき場所には果てのない苦痛と孤独しかなかった。

 なら外での生活はどうだったのかといえば、残念ながらそれも平穏とはかけ離れていた。


 ――十歳になったその年ある日、俺はクラスメイト数人のランドセルから徴収される予定だった給食費を盗んだことがある。


 理由は父の『教育』の一環だ。

 確かこんな会話があった。


「お前のとこの学校、まだ給食費手渡しなんだよなぁ。いけないね、盗んでくれと言わんばかりだ。丁度いい。お前ちょっと盗んでこい」


「で、でも……お父さん、お金、沢山持ってるのに……」


「馬鹿。金が欲しいわけじゃねぇ。いいか、これは試験だ。どうやって人のものを盗む? 疑われたときどう言い逃れする? そして――人はどうやって倫理の壁を超える? 俺はそれを見たいんだよ」


 従わなければ待っているのは暴力。

 行動を起こさないという選択肢はなかった。


 俺は言われた通りに金の入った封筒を盗んだ。が、それはすぐに露呈した。

 当然だ。あるはずのものがないとなればクラス中が騒然とし、すぐに所持品の検査がおこなわれる。

 

 無論封筒は俺の持ち物から見つかった。

 

 まともな言い訳を用意できなかった俺は、生徒指導室に連れていかれた。


 当時担任だった女はまだ若いが仕事熱心で子供たちからも好かれており、心の清らかな善人だった。


 何か事情があるのかと優しく尋ねられ、俺は耐え切れずに『父親に命令されたから』と正直に答えた。


 彼女はすぐに家庭訪問という形で父と会ってくれたが、しかし詐欺師である父にとって女を騙し、金を奪い、その身も心も手中に収めるのは造作もないことだ。


 数日もすれば彼女は父の愛人となっており、俺を本妻の子供だからと邪険に扱うようになった。


 俺のせいで一人の善良な教師が――その清き人格が失墜したのだ。


 事件後の周囲の俺に対する認識は、クラスメイトから金を盗み、その責任を父親に擦り付けようとした最低な子供という風になっていた。


 教師という味方を失い、両親は周囲から同情を集め、俺だけが悪者にされた。


 家庭だけならず学校生活もが崩壊し、破綻した瞬間だった――。


「おい今日も泥棒がのこのこ学校に来てんぞ!」


「早く逮捕されちまえよ冬馬!」


「みんな給食費守れよ! あいつに盗まれちまうからな!」


「くせぇんだよ! 近寄んな!」


 背負ったランドセル越しに背中を蹴られて、床に叩きつけられた。痛かった。

 左右からは絶え間なく悪口が飛んできた。痛かった。

 暴力を振るわれた。痛かった。

 いつの間にか端のほうに追いやられた落書きだらけの机も、勝手に持ち出されて破かれた教科書も、すべてが痛かったし、痛々しかった。


 泣きたくなるほどに辛く苦しい現実。

 しかしこの頃にはもう涙など出なくなってしまった。

 痛みは当然のようにあるけれど、痛いと声を上げられなかった。


 それが周囲からは平気な素振りをしているように見えて、余計に反感を買った。


 救いのないどん詰まりの日々。

 どこで何をしていたって俺に居場所なんてものはなく。

 そして手を差し伸べてくれる人もいなかった。


 ――いや、思い返してみれば一人だけいたな。

 アパートで隣の部屋に住んでいたお婆さん。あの人だけは毎日のように怪我をして帰ってくる俺を見て、両親や学校に抗議してくれたのだ。


 だがその数日後、俺は道端で父に背中を押され、その勢いでお婆さんを突き飛ばして怪我をさせた。


 俺はすぐに謝った。父に背中を押されたのだと正直に話した。

 けれどお婆さんは言い訳ばかりする俺に対し、恩を仇で返されたのだと思ったのか結局すべては振り出しに戻る。


 否。学校外からの苦情は八方塞がりの現状をさらに悪化させる要因になった。


 半年もすれば同級生のみならず上級生からもいじめを受けるようになり、教師もそれを見過ごし、場合によっては参加することもあり、学校とその周辺地域の共通認識として『冬馬白雪』は石を投げてもいい存在――投げられるべき存在だった。


 まともに授業を受けることもできず。

 家に居ても両親はほとんど帰ってこない。

 もし帰ってきても暴力を振るわれるだけ。


 いつからか料金が支払われなくなり電気もガスも止められて。

 唯一の食事である給食も、床に落とされたものを食べるのがほとんど。


 熱が出ても暗い部屋の中で一人。

 死にたくても父はそれを許さず。

 俺に寄りそってくれるのは孤独と、痛みと、凍えるほどの寒さだけだった。


 そんな僅かに残った痛覚をも摩耗させるだけの日々が、二年ほど続いたある日。



 ――転機が訪れた。



 小学生最後の冬休みを目前に控えた十二月。富樫健三(とがしけんぞう)による冬馬夫妻殺害未遂事件が発生した。

 事の顛末を俺は既に一度語っている。


 富樫は桐野江浅見(きりのえあざみ)という警官にやむを得ず射殺され、事件が注目を浴びたことにより俺の両親は逮捕された。 


 その後、桐野江浅見は発砲を問題視する世間と、それに同調する警察上層部からのバッシングを苦に自殺するのだが――しかしその直前、同じく警官であり彼の結婚相手だった桐野江涼子(りょうこ)がアパートの一室で倒れていた俺を発見した。


 搬送先の病院での診断は栄養失調。それに加えて俺の体の傷を見た涼子さんは、すぐに虐待の事実に気付いた。

 同時に俺の引き取り手が施設しかないことにも。


 彼女は身寄りのない俺を引き取ることに決めた。

 しかし、その手続きの最中に夫の自殺が判明。

 俺は桐野江家ではなく、涼子さんの妹夫婦のもとへ預けられることになった。


「――ああ、涼子が言っていたのは君か。これは中々どうして傷ついているね。まあそう辛気臭い顔をするな。ここに君を傷つけるようなやつはいない。そうだ君、何かお願いごとはあるかな」


 それが十七夜月(かのう)家。

 壊れた心を抱えた俺が行きついた、人としての在り方を取り戻すための楽園。


「かつて、十五夜から二日後の夜月に祈りを捧げると、願いが叶うという言い伝えがあったらしい。だから十七の夜に月で(かのう)と読むそうだ。どうかな、白雪。君の新しい苗字はとてもロマンチックで、どのような願いだろうと――心の底から望めば一度くらいは叶ってくれそうじゃないか?」


 俺がゆっくり顔を上げると、銀髪碧眼の少女は天使のような微笑みを浮かべて言う。



「私は十七夜月さくら。そして君は十七夜月( かのう )白雪(しらゆき)――今日から私たちは家族だ」



 こうして五年前の十二月二十五日、俺は彼女と運命の出会いを果たした――。


十七夜月さくら編、開幕。

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