9話『何をするにも準備は必要で』
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話を終えた俺は、田中直紀と共に昇降口へと向かった。
そこに人を待たせているからだ。ついでにというとあれだが、ちょっとしたお使いも頼んである。
西校舎の端から東校舎の一階へ。
東西を結ぶ廊下を進むと、気怠そうにスマホを弄っている彼女の姿が見えた。
「え――美原さん……? どうして……風邪で休みなんじゃ……」
隣に並ぶ田中が、困惑の声を上げる。
それもそうだ。彼はさっき俺から、夏野は今日風邪で休む、と聞いたばかりなのだから。
しかし彼女はここにいる。つまりは。
「悪いね、さっきのは君の罪悪感を煽るための嘘」
「…………」
俺と田中の姿に気付いた彼女――美原夏野は軽く手を振った。
「はよー、つかアサイチで呼び出し&パシるとかマジ何なん? ま、いんだけどさ、昨日はジャージ助かったし……んで、なぜ田中くんもご一緒してる感じなんすかね。え、二人知り合い?」
意外にも、自分を裏切った男に対する夏野の対応は柔らかい。
怒っている気配もないし、本人的にはもう割り切っているのだろう。
「いや、さっき会ったばかりだよ。でももうすっかり友達」
俺は笑顔を浮かべて田中の手を取って、無理やり握手する。
「…………あ、はい」
「いやいやめちゃ気まずそうにしてんじゃん。おもっきしカツアゲの加害者と被害者みたいな感じじゃん。会ったばっかなのは分かったけど何したんだっつの」
バレたか、という風に目線を逸らした俺は、とりあえず本題に入ることにした。
「……あ、あの……」
のだが、意外にも田中が夏野に声をかけた。ので、見守ることにする。
「美原さん……僕、その……ごめん。君のこと好きだって言ったのに……最低なことした。……本当にごめんなさい」
深く頭を下げる田中。無論、これで夏野の苦しみのすべてがなくなるわけではないだろう。
けれど必要なことだ。
例え、自分勝手だと思われても、伝えないよりはずっといいはずだと俺は思う。
一方で突然の謝罪を受けた夏野は、持っていたスマホをブレザーのポケットにしまい、困ったように腕を組む。
「あー……ま、別に。気にしてないつったら嘘になるけどさ。田中くん責めてもなんも変わんなくね? だから、その、もうどうでもいいっつーかさ。……顔、上げなよ」
「……うん」
「あー、そうアレアレ、ただ一個だけ言わせてもらえんならさ。ごめんけど、田中くんのこと、恋愛対象……としては見れないから。ソコだけハッキリさせとくから。そゆことで」
「……うん」
田中は深く頷いてそれを受け入れた。
これから二人の仲が深まることはおそらくない。だが、そこに開いた大きな溝がこれ以上広がることもないだろう。
これが彼の再起の一歩になる。はずだ。
「――じゃ、話が済んだところで。夏野、制服触っていい?」
「は? いや、は? え、ちょっと、どういう思考回路してたらそういう話になんの? ウチらがシリアス展開やってる中、なに自然にセクハラしようとしてんの?」
「まあそう言わずに。さ、気楽に、リラックスして」
「悪徳マッサージ師かよ。え、や、ふつーに嫌なんだけどって――――ひゃあ⁉」
有無を言わさず俺は夏野のスカートに手を伸ばした。
次にブレザーの腰回り。一応内側にポケットがあるかも確認。
なるほどね。
「意外とかわいい声出すね。ありがとう。ああそういえば、頼んでおいたものってある?」
「……人の体まさぐっといてなんその態度。はいはい、ありますよありますよ」
露骨に不機嫌になった夏野は、ジト目のまま鞄の中からビニール袋を取り出した。
「これこれ。ナイスチョイスだよ。値段は?」
袋の中から取り出したのは、古き良き液体のり。
さきほどメッセージを送り、購買で買ってきてもらったのだ。
「いや一応お礼? 的なやつの一つだからお金はいんだけどさ。……ソレ、何に使うん」
「秘密」
俺は鞄の中からノートを取り出し、一枚切り取った。
それからペンでメッセージを書き、それを田中に渡す。
「これ、誰にもばれないように七瀬七海の机に入れてくれる?」
「え、ぼ、僕が……?」
「大丈夫、君ならできる。いいね?」
「……うん、分かった」
これで準備の半分はできた。
あとは、あまり巻き込みたくないがあいつにも協力を頼んでみるか。
「よし、それじゃあ後は俺に任せてくれれば――」
「そこの生徒、そろそろホームルームが始まるぞ。教室へ行きなさい」
全部うまくいく――そう言おうとしたところで横やりを入れられた。
声をかけてきたのは長身の男教師。
確か入学式のときに一度見たな。
何の教科の担当かは不明だが、穏やかな声で清潔感があって顔も悪くない。女生徒に人気のありそうな先生といった印象だ。
「あ、す、すみません。もう行きます」
「……さーせんしたー」
真っ先に田中が反応し、夏野もそれに続く。
俺は二人に先に行くよう目配せして、男教師と向かい合った。
「あの、先生ってどの教科の担当で?」
「ん――音楽だが。そうか、君は新入生だね。私は八木原だ。一年生は来週から選択科目で授業があるから、興味があったら選んでみてくれ」
「ええ。一年三組の冬馬です。握手とかしても?」
「ああもちろん、構わないよ」
手を出して握手を求めると、彼は快く応じてくれた。
八木原が手を伸ばす。――その瞬間、微かに甘い匂いがした。
「どうも。それじゃあ失礼します」
八木原――か。
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「おはよう」
一年三組の教室に入った俺は、前の席で友人である高砂楓に挨拶をする。
「おーっす。なんだ、今日はばっちり目覚めてんな」
「まあ、ちょっとね。それは?」
「数学のプリント。お前もどうせやってないんだろ。一限目で使うんだから早めに消化しといたほうがいいぞ」
傍から見た感じ、進捗状況は五十パーセント。正解率はまちまちのようだ。
「あー、それ、代わりにやろうか?」
「え? いやいいよ。嬉しい申し出だけど、こういうのは自分でやらないとな」
「清々しいほどの正論だ。……分かった、正直に言うと、頼みたいことがある。その見返りとしてプリントをやろうかと提案したんだ」
「だと思った。で、頼みごとってのは?」
「悪いけど事情は言えない。でも放課後、ちょっとスマホを貸して欲しい」
それを聞いた楓は、手を止めて俺のほうへ振り返る。
視線が交錯して一秒、二秒。楓は爽やかな笑顔でこう言った。
「分かった、いいぞ。けど、条件はこっちで決める。いいか?」
「とりあえず聞こうか」
「話は簡単。スマホは貸す。困ってるなら助けるのが俺の性分だ。けど、俺のスマホが何に使われるのかは把握しておきたい。だから……全部話してくれ」
眩しいな。ああ、どうして高砂楓という男は、こうもまっすぐなのだ。
「……分かった。頼む、力を貸してくれ」
「ああ、任せろ!」
よし、これで準備は整った。
今日中に七瀬との決着をつけようじゃないか。