1話『冬馬白雪という少年』
✿
春。四月七日。気持ちのいい陽射し。澄み渡る青空。
あいにく、先日の雨で桜は散ってしまったようだが、だからといって何か特別な影響があるわけでもない。ただ今日という日を彩る色が一つ欠けただけ。
「――――あ」
知っているだろうか。人間の心理というのは面白いもので、例えば、起きたときに。
――『今日は気分がいい。素晴らしい一日になる』と思ったパターンと。
――『今日は憂鬱だ。きっと嫌な日になる』と思ったパターンで。
なんとその日の勉強や仕事の作業効率が変わるらしいのだ。
ポジティブとネガティブ、それぞれの気持ちに体が引っ張られるというべきか。
病は気から。という言葉があるように、人間は案外、気の持ちようで体をコントロールできる。
だが無論、それは絶対というわけではない。
例えばポジティブになっているところに、不運にも嫌なことが重なってしまった場合、過剰に嫌な思いをすることだってあるだろう。
それとは逆に常にネガティブだったおかげでつらいことにも耐えられるようになる。そういうことだってある。
だから結局のところ、いちいちそんな面倒なことは意識せず。
『今日は良い日かもしれないし悪い日かもしれない』――それくらい気楽に生きていくことが一番。かもしれない。
俺――冬馬白雪は坂を転がりながら、そんなことを思う。
今日は高校の入学式。前夜は気分が高揚してしまいどうにも眠れなかった。
けれど案外、目を閉じて横になるだけでも体を休めることはできるものだ。
だから翌日のことも考えて大人しくそうしておけばよかったものを、結局読書をしたりなんだりをして、朝五時には紅茶を嗜み、買っておいたコンビニのサンドイッチを食べ、そのまま朝早く家を出ることにした。
結果――気分も悪くおぼつかない足取りだった俺は、何もないところで転んだ。
しかもよりによって、河川敷近くの土手でだ。つまり転んだ先は坂。
とっさに反応することもできずに宙へ放り出された体。
落下は回転へと変わり、草と土の匂いを味わいながら傾斜に身を任せるしかなかった。
朝食のサンドイッチと紅茶が胃の中でシェイクされ、意識が危うく遠のいたところで、やっと平らな地面に辿り着く。
「…………ぐぇ、吐きそう」
草の匂いは気分をリラックスさせるときもあれば、泥臭さも相まって気分を悪くさせることもある。
今回は後者だ。
時刻は午前七時前。まだ登校する生徒やほかの入学者は通りかからないが、いつまでも寝転がっていて恥を掻くわけにもいかない。
ぼやけた視界を頼りに、立ち上がろうとして――、
「っ――」
立ち眩みを起こす。
自分の体がまるで意志を持たない人形のように弛緩して、土下座でもするように膝をついた。
そのときだった。
「――おい、大丈夫かね。君」
温かい春風に混じる甘い香りと、耳にすっと馴染む透き通る声。
見上げると坂の上に制服を着た女の子がいた。
次に見えたのは、風によって布が捲られ、見上げることで視界に入ってしまったスカートの中身。
「……黒……」
思わず声に出てしまったが、幸いそれが相手に聞こえることはない。
俺がふらつきながらも再び立ち上がる素振りを見せると、女の子は颯爽と坂を下ってくる。
「遠目に坂を転がる君が見えたものでね。ふむ……怪我はないようだが顔が真っ青だな」
優しく声をかけてくれる女の子。
蠱惑的な切れ長の目に、切りそろえた前髪、流れるような黒い長髪で、その立ち振る舞いは堂々としていて凛々しい。
白を基調としたブレザーがとても似合っていて、胸が大きく、身長はおそらく百六十五センチ。
体重は――と、それ以上は考えないようにする。
「助けに来てくれてありがとう。……少し寝不足で」
すっかり汚れてしまった制服を叩きながら、そう答える。
まあ男子の制服は女子のものとは逆に黒色が基調となっているから、多少掃除すれば目立たないだろう。
「そうか。そんな状態なら今日は休んだほうがいい、と言いたいところだが、ウチの制服を着ているのに見ない顔だな。もしかして新入生か?」
「……ええ」
「なら休むわけにはいかないな。ほら、飴ちゃんをやろう。糖分を取れば少しは良くなるはずだ」
「これはどうも。ところで貴女は生徒会長?」
「む……確かにそうだが。なぜ分かった?」
「はは、続きは上で」
坂を少し登ってから、女の子に手を差し出す。
付き合わせたせめてものお礼にと、できるかぎりのエスコートをした俺は、さきほど貰った青りんご味の飴をひょいと口に入れて、種明かしを始めることに。
「こんなに朝早く登校する学生は普通、部活の朝練があるとかだけど、貴女は鞄以外持ってないから少なくともスポーツ系ではない」
「ほう」
「もちろん、文化系の可能性もあるけど、貴女は俺の顔を見たことがないと断言したね。だから普段から生徒の前に立つとか、とにかく顔を見る機会がある人だ。そしてその堂々たる立ち振る舞いと黒パンツで……、」
しまった、と思ったが既に遅い。
どうやらまだ脳がうまく動いてないらしい。おかげで言わなくてもいいことを口走ってしまった。
「……それで?」
「それで?」
「今日私が履いている黒いパンツがどうして生徒会長に繋がるんだ。さあ続けてくれ」
意外な返答だ。てっきり怒られると思ったのだが、会長様の声音が重くなることはない。
むしろ先ほどより少しだけ高くなっている。
もしやとは思うが、パンツを見られて喜んでいるのだろうか。
「あー……黒い下着を身に着ける女性は一見クールなようでとても情熱的。つまり貴女は度胸があり情熱があり冷静、リーダーに向いているタイプだ。だったら生徒会長かもしれないなと思って、鎌をかけた」
そうだ。何も俺は、この女の子が生徒会長であると断言したわけではない。
ただそうかもしれない。そうである可能性が高いと感じたうえで、臆せず言葉にしただけ。
「なるほど……君は鋭い洞察力とそれを生かせる知識を持っているわけだな」
「外れたら誤魔化して別の話題に、当たれば相手の関心を惹ける。やろうと思えば誰でもできるテクニックさ。もっとも、使うのは詐欺師とか狡賢いヤツだけで、俺はそういうのを知る機会があっただけだよ」
自嘲するような俺の声に、会長は柔らかく笑った。
「私には無理だ。それは君の才能だと思うがね。……ところで話は変わるのだが、さきほど君が見た私の下着だが、わ、忘れてくれると助かる」
なぜ掘り返す。
しかも後半、赤面しながら恥ずかしそうに――って違う。よく見なければ分からないが、会長は恥ずかしがっているように見えて、口角が少し上がっているではないか。
それが何を指すか。
会長は生徒の顔を覚えるほど記憶力が良い。ということは真面目で成績もいいはずだ。
それでいて会長職はストレスが溜まるだろうし。何より生徒代表。
状況によっては男らしく強気に振舞うこともあるだろう。
そういうタイプは大方、性欲が強いと聞いたことがある。
それで下着を見られて嬉しそうにしているということはつまり――この人、ドMの疑惑があるな。
むしろ俺の中で九割はそうだという確信がある。
一応、名誉のために残りの一割は曖昧にしておくが……。
「もちろん。不本意とはいえ、恥ずかしい思いをさせて本当にごめん」
とりあえず当たり障りのない返事をしておく。
「……うむ。まあ、気にするな」
露骨に残念そうな声を出した会長だった。
と、入学初日から生徒代表の思わぬ個性を知ってしまったが、いい出会いだったことに変わりはないだろう。
気付けば今日から通うことになる私立桔梗高等学校の校門が差し迫っていた。
周りには道に沿って植えられた桜の木。ひと月ほど前ならきっと、綺麗な桜並木が見れたのだろう。
今ではすっかり散ってしまい、地に墜ちた花びらには虚しささえ覚える。
「さ――着いたぞ。ようこそ、我が校へ。ここはあらゆるものを受け入れる。良いやつもいれば悪いやつもいる。だがいずれにしても君に青春を与えてくれるに違いない」
入学式。そう書かれた看板の隣で、会長は綺麗な黒髪を風に靡かせながら、俺に手を差し伸べた。
「名乗るのを忘れていたよ。私は三年、生徒会長の風見織姫だ。よろしく」
微笑む織姫に合わせて、俺も表情を柔らかくして右手を出す。
「――冬馬白雪。これからよろしく、織姫先輩」
「白雪……ふむ、ロマンチストな名前だな。嫌いじゃないよ」
握手は果たされた。
それから織姫は入学式で行うスピーチの原稿確認があるとかで生徒会室へ向かい、一方で俺は校内を見て回ることにした。
式の開始は十時。さすがに早過ぎた。受付の人もいなければ生徒も見当たらない。
静寂――華やかな日々の始まりというよりは、むしろ終わりのようにも思える。
しかし今日から俺の一年遅れの高校生活が始まることに間違いはない。
――君に青春を与えてくれるに違いない。
不意に、数分前の織姫の言葉が脳裏をよぎった。
「青春、か。……きっと今日も、良い日じゃない……」
誰に対してでもないその呟き。
声音は重く、低く――そして桜の散った景色を見つめる瞳は、きっと虚ろだった。
よければブックマーク登録、感想、評価等していただけると幸いです<(_ _)>
続きが書けるきっかけになります……!